[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
今回は、志向性に限らず、意識や表象について考察するときの、一般的なアプローチ方法について考えてみたいと思います。
以下は、意識と言語の発生に関する私のまったく思弁的な予想です。
<意識は、おそらく探索とそれに対する発見によって始まると思います。動物の起源とも始まる、見かけ上の探索と発見のプロセスではなく、意図的な探索とそれに対する発見が、おそらく意識の成立になるのです。これは非言語的な探索と発見において成り立つことです。
これに対して言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>
この予想をなんとか証明したいと思いますが、前途は多難です。意識や言語の起源についての研究で有用なのは、(言語学と言語哲学における)言語の意味論と語用論の研究、(生物学と心理学と社会学における)行動や行為の研究、脳神経科学における神経ネットワークの研究であります。
この場合、内省による意識研究は有効ではないと思われます。何故なら、考察が曖昧で混乱したものになってしまうからです。しかし、言語の起源の研究はともかく、意識や表象の起源の研究をするときに内省による研究を除外するというのは、変に思われるかもしれません。なぜなら、意識や表象の起源を研究するということは、意識や表象の存在を認めているからであり、意識や表象が存在することは、内省によってのみ確実に知ることができるように思われるからです。
しかし、意識や表象を持つことを、内省によって知るとしても、それについての語れることが必要です。デイヴィドソンは、自分の心の内容についての一人称の知識が、自分だけが、また自分の内省だけでそれにアクセスできる特別な知識だとは考えません。彼は知識を次の3つに分けます。
①自分の心の内容に関する知識
②世界内の対象についての知識
③他人の心の内容に関する知識
そして、これらは、どれも他の二つの知識に依存していることを指摘します。
③は、他人の行動を知ることによって得られるので、②を前提する。また③は自分の心と行動の関係からの類推によって知ることができるという面を持つので、①も前提します。
②の真理性は、その真理性についての他者とのコミュニケーションによって、知られるので、①と③を前提します。
①もまた、②と③を前提します。
「われわれ自身の心の命題的内容についての知識は、他の形態の知識がなければ不可能である。なぜなら、コミュニケーションなしには命題的内容は存在しないからである。またわれわれは、自分が何を考えているかを知っているのでなければ、他人に思考を帰属させることができない。なぜなら、他人に思考を帰属させることは、他人の言語的その他の行動を、われわれ自身の命題ないし有意味な文と、対応づけることに他ならないからである。こうして、自分自身の心に関する知識と他人の心に関する知識は相互依存的である。」(デイヴィドソン「三種類の知識」、デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、329)
①②③について、このうちの一つを獲得するためには、他の二種類の知からその内容を確定する必要がある。それを「三角測量」(同訳、328)と名付けた。
デイヴィドソンのこの三角測量の議論は、私には十分に説得力があるように思われます。これを受け入れるならば、意識や表象の存在を認めるとしても、意識や表象が存在することは、内省によるだけで確実に知りうることではないことになります。
自分の心についての知るには、他者とのコミュニケーションが必要ですが、しかし、自分と他者が、意識や表象について、内省し、その内省の内容についてコミュニケーションするだけでは不十分です。①が成立するには、③だけでなく、②も必要です。つまり言語行為や身体行為や社会的行為や神経ネットワークついての知識が必要だということです。
さて、以上を踏まえて、志向性について考えようとするとどうなるでしょうか。