43 志向性の別の分類方法 続き (20210416)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回説明した志向性は次の4種類でした。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

この分類にかけているもの一つは、「願望」です。願望とは、事実がある状態であってほしいと思うことです。その事実が、過去の事実であるか、現在の事実であるか、未来の事実であるか、によって「願望」を分けることができます。それらを順にみたいと思います。

<過去の事実>に関して、ある状態であってほしいと願う願望には、反事実的な願望とそうでない願望の二種類があります。例えば、TVを見てしまったが、TVを見ずに勉強しておけばよかったと思うとき、それは、過去についての「反事実的な願望」です。しかし、過去についての願望は、反事実的であるとは限りません。たとえば、ダメットの有名な「酋長の踊り」の場合がそうです。村の若者達が狩りに出て、村に戻ってくる途中だと思われるときに、酋長は狩りの成功を願って踊るのです。酋長の願いは、若者たちの狩りが成功であったということです。しかし成功であるかどうかは酋長が踊っている時にはもう決まっているはずです。しかし酋長は結果を知らないので、成功であったことを願っているのです。この願いは反事実的な「願望」ではありません。しかしこれもまた過去の事実に関する「願望」です。

 <現在の事実>に関しても、このような二種類の「願望」があります。トレーニングしているとき、もっと筋肉があればなあと願うのは、「反事実的な願望」です。これに対して、壺の中のサイロが丁か半かのどちらかにすでに決まっており、私がすでに「丁」にお金を賭けているとしましょう。私が「丁」であることを願うとき、これは反事実的ではない「願望」です。

 <未来の事実>に関する「願望」にも、反事実的願望とそうでない願望の二種類があります。未来は未定なのですが、6時間後には日付が変わることがわかっています。それにも関わらず、まだ今日17日中に送るべき資料ができそうにないときに、明日もまた17日が繰り返すことを願うとすれば、それは未来の事実に関する「反事実的願望」です。それに対して、12時までに資料を仕上げられることを願うとき、それは反事実的ではない「願望」です。

 前回の分類に欠けているもう一つのものは、「想像」です。「想像」にも、適合の方向を持つ「想像」と、適合の方向を持たない「想像」(サールが「想像」と呼んだもの)の二種類があります。

 適合の方向をもつ想像とは、事実についての想像であり、過去や現在や未来の事実についての推測ないし予測になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが加わると、それは上述の「願望」になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが伴っていないとき、その想像は、単なる事実の予測ないし推測になります。つまり、適合の方向を持つ「想像」は、「願望」と、「単なる予測や推測」に区別できます。ただし、この二つの違いは、願望が伴う「塑像」であるか、願望が伴わない「想像」であるか、という違いだけではありません。

「願望」の場合には、それが生じるだろう(生じていただろう、生じているだろう)という予測が伴わない場合があるからです。例えば、パンをうまく焼けるだろうという見込みが全くなくても、それを「願望」することはできるからです。

 単なる予測や推測の場合には、その内容がよいことであれ悪いことであれ、それが生じる可能性がある程度あるという信念が伴います。つまり、それが生じると信じる根拠が

 サールが言う適合の方向を持たない「想像」は、言語行為でいうと、命題行為に伴う心的状態であるように思われます。同一の命題行為は、異なる発語内行為を結合して、異なる発話を構成します。それと同様に、適合の方向を持たない「想像」は、適合方向を持つ志向性と結合して、志向性を持つ心的状態を構成するのではないでしょうか。

 前回述べた4つの志向性、今回のべた「願望」、適合の方向を持つ「想像」、これらの志向性から適合に関するコミットメントを除くと、適合の方向を持たない「想像」が残りそうです。

この想像の内容は、知覚的イメージと命題内容の二種類に分けられるでしょう。(ただし、英語の場合には、「想像」には、この二種類の内容におうじて、imaginationと、thought (guess) に区別できるかもしれません。)

 発話がどのような発語内行為を行うかは、その発話の相関質問において既に指定されています。

     ?pという一種類の質問に対して、┣(p)、!(p)、C(p)、E(p)、D(p)

という異なる発語内行為の返答が可能なのではなくて、質問発話は、文脈などによって、すでにどのような発語内行為の返答を求めるのかを示しているはずである。それゆえに、相関質問は、次のように表示されるはずです。

   ?┣(p)、?C(p)、?E(p)、?D(p)

(これについては、『問答の言語哲学』「第三章」で説明しましたので、ご覧ください。ここでは、その議論を、「志向性」に拡張しようとしています。)

志向性についてもこのようになるはずです。志向性もまた、問いに対する答えとして成立します。なぜなら、志向性の「ついて」性は、ある事柄に注目するという性質であり、それは問いに対して答えるということによって可能になると思われるからです。

 志向性がこのような仕方で問いの答えとなること、あるいは、問いの答えが、このような仕方で志向性を持つことを確認できたとしましょう。それでは、志向性は推論とどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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