[カテゴリー:問答の観点からの認識]
(長く中断してすみません。考えあぐねていました。93回~95回の議論を仕切り直して、もう一度論じたいと思います。論じたいのは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」です。なぜなら、問答推論に着目して認識論を論じようとするならば、認識が成立するとは、問いに対する答えが真となるということに他ならないからです。この問いに取り組前に、今回は準備段階として、語、文、問答などの学習がどのように行われるのかをセッツ名したいと思います。)
#語と対象、文と事実、問答推論、などの学習
<語の学習は対象の学習と不可分である>
語「リンゴ」の学習は次のような問答によって行われるでしょう。
「これはリンゴですか?」「これはリンゴです」
「これはリンゴですか?」「これはリンゴではありません」
学習者がこのように問い、教師役のひとが このように答えを教えてくれます。このような問答を多くの対象について学習します。。それに基づいて、まったく新し対象について「これはリンゴですか?」と自問したり他者から問われたりしたときに「これはリンゴです」とか「これはリンゴではありません」と正しく答えられるようになった時、語「リンゴ」を学習したと言えるでしょう。
この時同時に、私たちは対象<リンゴ>が何であるかを学習しています。オースティンが指摘したように、語の学習と対象の学習は、同一のプロセスで行われる(注、オースティン「真理」信原幸弘訳、『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、191)。語「リンゴ」の学習と対象<リンゴ>の学習は不可分であり、同時です。つまり<語の意味の学習と語の指示対象の学習が不可分です>。(これは、フレーゲのSinnとBedeutungに対応します。)
<語の学習は、文の学習と不可分であり、さらに問答の学習と不可分です>
このような語と対象の学習において、同時に、「これはリンゴですか」という疑問文で問うことの学習と、「はい、これはリンゴです」あるいは「いいえ、これはリンゴではありません」という平叙文で答えることの学習も行っています。それゆえに、語「リンゴ」の学習と文「これはリンゴである」の学習は不可分に結合しています。「リンゴ」を学習するには、「これはリンゴである」がどのようなとき使用できるのか、どのようなときに使用できないのかを、学習する必要があります。そして、これを学習するためには、上記のような問答が必要です。それゆえに、語の学習は、文の学習だけでなく、問答の学習とも不可分に結合しています。
<この問答を学習するには、どうすればよいのでしょうか>
この問答の学習には、二種類のケースがあります。
一つの場合は、この学習が「これは、…ですか」とか「これは…です」のという一般的な形式の理解を前提として、この…に「リンゴ」を入れた疑問文や平叙文の理解として生じる可能性です。この一般的な形式の理解は、このような問答をいくつか学習し、そこからの抽象によって得られるでしょう。
もう一つのケースは、この問答の学習が、このような一般的な形式の理解を前提としておらず、初めてこの形式の問答を理解することになる可能性です。この後者のケースが、より原初的であるので、それがどのようにして可能になるのかを考えてみましょう。
幼児が最初に語を使用し始めるとき、それは一語文でしょう。親も亦、ミルクを手にもって振りながら「ミルク」という一語文を語るでしょう。最初から「これはミルクです」という文を理解することは難しいからです。
ミルクビンを手にもって、それに注意を向けるためにそれを揺らしながら、「ミルク」と発話するとき、「手に持っているこれが、ミルクだよ」というつもりで語っています。
ミルクビンを手にもって幼児の目の前で揺らすとき、おとなと幼児がそれに共同注意することが成立します。そのとき「ミルク」ということによって、共同注意の対象を「ミルク」と呼ぶことが成立します。
ミルクビンを振ると、それは変わった動作なので幼児はそれに注目します。そして大人もまたそれに注意を向けていること、おとなと幼児がミルクビンに注意しそのことを互いに気づいているとき、おとなが「ミルク」というとき、おとなと幼児は、「ミルク」という発話にも共同注意するでしょう。幼児は、そのとき大人が「ミルク」という発話と対象を結び付けていることに気づくでしょう。そのようなことが繰り返すことによって、幼児はその対象と「ミルク」という発話を結合します。大人が「ミルク」というときその対象のことを考えているのだと考えるようになるでしょう。
大人がミルクビンを指さして「ミルク」と発話することを繰り返せば、幼児は大人が指さしたものへの大人との共同注意を行うことができるようになるでしょう。これが学習で来たならば、対象を指さしとき、「ミルク」と発話することを求めていると考えるようになるのではないでしょうか。あるいはそう考えていなくても、そのとき「ミルク」といったら大人が喜ぶ様子を見ることを反復すると、ミルクビンを大人が指さしたら「ミルク」というようになるかもしれません。ちなみに、これはオペラント反応ではありません。なぜならオペラント反応は反射の一種であり、それを思考とは言えませんが、ここでは思考が行われているからです。相手が何を指さしたときに、それの呼び方を求めているのだと考えることは、それまで反復されていた指さし行為を見るという、経験と記憶に基づいた、推論によることだからです。つまり、ここではある対象を指さすことは、それの呼び方を求めることになります(これは言語的な問いのもっとも原初的な形態であるでしょう。)
同様にしてある対象指さしながら「これ」と発話し、対象に共同注意し、同時に「これ」という発話にも共同注意することを繰り返せば、「これ」と指さしている対象が結びつき、「これ」という発話で、指さしている対象に注意を向けるようになるでしょう。そして、今度は、ミルクビンだけでなく、スプーンやおもちゃなど様々な対象をもって振ったり、指さしたりしながら、「これ」と大人がいうのを、対象と「これ」の発話に共同注意をするとき、「これ」という発話は、おとなが手に持っている対象や、指さしている対象と結びつくことになるでしょう。
「これ」と発話してある対象を指さし、次に「ミルク」と発話することを繰り返せば、「これ」の指示対象と「ミルク」という発話が結びつくようになるでしょう。このような学習が進めば「これ、ミルク」という発話で、「これ」の指示対象を「ミルク」と呼ぶことを学習するようになるでしょう。
同様にして、「これはおしゃぶり」「これはおもちゃ」「これはランプ」なども学習すれば、ある対象を指さして「これは」といえば、それに続いて、「ミルク」「おもちゃ」などの対象の名前を発話することを求めているのだと理解するようになるのではないでしょうか。
ここでは「これは」という発話は、「これ」の指示対象の呼び方を問うことです。これは疑問表現を用いないで問うことである。「これ」の指示対象の呼び方を問うことを明示化するために、「これは何」「これはミルク」、「これは何」「これはおもちゃ」などの発話のペアを大人が聞かせれば、「これは何」で「これ」の指示対象の呼び方をもとめているのだと理解するようになるでしょう。こうして「何」という疑問詞の使用法を理解するようになるでしょう。
このようにして問答が成立するとき、私たちは問いに対する答えが真であると考えるが、それはどういうことでしょうか。それを次に考えたいとおもいます。