03 部派仏教の「無我」の矛盾

03 部派仏教の「無我」の矛盾 (20150602)

部派仏教に属する『倶舎論』で、世親は「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される薀(うん)のみがある」という。この五薀とは、色(肉体)、受(感受作用)、想(知覚作用)、行(意志作用)、識(認識作用一般)である。しかも五薀は、刹那に生滅する。つまり、瞬間ごとに生滅を繰り返しているという(参照、三枝充よし著『世親』講談社学術文庫、p. 95, 112)。部派仏教では、自我は存在しないと考えるが、それを構成している五薀が存在していると考えるようだ。

この場合、「自我が存在しない」とは、不可分で持続的な実体として存在するのではないという意味になるだろう。ただし、おそらく部派仏教は、他方では「五薀の刹那の生滅を貫いて、それによって構成されている自我が存在している」と語ることを(何らかの意味で)認めるだろう。(ここで、西洋でのロック以来の自己同一性をめぐる議論と似た議論を繰り返すことが可能かもしれない。これについては、書庫「人格とは何か」で論じたのだが、その時の議論では他者とのコミュニケーションの中で自己同一性を構成するしかないという結論になった。仏教のなかには、自我の同一性を他者とのコミュニケーションによって構成するというようなたぐいの議論は無いようにおもわれる。)

部派仏教は次のように考えるのかもしれない。「自我は実体としては存在しないが、構成されたものとして存在する。このとき、自我の構造の同一性、ないし連続性が、自我の同一性を意味する。そしてその構造の同一性や連続性があると考えることを否定するものではなく、その基底に実体的な自我が存在すると考えることを否定するものである。」

 このとき、自我は五薀という要素から構成されている。その構成は、五薀が因果関係(縁起)によって変化することによって構成されている。ところで、このとき仮にある自我が苦しんでおり、その苦しみが煩悩を原因としているとしても、その煩悩にもまた原因があり、それによって生じている。このとき、この苦を滅する方法などあるのだろうか。その人がどのように振る舞うかは、縁起によって決定しているのではないだろうか。このような自我は全く縁起の産物であって、縁起を抜け出たり、それを変更したりする可能性はないだろう。このような自我論はそれ自体では整合的であるかもしれない。例えば、現代の心の哲学の物理主義者はこのような自我論を取るかもしれない。しかし、これれは仏教の四聖諦、とりわけ滅諦と道諦に矛盾する。

苦諦:人生は苦に満ちている(四苦八苦)

集諦:苦には原因がある。それは煩悩であり、究極的には無知(無明)である(十二支縁起)。

滅諦:苦を消滅させることができる(解脱)。
  道諦:苦を消滅させるための方法(八正道)がある。

仏教は、この矛盾をどうやって克服するのだろうか。

02 仏教の根本問題

02 仏教の根本問題(20150602)

・仏教の特徴は、無我(anātoman, not-self)を主張することである。

・仏教のその他の思想の多くは、当時のインドで一般に認められていたことである。人が死と再生を繰り返すという輪廻(Samsara)の思想も、輪廻転生は、天・人・餓鬼・畜生・地獄の五道、ないしこれに修羅を加えた六道のいずれかに変わるという思想も、何に転生するかは業(karma)(道徳的行為)によって因果的に決定するという思想も、仏教以外のインド思想にも共通のものである。

・しかし、この「無我」から問題が生じる。「もし自我が存在しないのならば、何が輪廻転生するのか」という問題である。ジャイナ教は、仏教に対してこの点を批判した。仏教にとっての根本問題だと思われるは「輪廻転生の主張と、無我の主張が矛盾するように見える」ということである。

・この根本問題はもちろん、輪廻転生を認めなければ生じない。そして現代人にとって、輪廻転生は荒唐無稽な思想である。(それは私たちが西洋近代に登場し発展した自然科学を認めているからである。西欧近代以後の自然科学を知らない当時のインドの人々にとって、輪廻を理論的に批判することは難しいだろう。例えば、身体の死とともに心もなくなると私が考えるが、しかし自然科学を知らなければ、身体の死後心がなくなることを説得ことは難しいだろう。したがってそれが転生する主張を批判することも難しいだろう。)

・しかし仮に輪廻転生と六道の話を取り除いて、縁起を現世の中だけで考えるとしても、やはり次のような問題が生じるだろう。「縁起の説明、たとえば煩悩による苦の発生の説明は、無我の主張と矛盾するようにみえる」ということである。

・「無我」や「空」の概念は、東アジアの人間にはなじみのものである。しかし、それらを理解することは非常に難しいことであるし、私たちはまだその明確な理解を手にしていないように思われる。仏教の歴史は、「無我」や「空」の概念を受け入れたうえで、それについての整合的な理解を作り上げようとする試みであったと言えるのかもしれない。そして、それはひょっとすると、まだ最終的にうまくいっていないのかもしれないし、うまくいかないのかもしれない。ひょっとする「無我」を認めなかったジャイナ教徒の方が正しかったのかもしれない。

・仏教徒たちがどのように理解しようとしてきたのかを、振り返りつつ、「無我」を整合的に理解できるかどうか、検討してみようう。

 

01 はじめに 構成主義と仏教

01 はじめに 構成主義と仏教 (20150531)
 「自我」の理解は、「私とはどのようなものか」というような哲学的な問いや、「お昼に何を食べようか」「今日は何をしないといけなかったのだろうか」というような日常的な問いによって、構成されている。自我は、自我にかかわる問答において、問いの前提や問いの答えによって、構成されている。
 このような自我の構成が、社会の中でどのように行われるのかを説明するのが、自我の社会構築主義になるだろう。しかし、その時の説明において、資本主義や共同体のような社会制度を前提するならば、それらもまた歴史的社会的に構成されたものなのだから、そもそもの説明の出発点をどこに求めることになるのだろうか。
 その時の可能な答えの一つは、ルーマンのように社会はコミュニケーションから構成されていると考えることである。発声行為や身体行為にある意味を帰属され、それが他の行為の選択決定を促す、という仕方でコミュニケーションが成立し、その連鎖と集合が、社会や文化や人格を構成する。では発声行為や身体行為にある意味が帰属されるのは、どのようにしてなのだろうか。これは、言語起源論や哲学的意味論の課題であり、私にとってはメインの仕事になるが、ここでは扱えない。(これについては、とりあえず2014年度2学期の講義ノートhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kougiindex.htmを見ていただければ幸いです。)
 このような自我や社会の理解は、西洋ではポストモダンの思想かもしれないが、東アジアでは仏教以来なじみのものである。そこで、まず仏教の自我論とその歴史を確認しよう。

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム (20150505)

囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すゲームである。これは、これまでも米ソの軍拡競争の愚かさを示すことなど、政治の分析に使われてきた。現在、安倍自民党政権がやろうとしている政策は、近隣国との相互不信を前提にするならば、自国の利益を最大にする合理的な選択であるのかもしれない。そしてその政策は、近隣国にも、同様に合理的に考えて同様の政策をとることを促す結果になるだろう。そして、地域全体としては最悪の状態を選択することになってしまうだろう。

これを回避するには、当事者たちがコミュニケーションを図り、相互信頼を醸成することによって、全体として見たときの最善の状態に到達すべく協力することが必要である。米ソが軍縮に成功したのは、まさにこの対話路線をとったことによる。

したがって、安倍政権が相互不信を前提にした「合理的」選択をしようとしていることは、大きな間違いなのである。そもそも相互不信を招いた最大の原因は、安部政権が、15年戦争について中国や韓国に対して「お詫び」する必要はないと「解釈」していることにある。安倍政権が近隣諸国との間に相互不信を招き、その相互不信を前提に「合理的」な選択をするという愚かな方向に日本と近隣諸国を向かわせている。

ハト派や護憲派の戦略は、リアリティのない無責任な考えではない。「囚人のディレンマ」ゲームを踏まえた、リアリティのある説得力のある選択なのである。タカ派の戦略は、「囚人のティレンマ」ゲームを理解しない、あるいは過去のその経験から学習しない、愚かな選択である。

15 「攻殻機動隊」の自我論

 
15「攻殻機動隊」の自我論 (20141020)
 
しばらく、音信不通で失礼しました。取り上げたいテーマはあるのですが、本来の仕事、つまり論文と講義があって、うまく時間が取れませんでした。
 
さてしばらく「攻殻機動隊」の自我論を論じたいと思いますが、これは書庫「物理主義からの倫理」に続くべきテーマでもあります。「物理主義からの倫理」では、心についての物理主義ないし消去主義を採用したときに、法や道徳はどのようなものになるのか、あるいは消去されるのか、を考えようとしました。そこでの答えは未決定のままになっています。その問題を考えるときに、人が道徳や法の責任主体となりうるかどうかを検討しましたが、個人が(自由ではないとしても)主体であることを前提して議論しました。しかし、物理主義の時代になっても、個人が主体であり続ける保証はありません。一方で、個人は、分人に解体するかもしれません。他方で、個人はネットワークにつながることによって主体性を喪失するかもしれません。後者の可能性を考えるときに、「攻殻機動隊」の世界観は非常に興味深いものであり、その自我論を検討する価値があるあると感じました。この流れでは、いずれ別途書庫を立てて追究したいと思います。
 
他方で、「攻殻機動隊」の自我論は、戦後日本の自我論の流れの中でも重要な位置を占めると思います。そこでそれを戦後日本の自我論の中に位置づけたいとおもいます。「近代的個人」に対する批判は、戦前からありました。それは個人を「社会的諸関係の総体」として捉えようとする見方であり、右翼も左翼もこの点に関しては一致して、近代的個人を批判してきました。しかし1990年ころから戦後思想は大きく変化してきているように思われます。自我論は重点を物語論や多元主義に移してきており、そのなかで「分人主義」も現れてきました。「攻殻機動隊」(士郎正宗の原作1989年)の自我論は、個人が分人に分かれるというより、個人がネットを介してつながり、その意味で個人を超える、あるいは個人性を喪失するという事態を捉えています。「分人主義」と逆方向の展開ですが、しかし互いにリンクするところも多いと予想します。分人主義との関係、あるいは戦後自我論の中での位置づけについては、あとで考えることにして、まずは「攻殻機動隊」の世界観、そこでの自我論、そこで提起される自我に関する問いの確認を行いたいと思います。
 
ここでは、攻殻機動隊のストーリーやキャラクターは扱いません。大塚英志の指摘するように、物語は、世界観とストーリーとキャラクターに分解できるでしょう。ストーリーは、さらに要素物語に分解され、その要素物語の直列や並列から構成されるシークエンスだと言えるでしょう(プロップとそれに続く物語論はこれを研究してきました)。ここで紹介し考察したいのは、「攻殻機動隊」の世界観とりわけ自我論です。
 
本作世界の基本的な技術は、「電脳化」と「義体」であり、Wikipediaの項目「攻殻機動隊」によると次のようなものです。
 
「脳にマイクロマシンなどを埋め込み、人間の脳とコンピュータネットワークを直接接続したバイオネットワーク技術。脳そのものを機械に変えてしまうことも電脳化と呼び、制御ソフトを導入するタイプの高性能な義足・義手などはこの電脳化を施す必要がある模様。」
 
「本作世界におけるサイボーグ技術。義手、義足、人工臓器の概念を全身に拡張、草薙のように、脳と基幹神経系だけを残してほぼ全身を人工物に置換したり(完全義体化)、逆に電脳化を行わず肉体だけ義体化することも可能。」
 
登場するのは、電脳化した人間、義体化した人間、その両方を行った人間、それから人工知能を搭載したロボットです。このような世界で、電脳化によってつながった人間はどうなるのか、ネットでつながったロボットは、人間と同じようになるのか、作中では「ゴースト」を持つようになるのか、という言い方をされています。
 
本作の世界観は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の冒頭で次のように表現されている。
 
「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思を、ある一方向に向かわせたとしても、“孤人”が、複合体としての“個”になる程には、情報化されていない時代・・・」
 
 

 
 

14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」

                                  森のなかは涼しいです。今日は大阪に戻りましたが、また森のなかに戻ります。
 
14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」(20140828)
 
 近代における生活と労働と教育の分割、個人が複数の役割を生きることによって、それらを一つにまとめるために個人の内面が生じたのではないかと推測する。「近代家族」にとって夫婦や親子の「愛情」による結合が重要になったと言われることもまた、生活と労働と教育の分割が原因になっているのだと思われる。つまり、役割分割による家族の分離を補償するものとして「愛情」が必要になったのだと思われる。もちろん、生活と労働が分離することによって、大家族から核家族に変化したこともその一因であろうが、それだけでは「愛情」の重視を説明できない。ルネサンスに描かれ始める愛らしい子どもや女性の表情は、「愛情」の重視の現れである。ルネサンス期の肖像画や自画像は同時に個人の「内面」を描こうとしている。
 
 ところで、役割分割は更に進み、分人主義に行き着いている。このことは、「近代家族」の崩壊と結合しているに違いないが、どのように結合しているのだろうか。役割分割が分人化にまで進んだ背景には(以前に述べたように)社会の多元化があるのだとすると、「近代家族」の崩壊の背景にも社会の多元化があるのだろうか。「近代家族」の崩壊は、「無縁社会」と関係し、「無縁社会」は社会の多元化と関係している。グローバル化のもたらす厳しい競争が、人間関係をすりつぶし、家族を破壊し、無縁社会を作り出し、個人を分人化させ、分人としてかろうじてアイデンティティを保持しているのだだろうか。分人主義にはポジティヴな側面もあると思うのだが、現代日本ではそのネガティヴな側面ばかりが目についてしまう。
 
   分人主義は、「私とは何か」への答えになりうるのだろうか?
 平野啓一郎は、「私とは何か」の問いへの答えとして、分人主義を提案した。しかし、それは答えになりうるのだろうか。確かに複数の異なる分人を生きている人に、「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」「たった一つの「本当の自分」など存在しない。」ということが救いになるのかもしれない。
 しかし、それでも自分がどのような分人を行きており、それら複数の分人の関係を調整する必要があるのではないだろうか。それとも複数の分人の関係を調整することが必要だと考えることが、そもそも唯一の「本当の自分」があると考えることに由来する間違いなのだろうか。
 子どもたちが教室で割り振られたキャラを演じようとしたり、演じることを強制されたりする、という斉藤環の指摘(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社)を読むと、教室でのキャラを「本当の自分」だと考えられる子どもたちはむしろ少ないのではないか思われる。そのような子どもたちには、複数の分人の調整が必要になるだろう。
 逆に次のようにも言えるだろう。現代社会における分人化の進行によって、自分とは何かという問いに答えることは、より困難になり、より切実なものになってきたと言えるのではないか。分人化が「自分探し」ブームの原因になっているのではないか。
 
 

 

11 グローバル化による主体の多元化

                                  暑い夏の 開始を告げる 蝉の声
 
11 グロー バル化による主体の多元化 (20140731)
 消費社会論から自我の多元化を説明することは、しばしば行われるが、もう一つ説得力にかけるような気がする。なぜなら、1980年代のバブルの時代に盛んだった消費社会論が、バブルの崩壊後はあまり活発でないからである。
 そこで前々回の話に少し戻らせてほしい。前々回に、冷戦期の自我論を、
  ①近代的主体
  ②伝統的日本的自我論
  ③マルクス主義的主体
に分類した。②と③は共に近代的主体を批判し、主体を他のものとの関係において捉える。②と③の違いは、その「他のもの」の理解の仕方である。
 マルクス主義は、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第6テーゼにあるように、「人間は社会的諸関係の総体である」と考える。現代では、その「社会的諸関係」は、資本主義的な生産関係という経済関係を中心にしたものとして理解されるだろう。この「社会的諸関係」は、時代、地域によって異なるはずであり、人間のあり方を、具体的に検討するには、社会を特定して議論が必要になる。
 伝統的日本的自我論では、その関係は例えば、和辻哲郎の「人間」論のように、あるいは濱口恵俊の「間人主義」のように、人間と人間の関係として考えられるだろう。全ての人間関係は、社会的関係に媒介されているはずであるが、ここでは素朴に人間と人間の関係が考察されているように思われる。その関係は、時代を超えて日本社会に妥当するものとして理解されているのかもしれない。あるいは、それは日本人の間で強く意識化されているが、原理的には日本人の人間関係にかぎらず、人間一般の普遍的な存立構造として理解さているのかもしれない。つまり、時代と社会を超えて、普遍的に成り立つこととして考えられているのかもしれない。
 近代的主体に対する批判は、②や③に限るものではない。西洋でも、構造主義による実存主義批判や、共同体論者によるロールズの「負荷なき自我」に対する批判や、ルーマルのシステム論や、ウィトゲンシュタインの私的言語批判や、フーコーの規律訓練型権力に対する批判や、社会構築主義など、多様な批判が行われている。
 さらに遡るならば、近代的主体への批判は、フィヒテやヘーゲルの「承認論」に既に始まっているということもできる。これらの批判は、いずれも主体を実体として捉えるのではなく、関係において存立するもの、あるいは関係そのものとして存立するものとして理解する関係主義的な主体理解である。
 このような関係主義的な主体理解からの「近代的主体」に対する批判は二種類に分けることができる。一つは、歴史と社会を超えた人間の普遍的なあり方の考察から、近代的主体を批判するもの、もう一つは、論者の生きているある歴史のある社会において「近代的主体」は成立しないという批判である。上に見たように、マルクス主義からの批判の中には、二種類の批判がありうるだろう。日本的な主体理解の立場からの批判も、二種類の批判がありうるだろう。この二つの観点を区別に注意しておくことが明確な議論のためには不可欠である。
 関係主義的な主体理解は、近代的実体的個人主義的な主体への批判として登場してきたので、最初にはその批判に重点がおかれるが、その次には、関係の中で主体がどのように成立し構成されているかの説明に重点が移ってくることになるだろう。大庭健の「責任=呼応可能性」の議論はその一つだと言える。(ちなみに、永井均の〈私〉論、および永井均と大庭健の論争は、それ自体大変興味深いし、また戦後自我論において重要な位置を占めるに違いないのだが、それをどのように位置づけたらよいのかは、いまだ思案中である。)
 
 さて、1990年代以
後の「自分探し」ブームの中で登場した新しい概念として、多元主義と物語論という二つの自我論があげられる。もっともこれは日本に限らない世界的な傾向である。そのうちの「多元的な主体」に話しを戻そう。
 関係主義的な主体理解を認める時、主体そのものが分裂すること、あるいは多元化するとは、主体を構成する社会的諸関係が分裂すること、あるいは多元化することである。では、主体を構成する社会的諸関係の分裂ないし多元化は、どこにどのように登場しているだろうか。
 平野啓一郎が言うように、コミュニケーション手段の多様化、人間関係の複雑化によって、家庭や職場やインターネットサイトやNPOなど様々な社会空間が分裂しており、そのためにある人が演じるキャラが社会空間ごとに異なる。
 ただし、それだけでは理由として不十分ではないだろうか。もし国民国家が、究極的にはこれらの社会空間を一つに統合しているのだとすると、それぞれのキャラも一つに統合可能であろう。つまり、社会空間ごとの複数のキャラの使い分けは、一つの人格に属するものとして統合される。フーコーによれば、近代主権国家の規律訓練型権力が、個人の欲望を抑圧するだけでなく、他方で個人の欲望を生産し、欲望の編成によって、近代的主体を生み出したのである。この理解からするならば、主権国家と近代的主体は構造的な補完関係にある。従って、主権国家は、個人を構成する社会的諸関係、諸空間を編成しているのであり、それらは主権国家によって統合される。
 
(注、ドゥルーズがいうように、「規律社会」から「管理社会」への変化が20世紀初頭に起こっているのだとしても、主権国家が存続する限り、それが社会的諸関係を管理統合するだろう。ちなみに、この「管理社会」は、第一次大戦頃から登場すると言われる「総力戦体制」に対応するのかもしれない。)
(注、私は書庫「問答としての経済」で述べたように、近代的「個人」は資本主義経済の中で誕生したと考えるが、近代主権国家(近代的主体)と資本主義社会(近代的個人)の関係の考察は、今後の重要な課題である。)
 
 しかし、グローバル化のなかで、主体を構成する社会関係が国民国家を越えてグローバルに広がっているのだとすると、それらの社会関係を国民国家が統合することはできない。したがって、主体を一つに統合するものはなくなる。主体を構成する社会的諸関係の多様化が、原理的に国民国家の中に収まらなくってきていることが、主体の多元化を引き起こしているのではないだろうか。グローバル化における人、物、金、情報の国境を得た移動が、私たちを構成する社会的諸関係を国民国家で統合できないものにしている。
 
(注、それを歓迎しないものは、ナショナリズムを復活させようとする。しかし、人々が好むと好まざるに関わらず、どうやら経済のグローバル化は不可避的に進んでゆく(右翼政権ですら、TPPを推進する。なぜなら経済の国家間競争に勝つためにそれが必要だからである)。つまり、好むと好まざるに関わらず、主体の多元化は不可避的に進んでいくだろう。それに反応して、ナショナリズムは執拗にバックラッシュする。国家というシステムをナショナリストに委ねてしまうことは非常に危険である。それを避けるには、グローバル化の進展の中に、過渡的であれ、国家システムを適切に再設定する必要がある。グローバル化の中で、国家に求められるのは、国内的および国際的な再分配機能ではないだろうか。
 安倍政権は、一方では、TPPを推進し、法人税をさげ、グローバル化に棹さしており、他方では、国内の再分配は消費税で行おうとするので余計に格差を拡大し、その不満をナショナリズムにむけ、「いつでも戦争できる国家」(総動員体制)を作ることによって、主権国家を維持しようとしている。)
 

 
 

10 大衆消費社会から自我の多元化へ

 

今日は巴里祭です。フランス革命をジャスミンティと中華料理で祝いました。

 
10 大衆消費社会から自我の多元化へ (20140714)

 
社会学者浅野智彦は『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013)において、大衆消費社会と関係付けて、自我の多元化を説明しているので、それを紹介したい。まず1980年代のバブルの頃に、消費社会論が流行したが、当時のボードリヤールのガルブレイス批判などに依拠しながら、浅野は次のように指摘する。
 
「自分を選ぶという営みが消費という形式を取ることによって、誰にでもできるようになる。これが80年代におこったことなのである。あるいは、こういってもよい。消費とこのような形で結びつくことではじめて自分らしさは多くの人々によって追求されるべきものへと昇格したのである。」(同書60
 
浅野は、80年代における消費と自己のむすびつてきは、次の四つの効果をもったという。
 
「消費と自分との結びつきは、以下の様な四つの効果を持った。第一に、それは1960年代以来伏流してきた本当の自分、自分らしさという問題系にだれもがアクセスできる手軽な回路を与えた。第二に、その結果、自分というものが自分自身の選択と構成の結果であるという感覚が定着していった。第三に、本当の自分、自分らしさというものが虚構に拮抗する現実の重さとして希求されるが、第四に、いかなる「ほんとうの自分」も結局はもうひとつの虚構であるという感覚がそれとともに台頭する。」63
 
1980年代に入ってからの社会学的自己論は、1980年代に醸成されたこの感覚を理論的言語に翻訳することによって成り立っていたようにも思える。すなわち、自己とは社会的に構成されたものであり、また自己について語る物語として成り立つ」63
 
浅野は、ここで、消費社会論による自我論が、自我の多元化だけでなく、自我の物語的構成へも通じることを指摘しているが、これについては、別途扱うことにして、このような消費社会論から、90年代以後の「自己の多元化」への道筋について、浅野は次のようにまとめている。
 
「本当の自分、自分らしさといった問題系が消費という触媒を得て大衆化された後、いったい何が起こるのか」
第一に、自分らしさ志向、「個性尊重」の名のもとに学校教育の中へ。そして「やりたいこと」志向へと形を変えながら職業労働の領域へ広がっていく。
第二に、「自己を選択するという問題が前景化すると同時に、その選択の準拠点としての対人関係やコミュニケーションの重要性が急上昇していく。「コミュニケーション不全症候群」してのオタクから「非コミュ」としての「引きこもり」「ニート」、あるいは企業が求める資質としての「人間力」「コミュニケーション力」「コア・コンピタンス」まで」64 80年代の消費社会論からの自我論から、90年代のコミュニケーショ
ン論からの自我論への変化がみられる。
第三に、「対人関係への敏感さが上昇するにつれて、その都度選択的に構成される様々な自己の間の齟齬が徐々に大きくなっていく。一人の人間の中の多元性が次第に目につきやすくなっていく」65 例えば、「キャラ」という言葉は、「多元的自己の個々の部分的な人格を指し示すものと理解することができる」65
第四に、「関係によって規定される自己と自分の内側にあるはずの「かけがえのない」「個性」としての自己との間の矛盾が耐え難いものになってきたときにそれを緩和するためにいくつかの戦略が開発されることになるだろう。」65
 
これを手短にまとめると、次のようになるだろう。
・消費社会の中で、自分らしさは消費を通して構成されるものになる。
・自己は、学校教育や職場の中でコミュニケーションを通して構成されるものになる。
・ひとは、対人関係ごとに構成された「キャラ」ないし「分人」を生きることになる。
 
 

 

9 日本における戦後自我論の変化:冷戦中と冷戦後

               もうすぐ梅雨明けです。しかしその前に台風が来そうです。
 
9 日本における戦後自我論の変化:冷戦中と冷戦後 (20140707)
 
明治以後の日本社会にとって、最も喫緊の問題は、
  「西洋社会にどのように対応するか」
であった。それに対する答えとして提出されたものは、大きく次の3つに分けられる。
  1、近代主義:西洋の社会制度や学問や文化を取り入れること
  2、日本主義:
  3、マルクス主義
明治以後の日本の人文社会科学は、15年戦争の前も後もこの3つの立場を追求してきたといえるのではないだろうか。(社会学や政治学での日本研究では、15年戦争前と後との連続性に注目する研究が多くなされているが、その傾向とも一致するのかもしれない。)京都学派は、西洋哲学を研究しつつも、2を再構築しようとしたといえるだろう。また1への批判は、資本主義への批判でもあり、それに対する社会構想として、ファシズムと共産主義があったと見ることもできるだろう。
 自我論に関しても、同様の3つの立場が中心になってきたと思われる。
  1,近代的主体
  2,伝統的日本的自我論
  3,マルクス主義的主体
戦後思想は、主体性論争に始まるが、そこでは戦後復興を担うべき主体のあり方について論争が行われた。現実における日本人の自我の有り様は、伝統的な日本的なものであり、それは批判的な仕方で『菊と刀』『「甘え」の構造』『タテ社会の人間関係』などに描かれた。それに対して実現するべき自我のあり様として、「近代的主体」(大塚久雄、丸山正男)や革命の担い手となるマルクス主義的な「主体性」が論じられた。
 そして、このような戦前戦後の議論の枠組みは、1989年の冷戦集結、1991年のバブル崩壊、によって大きく変化した。明治以後、西洋に追いつこうとして進められてきた近代化が経済的にはバブルの時期に達成されたこと。冷戦後、マルクス主義が力を失ったこと。バブル期にもてはやさされた日本的経営が冷戦後のグローバル化時代に通用しなくなったこと、などがその原因である。バルブル後の金融問題、財政赤字問題、高齢化問題、年金問題、など日本社会の問題を解決するモデルをもはや欧米に求めることはできなくなり、「西洋社会にどう対応するか」という明治以後の喫緊の課題そのものが、重要性を失った。そのため、従来は、西洋社会や西洋の文化の研究を最重要の課題としてきた日本の人文社会科学は大きく変わり始めている。。(これについては、以前に書庫「グローバル化のゆくへ」でどうようのことを論じました。)
 このような中で自我論もまた、1990年代以後大きく変化している。1990年以後、「自分とは何か」という「自分探し」がブームとなり、多くの自我論、自己論、が出版されている。このような1990年以後の自我論にあらわれた新しい論点として目につくのは、多元主義物語論である。
 この二つの論点は、日本に登場した思想というよりも、欧米で登場し日本に輸入されたものというべきかもしれない。それにしてもなぜこの二つの論点が、冷戦後の世界や日本で重要な論点になったのだろうか。それに対する一つの解答案は次のようなものである。
 
size=”3″> 冷戦後の世界ないし日本社会にとっての喫緊の問題は何だろうか。それはおそらく、
  「私たちは、グローバル化にどう対応するべきか」
という問いであろう。この問いの「私たち」とは誰のことだろうか?
 この問いの「私たち」が日本国や日本国民であるならば、「日本は、グローバルな国際競争に勝ち抜くにはどうすべきか」という問いになり、これまでと同様に、そのためには「国民総動員が必要だ」というような回答がなされるだろう。この場合、「グローバル化」は、黒船のように外からやって来るものとして理解されている。
 この問いの「私たち」が、国家を離れた個人や、地球市民であるならば、「私たちは、グローバル化をどのような方向に進めるべきか」と問うことになるだろう。あるいは、グローバル化をグローバル資本主義と狭く取るならば、「私たち市民は、資本主義のグローバルな展開にどう対応するべきか」となるだろう。
 「私たち」の社会にとっての喫緊の問題のこのような多義性、多元性が、冷戦後の社会や「自我」の多元化の原因ないし理由であると思われる。
 ただし自我の多元化については、大衆消費社会と関係付けた説明も提案されている。次にそれを検討しよう。(物語論については、さらにその後で考察したい。)
 

 
 
 
 
 
 

8 分人主義と役割論の比較2

 
 
 

集団的自衛権を認める解釈改憲が閣議決定されてしまいました。
 
8 分人主義と役割論の比較2 

(20140630) 

 
 分人主義と役割論との比較をしようとしているのだが、ある種の困惑を感じる。それは、一方で、分人主義は、現代社会において登場しあるいは強化されている、現代に固有の、自我(主体、個人、自己)のあり方を主張しており、他方で、役割論は、時代や社会を限定せず、人間ないし人間社会に普遍的に成立している主体のあり方を主張しているのではないかという疑念である。もしそうならば、これらの前提の違いを無視して単純に比較することはできない。そこで、まずこの疑念を確かめたい。
 廣松が、『存在と意味』第二巻などで「実践的な世界」を分析するとき、それは特定の時代や社会を超えて、一般的に妥当に妥当する事柄を分析しているのだと思われる。 廣松は、『世界の共同主観的存在構造』(1972)の「II」の「一 共同主観性の存在論的基礎」の冒頭で、考察対象について次のように述べている。
 
「世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。[…]われわれとしては、それ故、日常的な世界像に流目するところからは始め、そこにおける存在論以前的Vor-ontologischな了解の構えに遡って問題点を剔抉しておく必要がある。」(『世界の共同主観的存在構造』135
 
 廣松は、とりあえずは「当代」の「日常的な世界了解」を準拠枠にせざるを得ないという。つまり、1970年前後の日本社会についての“常識的な理解”を準拠枠にするということである。しかし、その考察は、「歴史的・社会的に相対的な」側面を「超出」して、時代や社会に限定されない原理的一般的な考察を目指しているのだろう。
 しかし、例えば役割理論に関して、役割は、原始共同体、古代国家、近代資本主義国家、グルーバル化する現代、のそれぞれで大きく異なるのではないか、それらの社会に共通する役割のあり方を考察をしても、それぞれの社会の本質的な特徴を捉えきれないのではないだろうか。例えば、資本主義による「物象化」についての廣松の分析は、「実践的世界」の分析に生かされていないように思われる。なぜなら、その「実践的世界」は、資本主義社会に限らない、より一般的な社会として対象になっているからである。
(もしこの指摘が正しいとすると、これは廣松哲学の重大な惜しまれる点になるだろう。それは私たちの課題かもしれない。もちろん役割理論の研究の中には、時代と社会を限定した研究、現代社会や日本社会の役割論の研究がすでにあるのかもしれない。)
 
 では、分人主義の方はどうだろうか。それは自我のあり方の現代的な特徴なのだろうか。それとも特定の時代と社会に限らない、普遍的な「自我」の理解なのだろうか。平野啓一郎はおそらく前者を考えている。彼は『私とは何か』の冒頭で次のように言う。「むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである」(3)
 では、ムフの「主体位置」はどうだろうか。この概念は、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの共著『民主主義の革命』西永亮、千葉真一訳、ちくま学芸文庫(2012)(原著1985ではじめて導入されたのではないかと思われる。彼らは当時の資本主義社会の分析のためにこの概念を用いているが、それをローザ・ルクセンブルクの分析を参照しつつ導入するので、1980年代の資本主義にかぎらず、20世紀の資本主義に通用する概念として考えているのかもしれない。彼らは、おそらく時代と社会を越えて人間に普遍的に妥当する概念だとは考えていないだろう。
 
 廣松の役割理論は、普遍的な社会理論であった。それに対して分人や主体位置の概念は現代社会ないし現代資本主義社会における自我論ないし主体論として考えられていた。これを考慮した上で、アプローチの仕方を再考したい。まずは、大きな見取り図を示すことにする。