07 問いの答えが、正当化と無縁である場合 (20200524)

[カテゴリー:日々是哲学]

 前回までで分かったことは、<もし問いの答えが(狭い意味で)非合理であるとしたら、その問いの答えは正当化と無縁である>ということです。(ただし、<もし問いの答えが正当化と無縁であれば、それはかならず非合理である>とは言えないだろうと予想します。)

 ここで、<正当化と無縁である>とは、<正当化できないし正当化を必要としない>という意味です。例えば、「食堂で何にしますか?」と問われて、「うどんにします」と答えたとき、この答えは、正当化を求められていないし、正当化する必要もないし、正当化することもできないと思います。お店の人が「何故、うどんにするのですか」と(正当化を求めて)問うことはありません。なぜなら、うどんであれ、他の何かであれ、お店の人にはどちらもでも好いからです。もし一緒にいた友人から「なぜうどんにするの?」と問われたら、「特に理由はありません」とか「うどんを食べたいと思ったから」とか「うどんがすきだからです」とか「いつもうどんを食べているからです」とか「昨日は蕎麦だったから」とか答えることもできます。この場合に、(最初の「特に理由はありません」以外の)これらの答えは、うどんを注文する理由であっても、うどんにしなければならないこと説明するものではありません。つまり、うどんの注文を正当化するものではありません。

 このうどんの注文は典型的な例です一般に自由な決定を求める問いに対する答えは、自由な決定であり、正当化を必要としないし、正当化できません(なぜなら、正当化できるとすれば、自由な決定ではなくなるからです)。

 では、この場合の「うどんにします」という注文は非合理でしょうか。「xは非合理である」といえば、そこから「xは避けるべきことである」ということが帰結するように思います。しかし、うどんの注文は、避けるべきことではありません。では、「うどんにします」という注文は、合理的でしょうか。正当化を必要としない答えであるのに、これが合理的であるとしたら、その場合の「合理的である」とはどういう意味でしょうか。

 もう一度まとめるとこうなります。自由な決定を求める問いに対する答えは、正当化を必要としない。しかし、それを非合理な答えということはできないように思われる。では、それは合理的な答えなのだろうか。それとも、合理的でも非合理でもない答えなのだろうか。これを次回に考えたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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