09 狭い意味の非合理な答え (20200528)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、答えが合理的である場合には、次の3つあると述べた。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

①と②の問いの答えのなかには、推論によって得られるものがあった。しかし、推論の前提をさかのぼれば、いずれは推論によって証明したり正当化したりできない命題に行き着く。それは、知覚報告や記憶報告や伝聞であったりするかもしれない。これらについて、「05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)」では、次のように述べた。

「問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。」

ここで「事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう」というのは、<知覚報告であれ、記憶報告であれ、伝聞であれ、それらが推論の結論ではないとしても、それらは真として受け入れられている他の命題と整合的でなければならない、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならない。そしてその選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 価値判断の場合については、「06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)」において次のように述べた。

「認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。」

ここで「価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である」と述べたのは、<価値判断は、推論の結論となっていないとしても、受容されている他の価値判断と整合的でなければならず、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、ここでも、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならないが、その選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 事実判断や価値判断についてのこれらの選択ないし受け入れは、意識的な決断による場合もありうるが、気づいたときにはすでに受け入れているというものであるかもしれない(たいていは後者であろう)。意識的な決断によってある命題を受け入れる時には、問答によって、つまり「pを受け入れるか否か?」という問いに対して「受け入れよう」と答えることによって行われる。気づいたときに受け入れているというのは、このような問答を意識的には行わなかったということであって、問答がなかったということではないだろうと推測する。

 意識的な決断によって、あるいは無意識のうちに受け入れたこれらの前提は、①と②の意味での合理性を持たないし、その合理的な答えに矛盾するという意味の不合理性も持たない。この意味で、これらの前提は、非合理である。ただし、これらの前提は、③の意味の合理性はもつだろう。しかし、③の合理性だけでは、答えの内容の決定を説明するには不十分である。この意味で、これらの前提は、非合理である。

#「知性」と「理性」という語を、つぎのように使用することを提案したい。

私たちは、問いに対して推論で答える時と推論に寄らずに答える時がある。推論の能力を「理性」と呼び、問答能力を「知性」と呼ぶことにしたい。問いを理解すること、その答えとなる発話を行うことは、ともに知的な行為である。問答を含まない知的な行為は、考えられない。知的な行為は問答によって構成されている。問答の能力とは、適切に問いを立て、問いに適切に答える能力である。これに対して、問いに対して推論で答える能力は、「理性」だといえるだろう。動物は言語を持たないが、しかし動物もまた探索していると言える限りにおいて、動物もまた問答していると言え、その限りで知性を持つといってもよいだろう。

 非合理主義を取り上げ始めたときに、私が語り語ったことは、この知性と理性の区別である。

 非合理主義については、デイヴィドソンが論じた「意志の弱さ」や「自己欺瞞」、ポパーの「理性への非合理な信仰」に基づく「批判的合理主義」など、他にも重要な事柄があるが、思いのほか長くなったので、とりあえずここで閉じる。(デイヴィドソンは、心の分割によって「意志の弱さ」や「自己欺瞞」を説明したが、これについては、分人主義と関連付けて論じたい。ポパーの「理性への非合理な信仰」については、問答論的矛盾による超越論的論証と関連付けて論じたい。後者については執筆中の本が出版されたら、それを踏まえて論じたい。)

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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