動物は復讐しない

   冬の味覚といえば、これです。
   お餅ですが、うまく焼けなかったのでうまく撮れませんでした。

予告した「社会に対する悪意」に移る前に、前回の分析をもう少し展開しておきたい。

前回の議論が、抽象的な言葉遊びに思われるかもしれないので、少し別の角度から分析を補強し展開しよう。
AがCを殴ったときに、CがAに仕返ししようとするのは、「自然なことだ」と考えている人がいるかもしれないので、まずは「動物や仕返しや復讐をしない」ということを確認し、強調しておきたい。

たとえば、Aがある犬をいつもいじめていたとしても、その犬はAに復讐しようとはしない。もっとも、Aが近づいてきたら、犬は条件反射で、また苛められるとよきして、Aに噛み付こうとするかもしれない。しかし、それは、Aに以前に苛められたことへの仕返しなのではない。

では、なぜ動物は仕返ししないのだろうか。それは、動物には自己意識がないからである。自分の所有や権利や名誉などのが奪われたと考えることはない。したがって、それを奪い返そうと考えることもない。
たとえば、あるライオンが鹿を捕まえて食べようとしていたら、そこに他のライオン二頭がやってきて、それをとろとする。そこでそのライオンは相手を追い返そうとするのだが、そうしている間に、もう一頭がそれを取ろうとして、それを追い返そうとするが、半分ほど持っていかれる、というようなシーンは、TVでしばしば流される。このライオンは、その後、相手のライオンにであったときに、そのときの仕返しをするのかといえば、そのようなことはないといわれている。なぜなら、彼は、相手が「自分の獲物をうばった」とは思っていないからである。なぜなら、そのときの鹿を「自分の獲物」だとは思っていないからである。もちろん、言葉を持たないから、そのように言葉で考えると言うことはないといえる。しかし、そもそも自己意識がないのである。(もっとも、自己意識が成立するには、言葉が必要である可能性がある。これは、重要な問題だが、別の大きな問題なので、ここでは論じられない。)自己意識がないことは、例えば、鏡を見せたときに、そこに写るのを、他のライオンだと考えて、自分だとは考えないことからもわかる。そのような実験は、サルについても行われている。またあるオス猿が、雌猿をと仲良くしているところを、ビデオにとり、それを後で、そのオス猿に見せると、そのオス猿は、怒り出す。それはそこに写っているオス猿を自分だとは思っていないからである。

人間だけが、自己意識を持ち、仕返しをしようとする。それは、人間に自己意識があり、「自分のもの」という所有意識や権利意識や縄張り意識などを持つからである。それが侵害されたときには、その仕返しをしようとする。
しかしここで「自己意識こそが悪意の起源だ」などと詰まらないことをいう気はない。もう少し話を詰める必要がある。

「あるものが「Cのもの」であるならば、それをC以外の者がとることは、悪いことである。」これは、「Cのもの」という言葉の意味から帰結する。Cの肉体は、Cのものである。故に、C以外の者がCの肉体を殴ることは、悪いことである。では、Aに殴られたCがAに仕返しをしようとするのはなぜだろうか。
Cのお金が奪われたときに、それを取り返したならば、お金は元に戻るので、Aからお金を奪い返そうとすることは、理解できる。しかし、Aに殴られたCがAを殴り返しても、Cの肉体の痛みがなくなるわけではない。では、CがAに殴られたときに、後日Aを殴り返そうとするのは、なぜだろうか。

より一般的な文脈の中で考えよう。仕返しや復讐は、より一般的な行為の特殊ケースである。それは、恩返しと同様の行為である。善いことを相手にしてもらったときには、相手にその恩をお返ししようとする。悪いことを相手にされたときには、相手にその悪いことをお返ししようとする。ここには、他者に対して、同種の行為を返すという関係がみられる。これは、相手との収支バランスをプラスマイナス零に保とうとする働きであるともいえる。

バランスシートをゼロにする傾向があるといえるのだろうか?
そういえるとすると、それはなぜか?

矛盾の解決?

冬の味覚?大豆です。もうすぐ豆まきです。
     待ちきれずに、食べてみました。

前回は、個人が「特定の個人や組織に対する敵意」を抱くだけでなく、自分で「悪意」と知りつつ、「特定の個人や組織に対する悪意」を抱くことがあることを述べた。

 善良な人間Cが、もし何の理由もなくAに殴られたとしよう。Cは、Aに対して怒りを感じるだろう。Cが、Aに対して怒りを感じることは、悪いことだろうか。そうではないだろう。たとえば、悪を憎むことは、正しいことであるし、悪に対する怒りは、おそらく正しい感情である。では、その怒りに基づいて、Aを殴り返そうとすることは、正しいことだろうか、悪いことだろうか。
一般的には、(正当防衛を除いて)どんな場合にも他者を殴ることは悪いことだ、と考えられている。もしそのとおりだとすると、たとえ正しい怒りにもとづいてAを殴るのであっても、殴ることは悪いことである。そこで、善良なCは「殴りたい」けれども、殴るのをやめる。このとき、Cは「殴りたい」という「悪意」を心の中にもっている。
このとき、Cの心は、矛盾しているのだろうか。Aの行為に対して怒ることは正しい感情である。しかし、この怒りからAを殴ることは悪いことである。Aに対する怒りが正しいのに、Aを殴ることが悪いのは、なぜだろうか。ここではCの心が矛盾していないだろうか。この矛盾をどのように考えればよいのだろうか。

Aに対する怒りが正しいのは、社会から見てのことである。Cは自分の怒りを正しいと考えるだろうが、それは社会から見て正しいと考えるということである。(これは「正しい」という語の用法に由来する。)Aに対する怒りは、Cだけでなく、社会の人々が共感ないし共有できる怒りである。他方で、Aを殴ろうとするのが悪いのは、<Cが>Aを殴ろうとすることだからである。<社会が>Aに制裁しようと意図するのであれば、(おそらく)それは悪いことではないだろう。しかし、CがAを殴ろうとする意図は、社会から見て悪いことである。それゆえに、Cもまたそれを社会から見て悪いことだと考えるのである。
Aに対する怒りを、Cは社会と共有できる。しかし、CがAに仕返しすることを、Cは社会と共有できない。なぜなら、CがAに仕返しすることと、社会がAに仕返しすることは異なるからである。

このように説明すれば、Cは、Aに対する怒りが正しくても、その怒りのためにAに仕返ししてはいけないことを納得できるだろうか。

ところで、Cは、Aに対する怒りをどのように処理すればよいのだろうか。社会にAの犯罪を訴えればよいのだろうか。しかし、CがAに殴られたというだけで、それを証言してくれるものがなかったらどうなるだろうか。警察は、それを立件しないだろう。Cの怒りは、Aだけでなく、警察や社会にも向かうことになるかもしれない。このような事例を次に考えよう。

「悪意」を持つことの矛盾

     冬の味覚、温州みかん、英語でsatsumaだそうです。

昨日の宿題は、「当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解するのだろうか」であった。

 まず、(b)と(b1)について考えよう。当人は、次の(b1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)として理解するのだろうか。
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」

たとえば、隣人Aの騒音がうるさくて迷惑していた人間Bが、隣人Aを殺したとしよう。第三者から見るならば、<隣人AがBに迷惑をかけたことは悪いことであり、BがAを恨むのはもっともではあるが、Aを殺すことは過剰な仕返しであり、それは悪いことである>ということになるだろう。つまり、第三者から見るならば、BのAに対する心は、「悪意」である。
 では、このときB自身はどう考えているのだろうか。ある日ついに堪忍袋の緒が切れて、カッとしてAをころしたのだとすると、カッとしているときには、Aに対して怒っているのであって、自分の行為が過剰な仕返しだとは思っていないだろう。犯行後、冷静になって考えると、過剰な仕返しであったということ、そのときの敵意は「悪意」であったことをみとめるかもしれない。では、犯行の時点で、自分の心(気持ち、意志)を「悪意」だと考えることはないのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。
 他の例を考えてみよう。AがBを殴ったとしよう。Bは後日Aを待ち伏せて殴り返したとしよう。このとき、Bは「Aに仕返しをすることは悪いことではない」と考えている。なぜなら、もしそう考えていれば、仕返ししないだろうからである。しかし、Bは、もしそのとき近くに警官がいることに気がつけば、仕返しを中止するだろう。なぜなら、仮にAがBを以前に殴ったとしても、BがAを殴り返すことは犯罪になることを知っているからである。つまり、Bは、「Aに対する仕返しであるとしても、Aを殴ることは悪いことである」と知っているのである。(この場合には、Bは、Aに対して「悪意」を持っていると自ら考えていることになる。)

 この場合、Bは一方では「Aに仕返しをすることは悪いことでない」と考えており、他方では、「Aに仕返しすることは悪いことである」と考えている。この矛盾について、我々はどう考えればよいのだろうか。

 犯罪をしない善良な人間Cの場合には、「Aに仕返しすることは悪いことである」と考えて、仕返しないだろう。しかし、そのような人間Cであっても、「仕返ししたい」という気持ちをもつことはあるだろう。この場合に、Cは、「仕返しすることは悪いことである」と考えている限りにおいて、「仕返ししたい」というその気持ちを「悪意」だと考えるだろう。つまり、Cは自分のうちに「悪意」を見つけるのである。
 このとき、Cの心は、矛盾していないだろうか。

悪意と敵意の違い

         今朝の奈良です。向こうに見えるのが生駒山系です。
         この道路が第二阪奈です。
         議論が、今朝の天気のように曖昧もことしていないことを祈ります。

悪意と敵意の違いについて

たとえば、「聖戦」や「正義の戦争」を戦っているつもりの人は、相手に対して「敵意」を持っていることをみとめるだろうが、相手に対して「悪意」を持っていることを認めないのではないだろうか。「悪意」をもつことは悪いことであるが、悪いやつをやっつけようとすることは悪いことではないので、自分の意志は「敵意」ではあても「悪意」ではない、と彼/彼女は考えるだろう。

たとえば、悪者が弱い者いじめをしているときに、正義の味方がやってきて、悪者を退治するとき、正義の味方は、「善意」の持ち主であって、「悪意」の持ち主ではない。

敵意は、「相手に害を加えようとする心」(goo辞書による)であるとしよう。このとき、相手が悪くないときには、その敵意は「悪意」とよばれ、相手が悪いときには、その敵意は「悪意」とは呼ばれない。つまり、悪意は、敵意の下位集合を指す。以下では、「敵意」一般を、相手が悪くない場合の「悪意」と、相手が悪者である場合の「悪意でない敵意」(ときに単に「敵意」とよぶ)に区別して用いたい。

前回、「悪意」を次の3つに区別した。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

これをもう一度考え直そう。

(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

上の(a)の「悪意」が「悪意でない敵意」である場合はないだろう。

上の(b)は、個人的に相手である個人や組織を恨んでいるのだから、彼にとって相手は悪者であり、それゆえに、(b)は「悪意」ではなくて「悪意でない敵意」である。
つまり、つぎのように言うべきだ。
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」
しかし、個人的な恨みを持っていても、その恨み以上の仕返しを考えているのならば、仕返しの過剰な部分に関しては、悪意である。だから最初の(b)が正しい表現であるケースがある。

上の(c)はどうだろうか。理由が何であれ、社会が悪いと考えているのならば、社会に害を与えようとするとの心は、「悪意」ではなくて、「敵意」である。そうすると次のように言うべきである。
(c1)自分を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする敵意」
しかし、「自分の悪い行為」を正当化するために社会が悪いと考えるのだとすると、社会は悪くないということになる。そのときには、社会に害を与えようとする心は、「悪意」になるだろう。

当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解するのだろうか。

悪意の分類

小山楽山翁の石碑です。もちろん彼は詐欺師でも悪人でもありません。
      写真がなかったので、正月にとった写真をのせました。
         

「大きな嘘に成長することになる最初の小さな嘘はどうして生まれたのだろうか。」
これが前回の宿題だったが、これは案外難しい問題なので、少し問題をかえて、絡め手で詰めることにしたい。

「人はどうして嘘をつくのだろうか。」これについては、次のようなパターンの分類が考えられるだろう。
①そもそも嘘をつくことが全く悪いことだとは思っていない。
  ②嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、自分の利益になる。
  ③嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、相手の利益になる。
  ④嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、第三者の利益になる。
  ⑤嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い相手に不利益を与える。
  ⑥嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い第三者に不利益を与える。
偽装事件の場合に、嘘をつくのは②のケースである。詐欺師の場合も②の場合である。

詐欺師の場合、その悪意はどのように始まるのだろうか。彼は、お金がほしくて、詐欺をする。しかも、彼は捕まらずに詐欺ができると考えている。彼は詐欺が悪いことだと考えているだろう。詐欺をはっきりと悪いことだと考えているが、しかしそれよりもお金がほしいという利己的な欲望が優先するのだろう。ただし、詐欺師の場合には、その悪意の背後には、「利己的な欲望」だけでなく「社会に対する悪意」があるかもしれない。その「社会に対する敵意」は、自分の行為を正当化するために、社会が悪いのだと考えることから、生まれるのかもしれない。たとえば、まともに生きようとしていたのに、詐欺をせざるを得なくなった、その責任を社会に負わせて社会を恨むことから、敵意が生まれるのかもしれない。

以上の例からとりあえず、「悪意」を次の3つに区別できる。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」
上の嘘の②③④は、(a)に属する。⑤と⑥の一部は(b)に属し、⑥の一部は(c)に属する。

(a)や(b)が含まれている悪は、事情がわかれば理解できるいわば「凡庸な悪」である。では、わけのわからない「特異な悪意」は(c)だけからなるのだろうか。それてとも、(a)(b)(c)のどれでもないような悪意なのだろうか。

そのまえに、悪意と敵意をどう区別すべきかを考えてみよう。

商人の利益はごまかし?

       都会には小さな嘘が渦巻いている?

食品偽装、再生紙偽装など、最近よくニュースになる偽装事件は、おそらくは、最初から大規模な偽装を計画して行われたものではなくて、最初はごく小さなごまかしから始まったのではないだろうか。最初の小さなごまかしは、「儲けたい」という欲望によるものだったのだろう。小さなごまかしが次第に大きなごまかしになって行く、そのプロセスをどこかでとめることができなかったのは、「怠惰」からではないだろうか、あるいはいまさら人に言えないという「臆病」からかもしれない。
では、最初の小さなごまかしは、どうして生じたのだろうか。儲けたいという欲望は誰にでもある。儲けることは、つねに誤魔化しなのだろうか。例えば、商人の儲けは、常にごまかしによるものなのだろうか。
そうではない。たしかに、多く場合、商人はその取引によって、どれだけの儲けがあるのかを、明らかにしない。例えば、果物屋さんでりんごを買うときに、「いくらで仕入れたの」ときいても、本当のことを言ってくれないような気がする。「いくらで仕入れたの」とたずねることもまた、相手を疑うようで、はばかられる。商人は店先で、仕入れ値を聞かれて、本当の仕入れ値より少し高く答える、というようなことがあるかもしれない。これは道徳的に悪である。しかし、このような質問に正直に答えることが商人の義務であるとは思われない。
商人の利益は仕入れ値の何パーセントかに決まっているわけではない。時には、利益が出ないときもある。仕入れの値段も、売値もそれぞれの市場での需要と供給の関係で決まる。商品の価値が需要と供給で決まるときに、商品の品質についての正しい情報が提供されて、その品質と値段を買い手が納得して買うのならば、売り手がどれほど大きな利益を得ても、それは正当な利益である。通常は、商人は、仕入れ値については、答える必要はない。「仕入れ値がそんなに安いのなら、もっと安くしてください」という要求は、つねに仕入れ値よりも高く売れるとは限らないというリスクをとって商売をしている人に対しては、過剰な要求だからである。(もっとも、答える必要がないということは、答える代わりに嘘をついてもよい、ということではない。例えば、絵画の仕入れ値を法外に高く偽って、それを高く売ろうとすることは、詐欺である。)
商品の品質について間違った情報を意図的に提供して、より多くの利益を得たとすれば、その利益はごまかしによる不当な利益である。これは法的に悪である。商人は、商品の品質については、正しく答えるべきである。
儲けたいために、品質について嘘をつくとしよう。なぜ嘘をつくのだろうか。嘘をつくことが悪いことだと思っていなければ、嘘をつくだろう。嘘をつくことが悪いことだと思っていても、その理解が曖昧であれば、儲けたいという明確な欲望が優先することもあるだろう。では、このような最初の小さな悪を阻止するためには、嘘をつくことがなぜ悪いのかを、周知すればよいのだろうか。
最初の小さな嘘はどうして生まれるのだろうか。

凡庸な悪の起源について

           フィヒテ『道徳論の体系』全集第9巻、以下で引用した本です。

私は、悪意には「凡庸な悪意」と「特異な悪意」があるように思う。前者は、その動機、つまり悪意の原因ないし理由が容易に想像できるもののことである。この書庫で分析したいのは、その動機がわかりにくい、後者の「特異な悪意」の方なのだが、このような二分法も、とりあえずの設定である。

前者の凡庸な悪意については、たとえば、次のフィヒテの説明が手がかりになるだろう。
フィヒテは、人間の三つの根本悪癖について次のように述べている。

第一の真の積極的な根本悪、怠惰について
「反省に対する根源的な怠惰、またそこから帰結することだが、この反省に従った行為に対する根源的な怠惰・・・これが真の積極的な根本悪であろう。」(フィヒテ『道徳論の体系』忽名敬三、高田純、藤澤賢一郎訳、フィヒテ全集第9巻、晢書房、訳242)
「カントがきわめて正しく述べているように、人間は生まれつき怠惰なのである。」(訳245)

第二の根本悪癖、臆病について
「この惰性からさしあたり発現するのが、人間の根本的悪癖としての臆病である。臆病とは、われわれの自由と自立性が他人のそれと交互関係にあることを主張する際の惰性である。いかなる者でも、相手の弱さを断固として確信しているときは、その相手に対して十分に勇気をもつ。しかし、このように確信していないときには、人は、つまり、自分自身よりも 強い――その強さがいかなる種類のものであれ――と推測される者に関わるときには、自分の自立性を主張するのに必要な力の行使を恐れ、屈服してしまう。――物理的意味であれ道徳的意味であれ、人間の間にみられる奴隷状態はこのようにしてのみ説明されることができる。すなわち、卑屈と追従がそれである。」(訳246)

第三の根本悪癖、不実(虚偽性)について
「臆病者は心底からこのように服従するのではないが、服従する際に、とくに狡知と欺瞞を当てにする。というのも、臆病さから自然に生じる人間の第三の根本的悪癖は、不実(虚偽性)であるからである。」訳246「すべての不実、すべての嘘、すべての詭計や策略は、抑圧者がいるために生じるのである。他人を圧迫する者はこのことに対して準備ができていなければならない。――臆病者だけが不実である。勇気ある者は嘘をつかず、不実ではない。たとえ徳のゆえではないにしても、誇りと性格の強さのゆえにそうなのである。」(訳247)

「怠惰」から「臆病」がうまれ、「臆病」から「虚偽」が生まれる。臆病から、虚偽が生まれるという説明は、ニーチェの『道徳の系譜』での「奴隷道徳」を思わせるようなするどい分析だと思う。

凡庸は悪意は、このような仕方で説明できるだろう。

(読者?の皆様、悪意の起源についての説明で興味深いもの、重要なものがありましたら、ぜひ教えてください。)

Walden Pond で死にそうになった話し

     

Walden Pond ってなんやねん。
という方は、Wikpediaで「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」を引いてください。
彼の書物、『ウォールデン-森の生活』 (Walden: or, the Life in the Wood,1854年)
のタイトルになっている池です。周りを一周しておそらく2キロくらいだろうとおもいます。
写真のような雪の日に、周りを一周していて、危うく池に落ちるところでした。
一箇所とても危険なところがあります。

ソローは池のほとりの上の写真のところに、小さな小屋を作って、2年ほど一人で暮らしました。
といっても、コンコードの町まで歩いて一時間ほどなので、時々は町に買出しに行って
いたのではないかと思います。

この横に立っていた立て札に彼の文章が書いてありました。

「私は森へ向かった。それは、自由に生き、人生の本質的な事実だけに向き合うことを望んだからだ。」(さて、このあとの部分をどう訳したものでしょうか。もしわかる方がおられましたら、教えてください。)

池の周りには、森が広がっています。

アメリカの自然保護運動の先駆者といわれていますが、
『市民政府への反抗(市民的不服従)』 ("Resistance to Civil Government",1849年
というような本もあって、これもまた重要です。

あけましておめでとうございます

       Walden Pond です。

あけましておめでとうございます。
この秋冬の仕事と雑用で、しばらく休筆してしまいました。
二つ目の宿題が今日終わりまして、あともう一つこの冬の仕事が残っていますが、
少し余裕ができました。

年末年始にかけて、数年ぶりの友人や親類に会うことが、偶然にいくつか重なりました。
お互いに年をとっているのですが、しかしそれ以外はなにも変わりません。
しかし、少し感じたのは、年をとるにつれて人間の個性というものは、ますます色濃くなる
ということです。

人間の個性と言うのは、ある年齢までにほぼ出来上がって、後はあまり変化しない、というように思われているのかもしれません。そのような認識も間違いではないないと思いますが、今回、人間の個性というのは、年を取るにつれてますます顕著になってゆくというように思いました。

さて、私のブログは、一体どこから手をつけたらよいものでしょうか。どの書庫も途中でおわっていて、これから先を続ける必要があります。しかし、その前に、これまでの経過をまとめておく必要もあるでしょう。そして、困ったことに私には書きたい別のテーマもまたいくつかあるのです。

さてさて、いづれにしても、ゆっくりとやってゆくことですね。
ただし、休まずに。
今年も、よろしくお願いします。