59 暗黙的推論と実質的推論 (20230611)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

私は、疑問表現を取得したあとも、私たちは暗黙的問答を行っていると考えているのですが、これを検討する前に、問答推論ではなく通常の推論についての「暗黙的推論」と「実質的推論」の関係について考えておきたい思います。      

R・ブランダムは、「推論の正しさが、その前提と結論の概念内容を決定するような種類の推論」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、p. 71)を「実質(的)推論」と呼ぶ。通常の推論つまり「形式的推論」では、推論の正しさは、それに含まれる論理的語彙の意味に基づいて説明されるます。しかし、実質的推論では、逆に、推論が正しいということから、論理的語彙の意味を決定します。また論理的語彙の意味だけでなく、その他の語彙の意味も決定することになります。

では、この実質的推論は、前に見た暗黙的推論とどう関係するのでしょうか。暗黙的推論とは、例えば、「雨が降っている」から「道路が濡れる」を結論する推論です。この推論を論理的語彙を用いて明示化すると、「雨が降っているので、道路が濡れる」などの文になるでしょう。これは、原因と結果の関係(前提と帰結の関係の一種)を明示的に表現しています。「ので」は、原因と結果の関係、ないし前提と帰結の関係を明示化する語彙です。

ここで、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味からこの暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことがわかるのだとすれば、それは「形式的推論」です。逆に、この暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことから、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味が規定されると考えるとき、この暗黙的推論やこの明示的推論は、「実質的推論」です。つまり、暗黙的推論と明示的推論の区別と、形式的推論と実質的推論の区別は、独立しています。

ところで推論は原初的には暗黙的推論であり、それが明示化されるのだと考えられます。さらに、語や文の意味は、原初的にはその使用法であるとすると、暗黙的推論は、原初的には実質的暗黙的推論です。では、実質的暗黙的推論は、次に実質的明示的推論になるのでしょうか。それとも形式的暗黙的推論になるのでしょうか。形式的暗黙的推論は、それぞれの文の意味に基づいて正しいとされる推論でした。そのためには、それぞれの文の意味が前もって確定していなければなりません。文の意味の確定、つまり明示化は、それの使用法、それを用いた推論の明示化かによって可能になります。したがって、実質的暗黙的推論は、まず実質的明示的推論になり、その後で、形式的暗黙的推論になり、最後に形式的明示的推論になるのだと思われます。

 これを準備作業として、次に、問答についての、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別について考えたいとおもいます。

58 疑問表現を用いない暗黙的問答について (20230604)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回に、論理的語彙を使用せすに行われる推論を暗黙的推論と呼びましたが、それと同じように、疑問表現をもちいなくても問うことや問答が行われることがあり、それを「暗黙的問い」や「暗黙的問答」と呼びたいと思います。例えば、

  「これは」「リンゴです」

なにかを指さして「これは」といえば、相手は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの問いとして理解し、「リンゴです」とか「100円です」とか答えるでしょう。このとき、「これは」は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの省略形である場合もあるでしょう。

しかし「なに」という語(の使用法)を知らない場合にも、「これは」で何かを求めていると理解できる必要があるのではないでしょうか。もしそれが理解できないとすると、「何」という語の使用法を学習することや教えることの説明がかなり難しいでしょう。

 言語を持つ以前の人間や他の動物は、探索行動をします。例えば、エサを探します。言語化すれば、「これは食べられるだろうか」とか「これはなにだろうか」などの問で表現できる探索行動をしていると思われます。「これ」や「リンゴ」などの語を取得すれば、それらをもちいて問うことができるでしょう。「これ」や「リンゴ」などの語を学習するためにも、探索が必要です。そこでは語の使用方法を確認しようとする問答が必要になるはずです。

 ところで、すでに疑問表現を習得している私たちも、このような暗黙的な問答を行っているのではないでしょうか。それを次に考えたいと思います。

57 保存拡大性の定義の修正 (20230528)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 私には、tonkで明示化できるような暗黙的な推論は成立していないように思われます。しかし、それを証明することも難しように思われます。

そこで、<暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまう>という懸念を回避するために、保存拡大性の定義をつぎのように修正したいとおもいます。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった明示的推論が正しくなることはなく、正しかった明示的推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の明示的推論関係が保存される>としたいと思います。

このようにすれば、tonkのような論理結合子を排除できます。

56 暗黙的推論について (20230527)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#暗黙的推論(implicit inference)

論理的語彙とは、推論関係を明示化するための語彙ですが、推論は、論理的語彙がなくても可能です。例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき、私たちは暗黙的に推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。私たちは、暗黙的に行っている推論を明示化するために、論理的語彙を使用するのです。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではない」と言えます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的表現「ない」「ので」を使用しています。暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要なのです。

#論理的語彙の保存拡大性

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

N.BelnapやM.Dummettがこのような論理的語彙の保存拡大性を考えたとき、彼らは暗黙的推論を想定していなかっただろうと思います。私も、『問答の言語哲学』では、このような暗黙的推論を考えていませんでした。

#暗黙的推論を認めるとき、論理的語彙の保存拡大性は変化するのか?

 論理的語彙によって明示化される明示的推論は、論理的語彙を用いないでも暗黙的に成立している暗黙的推論であるとすると、論理的語彙によって可能になるすべての推論は、論理的語彙を除去規則によって除去しなくても、論理的語彙を導入する前から、暗黙的推論として成立していたことになります。したがって暗黙的推論をこのようなものとして想定するとき、論理的語彙の保存拡大性は、自明なこととして成立します。

 ところでベルナップが論理結合子が「保存拡大性」を持つべきだと提案したのは、次の「tonk」のような不適切な論理結合子を排除するためでした。これは、次のような導入規則と除去規則を持つ論理結合子です。

  p┣ptonk r  (導入規則)

      ptonk r┣ p  (除去規則)

    ptonk r┣ r  (除去規則)

上記のような仕方で暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまいます。

 この問題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。

47 GPT4による規則遵守問題の解決(20230524)

[カテゴリー:日々是哲学]

1000+2が1004ではなく1002であることをどうやって正当化するかという問題(ウィトゲンシュタインの指摘した規則遵守問題)は、最終的には社会的サンクションによって解決するしかないという考え(クリプキ)があります。この社会的サンクションをより具体的に考えるときに、ロバート・ブランダムはヘーゲルの承認論を用いようとします。しかし、(GPT4のような)大規模言語モデル(LLM)のAIが社会インフラになるとき、AIによって社会的サンクションが与えられるようになるのではないでしょうか。知の規則遵守が、社会的サンクションによって成立するとすれば、それはLLMのAIによって成立します。それで?(ここから先は、これから考えます)

55 論理的語彙の保存拡大性:再考 (20230521)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回検討した批判を、「疑問表現の保存拡大性」に基づいて説明すると、それは次のような批判だと思われます。<疑問表現が保存拡大的であるとしたら、その使用によって、その他の推論関係を変えないはずである。したがって、その使用後に両立不可能な関係が成立しているのだとすると、その使用前にも両立不可能な関係が成立していたはずである。したがって、同一の問いに対するある二つの答えが両立不可能であるとしたら、それの二つの主張は、同一の問いで問われる前から両立不可能であったと思われる。>

この批判を検討するために、疑問表現と論理的語彙の「保存拡大性」について考察したいと思います(これについては、『問答の言語哲学』で論じましたが、ここではもう少し議論を深められると思います)。今回はまず論理的語彙の保存拡大性について考察します。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

ゲンツェンは、論理結合子の使用法をそれの導入規則と除去規則で説明しました。しかし、どのような導入規則と除去規則を明示すれば、どのような論理結合子を設定してもよいとすることはできません。そこでBelnapは、上記の「保存拡大性」を必要条件として提案しました。

論理結合子の導入規則(I)と除去規則(E)は、次の通りです。

ところで、私たちは、論理的語彙を使用する前にも、推論を行っています。それを「暗黙的推論」と呼ぶことにします。私たちは、論理的語彙を導入することによって、暗黙的推論を明示化するのです。これによって、命題と命題の論理関係が明示化されます。

例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき私たちは論理的語彙を使用しませんが、暗黙的推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。つまり、暗黙的に行っている推論を明示化するには、論理的語彙が必要です。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではありません」と言うことができます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的語彙「ない」「ので」を使用しています。私たちが暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要です。ブランダムは、論理的語彙のこの働きを「論理的語彙の表現的役割」(MIE110,231,AR57,68)とよびます。(これらの語彙は、歴史的に当初は論理的語彙ではなかっただろうとおもいますが、しだいに論理関係を明示化するという役割が明確になってきたのだろうと思います。)

この「論理的語彙の表現的役割」(暗黙的推論が論理的語彙によって明示的推論になること)を認めることは、「論理的語彙の保存拡大性」とどう関係するでしょうか。それを次に考えます。

54 論理的関係の明示化と明示化以前の関係 (20230516)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回、「両立不可能性」や「帰結」の関係は、同一の問いに対する二つの答えの関係として成立することを説明し、それに対して次のような批判が予測できることを述べました。

<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

今回はこの批判に答えたいと思います。同一の問いをもつ二つの問答によって、二つの命題の両立不可能性が明示化されますが、この批判がいうように、その両立不可能性は問答の前にも暗黙的に成立しているのでしょうか。

もし<命題の概念関係が、問答とは独立に成立しており、問答が命題の概念関係を変えない>とすると、この批判が言うように問答の前にも両立不可能性が成立していることになるでしょう。

しかし、<命題の意味は相関質問との関係において成立する>とすると、命題の概念関係もまた相関質問との関係において成立し、それゆえに命題の概念関係は問答とは独立に成立していないことになります。私は、この立場を取りたいと思います。

しかし、この場合、<上記の問答の前には両立不可能性は成立していない>ということではありません。現実に問答が行われていないときも、もし問答③の問いが問われたならば、その答えが答えられるだろう、という反事実的条件法は成立しているだろうと考えます。この意味で、問答関係が暗黙的には成立していると考えます。このように考えるならば、両立不可能性も暗黙的に成立していることになります。だだし、それは問答とは独立に成立しているのではありません。両立不可能性を明示化する問答が暗黙的に成立しているのです。

 上記の批判は、「疑問表現の保存拡大性」とも関係していますので、次回に、疑問表現と論理的語彙の保存拡大性について考察して、その後この批判について別の角度から考察したいと思います。

53 推論法則を問答論的矛盾から証明する(20230510)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(焦点位置を最初は、下線で表示していたのですが、それが反映されないので、[ ]Fで表示しなおしました。)

(更新が遅れてすみません。拙著の執筆のために、他の論点をいろいろ考えているうちに、ここでの話になかなか戻ってくれなくなってしまいました。科研の実績報告書の締め切りとか、GPT4のことを考えたりとか、もありました。)

 前回は、4種類の矛盾を、通常は、論理的矛盾を基礎に据えて、それをもとに意味論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに語用論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに問答論的矛盾刷ることが想定されるが、逆に、問答論的矛盾を基礎にして、そこから語用論的矛盾、意味論的矛盾、論理的矛盾を説明することもできると述べました。

この後者の説明順序を採用するとき、問答論的矛盾や問答規則によって、語用論的規則や意味論的規則や論理的規則を説明することになるだろうという予測を述べました。この予測を具体的に証明することがここでの課題です。

この課題には、『問答の言語哲学』第四章ですでに少し取り組みはじめていました。基本的な論理法則である同一律や矛盾律の正しさは、その正しさを問う問いに、否定的に答えることが問答論矛盾になる、ということから背理法によって説明できます。ただしこの論法は古典論理を前提するので、限界があります。(これについて『問答の言語哲学』第四章で論じました)。

そこで少し違ったアプローチで、この課題に取り組んでみたいと思います。(ブランダムが推論関係の基礎と考えていた)「両立不可能性」と「帰結」について、問答関係の観点から、説明を試みたいと思います。

 まず両立不可能性について。コリングウッドは、二つの主張が矛盾することは、それらが同一の問いに対する答えである場合に成り立つと考えました。その根拠は、<命題の意味は、問いに対する答として成立する>ということと、<同一の文でも相関質問が異なれば意味が異なる>ということにあります。二つの主張が同一の問いに対する答である場合に、両立不可能性が成立するのです。

 これをもう少し具体的に説明します。命題は、問いに対する答えとしてのみ意味をもつ、とすると、問答のセットが意味を持つことになります。それは、焦点付き命題です。もし二つの主張が同一の問いに対する答としてのみ矛盾するとすれば、次の二つの答えは矛盾しません。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

②「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴでない]F

この二つの答えが矛盾すると考えるとき、私たちは次のように考えています。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

という問答の答えから改めて次の問いを立て、次の答えを得ます。

  ③「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴ]Fです」

こうすると、③は、上の問答セット②の問いと同じであり、③の答えと②の答えは矛盾します。文の発話の焦点は、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうとき、焦点位置を変更できます。

 (「矛盾」と「両立不可能性」は厳密には異なります。pとrが矛盾するとは、pとrの真理値は常に逆になる、ということです。それに対してpとrが両立不可能であるとは、pとrが共に真となることはあり得なませんが、pとrが共に偽であることはありえます。コリングウッドは「矛盾」についてこのことを語っているのですが、「両立不可能性」についても同じことが成り立つと思います。)

次に、「帰結」について。(コリンウッドは帰結についてはこのように述べていませんが)私たちは、<ある命題が別のある命題から帰結するということが成り立つのは、それらの命題が同一の問いに対する答である場合である>と言えると思います。それを具体的に説明しましょう。

例えば、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。今仮にこの二つの発話を次の問答によって得たとしましょう。

   ④「これは[何]Fですか」「これは[銅]Fである。」

⑤「[どれ]Fが電導体ですか」「[これ]Fが電導体である」

この場合には、④の答えから⑤の答えが帰結するようには見えません。そこで、⑤の問答に続いて次の問答をしするとしましょう。

   ⑥「これは[何]Fですか」「これは[電導体]Fである」

このとき、この⑥の答えは、④の答えから帰結するといえます。上記の場合と同様に、文の発話の焦点位置については、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうことによって、焦点位置を変更できます。このようにして焦点位置を揃えるとき、二つの命題は「帰結」関係になりえます。

(ここでの「帰結」関係は、論理的帰結関係ないし意味論的帰結関係であり、因果的帰結関係ではありません。)

ここで或いは次のような批判があるかもしれません。<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

この批判について、次に考えたいと思います。

52 4種類の矛盾の説明順序を逆転させる (20230501)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#4種類の矛盾の説明の順序

①構文論的矛盾(論理的矛盾)

②意味論的矛盾

③語用論的矛盾

④問答論的矛盾

これらは、この順番で説明されることが多いでしょう(拙著『問答の言語哲学』第4章でも、この順序で説明しました)。しかし、この説明の順番を逆にするほうが適切であるかもしれない。

まず、<③語用論的矛盾は ④問答論的矛盾から説明できます。>

語用論的矛盾は、命題内容と発語内行為の矛盾から生じるが、命題内容は問いへの答えとして成立する。他方で、発語内行為も亦、質問への返答として成立する。(この二点については、『問答の言語哲学』で論じました。)したがって、語用論的矛盾は、<相関質問への答えの命題内容>と<相関質問への返答としての発語内行為>の矛盾である。語用論的矛盾は、相関質問への答えの命題内容と、相関質問への返答の発語内行為の矛盾です。返答の発語内行為は、質問において既に指定されているので、語用論的矛盾は、発話の命題内容が、相関質問の想定と矛盾するということです。このように理解するとき、<すべての語用論的矛盾は、問答論的矛盾の一種である>と言えます。

次に、<①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。>

推論規則やそれに基づく論理的推論は、おそらくブランダムがMaking It Explicit、やArticulating Reason (『推論主義序説』)で主張するように、実質推論の一種として説明できるでしょう(これについても『問答の言語哲学』で論じました)。したがって、①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。

さらに最後に、<②意味論的矛盾は、③語用論的矛盾の一種として説明できるのではないでしょうか>。

「わたしは存在しない」は語用論的矛盾の一例です。こでは、<話し手が主張する>という発語内行為と、<話し手が存在しない>という命題行為(命題内容を構成する)が矛盾します。他方、「この赤リンゴは青い」は、意味論的に矛盾しています。この命題から、「このリンゴは赤い。かつこのリンゴは青い。」を導出できますが、これが矛盾するのは、「赤い」と「青い」という二つの述語を一つの対象に述語づけることができないからです。より正確にいうならば、「このリンゴは赤い」と「このリンゴは青い」が同一の問いに対する答だからです。同一の問いに対するこの二つのコミットメントが両立不可能だからです。

「この赤いリンゴは青いですか」に「それは青いです」と答えることは、問いの前提に矛盾します。つまり、この問いは、「この赤いリンゴ」が指示する対象が存在することを前提していますが、答えはその前提を否定しているからです。これは、問答論的矛盾です。また他方で、意味論的矛盾は語用論的矛盾の一種だともいえます。答えが、問いに対する答えとなるためには、問いの前提を受容している必要がありますが、問いに答えるという発話行為は、問いの前提を受容することを含意しているのに、答えの命題内容はそれを否定しているからです。

もし、発話の意味や発語内行為が、問答関係において成立するのだとすると、これらの矛盾は、問答論的矛盾から説明する方が適切であるかもしれません。

もし問答論的矛盾から論理的矛盾が説明することが適切であるならば、論理法則もまた問答論的矛盾から説明することが適切であるかもしれません。次回は、それを試みたいと思います。

92 遅くなりました3/10の研究発表の質疑の部分です (20230423)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

87回で予告したのですが、20230310の私発表「概念実在論と問答推論」の後に行われた質問コメントに対する回答を作りましたのでupしました。

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230422%20%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%8C%E6%A6%82%E5%BF%B5%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%8E%A8%E8%AB%96%E3%80%8D%EF%BC%88Ver3%EF%BC%89.pdf)

最後の2ページに以下の質疑の部分があります。その他の部分は、Ver2とまったく同じです。

以下には、質疑の部分だけを掲載します。

質疑:

1、川瀬さんからの質問:「発表の中での次の引用文

「彼は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

この中の「主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存」というのは、どういうことでしょうか。」

(多分このようなご質問だったと思いますが、記憶があいまいなのでちがっていたかもしれません。当日は、うまく答えられなかったので、ここで答えたいと思います。)

この「指示依存」は、たとえば語「机」が対象<机>を指示するというような表象関係のことではありません。発表の中で述べたように、指示依存は、概念間の依存関係であり、<概念Xが概念Yに指示依存する>とは、<概念Xの指示対象が、概念Yの指示対象が存在しなければ、存在しえない>ということです。たとえば、語「机」という主観的なものの概念は、対象<机>という客観的なものの概念に指示依存します。なぜなら、語「机」という主観的なものは、対象<机>という客観的なものが存在しなければ、存在しえないからです。

2,大河内さんからのコメント:問いは、発話の意味を考えるときの、一つの条件に過ぎないのではないか?

[

わたしは、問いは、初の輪意味を考えるときの<一つの条件に過ぎない>のではなく、<不可欠な条件>であると考えています。その論拠として当日は、次の二点を答えました。

1,発話の意味は推論関係によって示されるが、より正確には問答推論関係によって示される。

2,発話は焦点をもつが、発話の焦点の位置は相関質問との関係によって明示化される。

この答えに、次の点を加えたいとおもいます。

3,発話がどのような発語内行為を行うかは、その相関質問においてすでに指定されており、発語内行為は、発話が相関質問への返答であることによって成立する。

以上の3点は、『問答の言語哲学』で詳しく論じたことでです。次は、最近考えていることです。

4,発話の意味は推論関係によって示されるのですが、ブランダムによれば、なかでも重要なのは<両立不可能性>と<帰結>の関係です。ところで、複数の発話の<両立不可能性>は、(コリングウッドが指摘したように)それらが同一の問いに対する答えであることによって成立します。また、ある発話から他の発話が<帰結>する実質的推論関係は、問いから答えが帰結するという実質的問答推論関係に基づいていると考えています(<帰結>についてはBSDの議論を援用して詳しく論じたいと思っています)。

3、(その後の居酒屋での)井頭さんからの質問:「ブランダムは、分析哲学研究にとって、ヘーゲル研究はどういう意味があると考えているのか?」

発表後、ブランダムの論文‘Some Pragmatist Themes in Hegel’s Idealism: Negotiation and Administration in Hegel’s Account of the Structure and Content of Conceptual Norms’(1995)を読んでみました。彼は、その冒頭において、二つのテーゼ:「意味論的プラグマティズムのテーゼ」=「言葉の意味は使用である」と、「観念論のテーゼ」=「概念構造と自己の構造は同一である」を示し、この二つのテーゼについて「意味論的プラグマティズムのテーゼは、観念論のテーゼによって実行可能になる」と主張します。ブランダムは、意味論的プラグマティズムが完成するためには、ヘーゲル的な観念論によって補完される必要があると考えているのだとおもいます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                        

4、(居酒屋での)朱さんからのコメント:「問いの答えのペアが単位として閉じてしまう印象がある。」

ブランダムは語ではなく命題を言語的な意味の単位であると考えます。その理由は、命題の発話によって言語行為が可能になるからです。そして、それを「命題主義」と呼びます(AR訳、19,47)。それに対して私は、言語行為は問答のペアによって可能になると考え、それを「問答主義」と呼びたいとおもいます。したがって、問答のペアを強調するのは、<命題主義をより広い文脈に開くための問答主義>であり、また<推論主義をより広い文脈に開くための問答推論主義>の説明のためなのです。しかし、確かに朱さんの言うように、問答のペアが単位として閉じてしまうという印象を与えただろうと思います。それを回避するために、二重入れ子型問答関係を強調したいと考えます。それは次のような関係です。

Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1を立てその答えA1をもとに、Q2の答えA2に辿り着く>という関係です。私たちが問いを立てるとき、多くの場合それはより上位の問いに答えるためであり、そのより上位の問いは、さらにより上位の問いを解くために建てられているだろうとおもいます。A1を中心にみるとき、Q1→A1の関係は、Q1から必要に応じて他の前提を加えてA1を推論する<A1の上流推論>になってます。またQ2→A1→A2は、Q2とA1から必要に応じて他の前提を加えてA2を推論する<A1の下流推論>になっています。

ここで重要なのは、問答のペアは、言語的な意味や言語行為の「単位」とはならないということです。問答関係は、他の問答関係と直列関係や並列関係になることもあるのですが、それと並行して、大抵は、内部に他の問答関係を含んでおり、また他方ではそれ自体がより大きな問答関係のなかに含まれています。問答関係は反復するパターンですが、意味や行為の単位ではありません。この説明によって、問答ペアが単位として閉じてしまうという印象を払拭したいと思います。