49 第三の問題、推論の説明の困難 (20220904)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが指摘したこれまでの二つの問題、知覚の説明の問題と行為の説明の問題は、どちらも心的な要素と物的な要素の両方を含んでいましたが、同じようなタイプの問題であって、この両方を含んでいないものがある、と彼は言います。それが「推論する」ことの説明の問題です。そして、デイヴィドソンは、ここにも二つの問題があると言います。

第一の問題は次です。

「われわれは推論を完全に心的な過程と見なすことができる。…しかしながら、論理的に関係しあう命題が単に心の中に生起したというだけでは、それ自体、推論であるのに十分ではない。、特定の思想に対する熟慮や是認が、他の思想を生み出して(つまり引き起こして)いなければならないのである。だがここでまた繰り返すことになるが、いかなる因果関係も十分ではない。われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、461)

第二の問題は次です。

「ところがそれでもまだ十分でないだろう。というのも、aとbからcが導かれると信じており、かつ、aを信じ、bを信じていることは、われわれが当のそのケースにさらに論理的導出性を結びつけないかぎり、適切な推論を通じて、われわれがcを信じているということを保証するのに十分でないからである。以上はルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」の心理的類比物である。われわれに必要なのは、前提への信念が推論においてどのように結論への信念を引き起こすのかについての、正しい説明である。」(同所)

私が、問答推論主義を主張するときに出発点としているのは、次のことです。<推論において、前提から論理的に導出可能な命題は常に複数あり、それからどれを選択して結論とするかは、前提だけから決定できないと指摘しました。私たちが推論するのは、問いに答えるためであり、その問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのだと思われます。>この推論の説明によって、上記の第一の問題を解決できていると思います。つまり、<前提だけが結論を導くのではなく、問いと前提が結論を導く>ということがが、デイヴィドソンへの答えになるでしょう。

では、第二の問題については、どう考えたらよいでしょうか。それを次に説明します。

48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。

47 デイヴィドソンの第二の問題:行為の説明の問題 (20220830)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが挙げている第二の問題は、行為の説明の問題です。

意図的な行為は、「なぜそうするの」という問いへの答え(行為の理由)によって説明されます。行為を説明するとは、行為を合理化することであり、行為の理由が行為を合理化します。

「行為の理由は以下の意味で行為を合理化する。すなわち、それらの理由に照らせば、その行為が他の人々にも理解可能になるという意味で。「理由は、行為者が自身の行為のなかに何を見ているか、行為者の目的や狙いが何であるかを、明らかにしてくれる。」(「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳、459)

デイヴィドソンは、「行為の理由」を二種類に分けます。

「理由には二つの主要なカテゴリーがある。認知的なもの(cognitive)と、動能的なもの(conative)の二つである。後者[動能的なもの]は、行為者にとっての価値や目的、到達点であり、問いの行為を行為者から見て実行する価値のあるものにする目標のことである。他方、前者[認知的なもの]は、行為者の信念であり、行為者が目標に置いている価値から、手段、すなわち終極的には、それによって目標が達成されると行為者が考えているところの行為へと移行するよう行為者に促す信念である。」(同訳、459)

この二種類の理由は、「なぜ、そうするのか」という問いに対する二種類の答え方になっています。

「動能的理由」とは、「なぜそうするのか」に行為の目標で答えたものです。「認知的理由」とは、「なぜそうするのか」にその行為(の事前意図)を結論とする実践的三段論法で答えたものです。この実践的三段論法の大前提には、行為の意図ないし目標設定が述べられているので、能動的理由と認知的理由は、密接に結合しています。一方だけでは、行為を合理化するには不十分です。

以上の分析を踏まえて、デイヴィドソンは、「なぜそうするのか」という問いへの答え(行為の理由)による行為の説明(合理化)には、二つの問題があることを指摘します。

「ところが、ある個別的な理由に基づいて行為することを、「行為者の信念と価値によって合理化される仕方で行為すること」と単純に定義することはできない。というのも、人は、自分の信念と価値のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも、しかしまったく別の理由のために、その行為をなすことがあるからである。」(同訳、459)

これについて、デイヴィドソンは次の例を挙げています。

「私はある一人の老人を助けることを欲するかもしれない。しかも私は、その老人に傘を直してもらい修理代を払うことによってその老人を助けられるだろうと信じるかもしれない。」((同訳、459)

ここでは次の実践的三段論法が行われています。

「老人を助けたい」「老人に傘を直してもらって、修理代をはらえば、老人を助けられる」┣「老人に傘を直してもらおう」

「にもかかわらず、それらの理由は、私が傘を彼に修理してもらい代金を支払ったことと無関係でありうる。というのも、私はただ、自分の傘を直したかっただけかもしれないからだ。」

この場合には次の実践的三段論法が行われています。

「傘を直したい」「老人に修理代をはらって傘を直してもらえば、傘を直せる」┣老人に修理代を払って傘を直してもらおう」

この例が示すのは、「老人を助けたい」が行為の理由であると考えるためには、単に「行為の理由」を述べるだけでは不十分であるということです。そこで、デイヴィドソンは次のように言います。

「明らかにわれわれは、理由に基づく行為の分析に、さらなる何かを加えなければならない。つまり、行為を実行するための理由になるものが、行為者による当の実行を説明する理由でもあることを、保証しなければならない。それに対しさしあたり私が正しいと信じる一つの提案は、「理由は、行為を引き起こしたときにかぎり、その行為を説明する」と述べることである」(同訳460)

しかし、「老人を助けたい」という目的と「傘を直したい」という目的のどちらが、行為を引き起こしているのかを、どうやって確認したらよいでしょうか。これが、私が理解する、デイヴィドソンが挙げている行為の説明の問題の一つ目です。これは、行為の動能的理由の特定が困難であるという問題です。

デイヴィドソンはこの特定ができても、別の困難があるといいます。

「とはいえそれではまだ十分条件にならない。なぜなら因果は逸脱した仕方で働きうるからである。いやしくも理由が、行為において行為者がもつ理由たりうるならば、その理由はまさに正しい仕方で当の行為を引き起こすのでなければならない。だが私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」460

この「逸脱」した因果の例について、訳注2で柏端さんは、デイヴィドソンの他の論文‘Freedom to Act’から、逸脱因果の例をふたつ示しています。一つは、ある人Aが別の人Bをライフルで殺そうと意図して、引き金を引いたが、打ち損じてしまし、その銃声に驚いたイノシシの群れが暴走してBを踏み殺した、という例です。もう一つは、仲間のつかまるロープを握っている登山家が、そのロープの重みから解放されたいと思い、ロープを持つ手を緩めれば重みから解放されると考えた瞬間、そのおそろしい考えに狼狽し、手の力が抜けてロープを放してしまう、という例です。

この逸脱因果の例は、「認知的理由」の適切性の条件を定式化する困難を示しています。

「私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」(同訳、460)

行為の合理性の説明に関するこの二つの困難を、問答の観点から考察するとどうなるかを次に論じたいと思います。

46 知識の因果関係と逸脱因果の問題 (20220824)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#原因を誤解する場合

一般的に原因と結果の関係を考えるとき、一つの結果は常に複数の原因を持ちえます。したがって、信念についても、ある信念を引き起こす原因には、常に複数のものがありえます。したがって、信念の原因だと思っている事実が、本当の原因であるとは限りません。このように原因を誤解するとき、その信念がたまたま真であるだけでは、知識を正当化できていません。

例1:時計が3時を指して止まっているのだが、ある人が、たまたまその時計を3時に見て、「今は時だ」と思ったとしよう。このとき、それは真であるが、しかし、時計が3時を指していることの原因は、時刻が3時であることではなく、時計が壊れていてたまたまその針が3時を指していたことである。

この場合、信念はたまたま真ですが、信念が表現している事実がその信念の原因になっていません。これは伝統的な知識の定義「知識=正当化された真なる信念」をみたすが、知識とは言えないという反例です。これを避けるために、Alvin Goldmannは論文A Causal Theory of Knowingで「知識の因果説」を主張しました。

#原因の誤解の可能性に気づいていない場合(逸脱因果の場合)

ある地域には、偽の納屋がたくさんあります。しかしそのことを知らない旅行者が、たまたま本物の納屋を見て、「納屋がある」と考えたとき、その考えは、本物の納屋があるという事実を原因として成立しています。しかしそれが偽物の納屋である可能性に気づいていないので、「納屋がある」という信念は、知識とは言えないと思われます。(これは「知識の因果説」への反例であり、「逸脱因果」と呼ばれます。これは、Alvin Goldmannが論文Discrimination and Perceptual Knowledge指摘しまた。)

#このどちらの場合も、原因と結果の関係が、1対1ではなく、多対1であることによって生じています。因果関係をもとに結果からその原因を推理するとき、原因と結果が、多対1であるために、間違った事実を原因と見なすことがありえますし、また、ある事実を正しく原因と見なしても、偶然にそうなっているだけのことがあり得ます。このような原因の複数性は原理的なものです。では、<私たちはどのようにして、ある事実を原因として想定するのでしょうか>。この場合、原因の特定は、問いに対する答えを求めることとして成立するのだと思われます。

上の例では、その地域に、偽の納屋があることを知っていれば、その人は「あれは本物の納屋だろうか」と問い、仮に本物の納屋を見ていても、それが本物の納屋だと判断できなければ。「あれは納屋だ」とは答えないでしょう。本物の納屋だと判断するには、根拠が必要です。つまり、知識であるためには、対象との間に因果関係が成立しているだけでなく、そのことを知っていなければなりません。そして、その場合に、対象(納屋)との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、偽物の納屋の可能性を排除しなければなりません。本物の納屋との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、対象が偽物の納屋ではないことを知っている必要があります。そのためには、それを確認できるところまで、対象に近づいて見ること、あるいは近づいて触ってみることなどが必要です。

しかし、偽物の納屋の可能性があると思っていないならば、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは、人が住む家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクター、などでなく、納屋だろうか」という問いであり、その対象が、家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクターなどでないことを確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。つまり、「あれは納屋か」と問い、通常の納屋の特徴が見えた時に、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。

それに対して、偽物の納屋の可能性があると思っているときには、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは本物の納屋だろうか、それとも偽物の納屋だろうか」という意味で問われ、偽物の納屋でなく、本物の納屋である特徴を確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。二つの場合では、「あれは納屋だろうか」と問うときの注目点が異なります。それに応じて、答えの「あれは納屋だ」の意味も異なります。一方では、「あれは納屋だ」は、「納屋の特徴を持つ建物だ」という意味であり、他方では、「あれは偽物のなやではなく、本物の納屋だ」という意味になります。

偽物の納屋がある地域で、そのことを知らずに「あれは納屋だろうか」と自問し「あれは納屋だ」と答える者は、間違っているのでしょうか。「あれは納屋だ」が、「あれは納屋の特徴を持つ建物だ」という意味で問われているのならば、それが偽の納屋であったとしても、本物の納屋であったとしても、それは正しい、と言えるかもしれません。

逸脱因果の場合であっても、その問いに対する答えとしては、その答えはある意味では正しい、と言えるのではないでしょうか。人は、問いに応じた厳密さで答えるのあり、偽物の納屋のある地域でそれを知らずに、「あれは納屋だろうか」という問いに、「あれは納屋だ」と答えることは、問いに応じた厳密さを満たした正しい答えであるのではないでしょうか。

逸脱因果の事例は、知識とは言えない、という主張も理解できます。知識を問答ではなく、命題として考えるとき、逸脱因果事例は、知識ではないと言えますが、厳密にいえば、<逸脱因果の可能性をとりのぞくことはおそらく不可能なので、知識は不可能である>ことになります。これを回避するには、<単独の命題ではなく問答のペアを知識としてとらえる>ことが重要です。<逸脱因果の可能性に気づくとき、その問いの意味は変化し、それに対する答えの求め方も変化します>

45 デイヴィドソンが指摘した3つの問題を問答推論主義で解決する試み (20220819

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(このカテゴリーでのこれまでの議論の内容ついては、このカテゴリーの説明文をご覧ください。左のカテゴリーの一覧からこのカテゴリーをクリックすれば、冒頭に説明文が出てきます。今回からしばらくは、デイヴィドソンが指摘している3つの問題を、問答推論主義の立場から解決することを試みたいと思います。)

ドナルド・デイヴィドソンは、論文「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳)(原文1993)(デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)の冒頭で、知覚と記憶と行為と推論の説明が類似した困難に出会うことを指摘します(この論文は、スピノザがこれらの問題に取りくんで「劇的な解釈」を提案したということを主張するものですが、それについては後で触れることにします)。ここでは、デイヴィドソンが挙げているこれらの問題を、問答推論主義の立場から解決できるということを提案したいのです。

まずは、知覚に関する問題を説明します。

「月が出ているのをだれかが見ているとするならば、まず月が出ていることは真でなければならない。そして知覚者は、月が出ていると信じるに至っているはずである。さらに、月が出ているというその信念は、月が出ていることに引き起こされたにちがいない。」(同訳、458)

この主張は、「知覚の因果説」および「知識の因果説」(この二つは厳密には別のことである)であるが、しかしこれらは知識の必要条件であって、十分条件ではない。「なぜなら、実際に月が出ていることは、月が出ているという信念を、月が出ていることの知覚と見なしえない仕方で、引き起こすかもしれないからである。」(同訳458)例えば、「月が出ていることは、一匹のコヨーテの咆哮を引き起こすかもしれない。さらにある人は、コヨーテとは、月が出ているときにつねに、そしてその時にかぎって吠えるものだと誤って信じているかもしれない。その場合、月が出ていることは、月が出ているという信念を、主体のなかに引き起こすだろう。しかしそのとき主体は、事実月が出ていることを知覚してはいない。」(同訳458)

知識の因果説へのこのような反例は「逸脱因果」の事例と言われている。これらの反例を除外するために、条件を付けることはできるかもしれないが、「反例が生じないほどの厳格さで、そうした諸条件を述べることは、非常に困難――私の考えでは不可能――である。」(同訳459)

これが知覚ないし知覚報告の説明に関して、デイヴィドソンが挙げている問題です。この問題は、真なる知覚報告の定義の問題、知識の定義の問題です。次に、この問題に問答推論主義の立場から答えたいと思います。

44 推論と志向性 続き (20210419)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

通常の問いの答えは命題ですが、推論が問いの答えになることがあります。それは「なぜ」の問いです。「なぜ」の問いの答えは、命題ではなく推論になります。「なぜ」の問いに対する答えとして、推論が示されるとき、推論の妥当性は、推論の誠実性条件になるでしょう。つまり「なぜ」の問いに対する答えとして推論が与えられてときには、推論は志向性だといえるでしょう。しかし、「なぜ」の問い以外の問いに答えるときに、行われる推論については、志向性をもつということは難しいと思います。(なぜなら、その推論は注意されていないからです。その推論で意識されているのは、結論(問いの答え)の方だからです。ただし、このような内観による説明では、全く曖昧で不十分であることを認めます。)

問いに対して、観察によらずに即座に答得られる時があります。それは、これまでも話してきた、行為内意図についての「あなたは今何をしていますか?」とか、信念についての「あなたはpと信じていますか?」などの問いです。これらの問いに対する答えは、推論に基づいていないようにみえます。しかし、問いを理解して、問いを受け入れて答えているとしたら、問いの前提を受け入れて答えているはずです。問いの前提にもとづいて、答えていることになります。つまり、問いに答える時には、つねに推論していることになります。

(このことは、非言語的な探索でも、おそらく同じようにいえるでしょう。探索には前提があり、探索に答えることはその前提を受け入れることによって成立します。したがって、非言語的探索に答えることもまた、推論によって成立します。この場合、この推論もまた非言語的推論であるでしょう。ただし、これは今のところ思弁的な推測にとどまります。)

 言語的志向性の場合と非言語的志向性(知覚的イメージ)の場合がありますが、どちらも問いの答えとして成立するだろうと推測します。そして、どちらの場合も、志向性は、問いの前提にもとづく推論によって生じるといえそうです。

 (志向性については、サールが論じている「集合的志向性」についても問答推論と関係を考察する必要がありますが、それは機会を改めて行いたいとおもいます。)

44 推論と志向性 (20210418)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 志向性が問いないし探求の答えとなることは説明しましたが、では志向性は推論とどう関係するのでしょうか。推論が一般的に問いの答えを求めるプロセスとして成立することについては、『問答の言語哲学』で説明しました。逆に、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>と言えるでしょうか。もし言えたならば、志向性をもつ心的状態もまた推論によって成立すると言えそうです。

 問いもまた前提を持ちますが、それは意味論的前提と語用論的前提に分けられます。意味論的前提とは問いが真なる答えを持つための必要条件であり、語用論的前提とは、問いの発話が質問と言う発語内行為を行えるための必要条件になります(cf.『問答の言語哲学』222-224)。この問いの意味論的前提は、問いの答えの前提(つまり答えが真であるための必要条件)でもあります。そして、問いの前提をp、その答えをrとするときには、p,Γ┣rという推論関係が成立します。(pはrの必要条件であるので、r┣pという推論関係も成立するのですが、しかしまだrを知らないで、問いの答えを求めているときにも、pは問いの前提としてすでに受容されているので、pを前提とし、それに他の命題を加えて、答えを導出しようとすることになります。そこで問いの答えを求めるプロセスでは、p,Γ┣rが成立することになります。)したがって、<問いの答えを求めるプロセスはつねに推論になる>といえそうです。

 ここでの問題は、志向性を答えとする場合です。志向性をもつのは文や命題ではなく、心的状態です。文や命題については、推論関係を言うことができても、心的状態について推論関係を言うことができるのでしょうか。推論に対応する心的状態があるのでしょうか。推論に誠実性条件があるでしょうか。(ちなみに、質問発話には、その誠実性条件として「問う」という心的状態を想定しました。そして「問う」という心的状態が志向性を持つことを説明しました。)

 はたして、推論に誠実性条件はあるのでしょうか。推論もまた、志向性の一種なのでしょうか。

これを次に考えたいと思います。

43 志向性の別の分類方法 続き (20210416)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回説明した志向性は次の4種類でした。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

この分類にかけているもの一つは、「願望」です。願望とは、事実がある状態であってほしいと思うことです。その事実が、過去の事実であるか、現在の事実であるか、未来の事実であるか、によって「願望」を分けることができます。それらを順にみたいと思います。

<過去の事実>に関して、ある状態であってほしいと願う願望には、反事実的な願望とそうでない願望の二種類があります。例えば、TVを見てしまったが、TVを見ずに勉強しておけばよかったと思うとき、それは、過去についての「反事実的な願望」です。しかし、過去についての願望は、反事実的であるとは限りません。たとえば、ダメットの有名な「酋長の踊り」の場合がそうです。村の若者達が狩りに出て、村に戻ってくる途中だと思われるときに、酋長は狩りの成功を願って踊るのです。酋長の願いは、若者たちの狩りが成功であったということです。しかし成功であるかどうかは酋長が踊っている時にはもう決まっているはずです。しかし酋長は結果を知らないので、成功であったことを願っているのです。この願いは反事実的な「願望」ではありません。しかしこれもまた過去の事実に関する「願望」です。

 <現在の事実>に関しても、このような二種類の「願望」があります。トレーニングしているとき、もっと筋肉があればなあと願うのは、「反事実的な願望」です。これに対して、壺の中のサイロが丁か半かのどちらかにすでに決まっており、私がすでに「丁」にお金を賭けているとしましょう。私が「丁」であることを願うとき、これは反事実的ではない「願望」です。

 <未来の事実>に関する「願望」にも、反事実的願望とそうでない願望の二種類があります。未来は未定なのですが、6時間後には日付が変わることがわかっています。それにも関わらず、まだ今日17日中に送るべき資料ができそうにないときに、明日もまた17日が繰り返すことを願うとすれば、それは未来の事実に関する「反事実的願望」です。それに対して、12時までに資料を仕上げられることを願うとき、それは反事実的ではない「願望」です。

 前回の分類に欠けているもう一つのものは、「想像」です。「想像」にも、適合の方向を持つ「想像」と、適合の方向を持たない「想像」(サールが「想像」と呼んだもの)の二種類があります。

 適合の方向をもつ想像とは、事実についての想像であり、過去や現在や未来の事実についての推測ないし予測になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが加わると、それは上述の「願望」になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが伴っていないとき、その想像は、単なる事実の予測ないし推測になります。つまり、適合の方向を持つ「想像」は、「願望」と、「単なる予測や推測」に区別できます。ただし、この二つの違いは、願望が伴う「塑像」であるか、願望が伴わない「想像」であるか、という違いだけではありません。

「願望」の場合には、それが生じるだろう(生じていただろう、生じているだろう)という予測が伴わない場合があるからです。例えば、パンをうまく焼けるだろうという見込みが全くなくても、それを「願望」することはできるからです。

 単なる予測や推測の場合には、その内容がよいことであれ悪いことであれ、それが生じる可能性がある程度あるという信念が伴います。つまり、それが生じると信じる根拠が

 サールが言う適合の方向を持たない「想像」は、言語行為でいうと、命題行為に伴う心的状態であるように思われます。同一の命題行為は、異なる発語内行為を結合して、異なる発話を構成します。それと同様に、適合の方向を持たない「想像」は、適合方向を持つ志向性と結合して、志向性を持つ心的状態を構成するのではないでしょうか。

 前回述べた4つの志向性、今回のべた「願望」、適合の方向を持つ「想像」、これらの志向性から適合に関するコミットメントを除くと、適合の方向を持たない「想像」が残りそうです。

この想像の内容は、知覚的イメージと命題内容の二種類に分けられるでしょう。(ただし、英語の場合には、「想像」には、この二種類の内容におうじて、imaginationと、thought (guess) に区別できるかもしれません。)

 発話がどのような発語内行為を行うかは、その発話の相関質問において既に指定されています。

     ?pという一種類の質問に対して、┣(p)、!(p)、C(p)、E(p)、D(p)

という異なる発語内行為の返答が可能なのではなくて、質問発話は、文脈などによって、すでにどのような発語内行為の返答を求めるのかを示しているはずである。それゆえに、相関質問は、次のように表示されるはずです。

   ?┣(p)、?C(p)、?E(p)、?D(p)

(これについては、『問答の言語哲学』「第三章」で説明しましたので、ご覧ください。ここでは、その議論を、「志向性」に拡張しようとしています。)

志向性についてもこのようになるはずです。志向性もまた、問いに対する答えとして成立します。なぜなら、志向性の「ついて」性は、ある事柄に注目するという性質であり、それは問いに対して答えるということによって可能になると思われるからです。

 志向性がこのような仕方で問いの答えとなること、あるいは、問いの答えが、このような仕方で志向性を持つことを確認できたとしましょう。それでは、志向性は推論とどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

42 志向性の別の分類方法 (20210415)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(前回述べたことは、意識や表象についての内省にもとづく一人称的知識は、それだけで成立するのではなく、対象についての知識と他者の心についての知識との相互依存関係(三角測量)において成立するということでした。ところで、志向性は心的内容が<ついて>性を持つということでししたから、その志向性についての知識は、一人称的な知識になります。しかし、三角測量のために、志向性についての知識を主張したり受け入れたりするには、対象についての知識や他者の心についての知識も必要になります。

 この話に戻ってきたいと思いますが、以下では、「志向性」について、サールとは違った分類を考えてみることから始めたいと思います。)

私たちは、<ついて>性をもつ心的な内容(志向性)を、知覚的なイメージと言語的な内容に分けることができるでしょう。それぞれについて、二つの適合の方向(心を世界に適合させる、世界を心に適合させる)を考えることができるでしょう。そうすると次の志向性を考えることができます。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

 玄関に自動車の鍵があるだろうと想像して、それを取りに行くとき、その「知覚的想像」は適合の芳香を持ち、真偽を持ちます。コロナはますますひどくなるだろうと考えるとき、その「言語的信念」は適合の芳香をもち、真偽を持ちます。

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)(針金を曲げようとしている場合には、知覚的イメージと意図が結合しており、〇〇さんに投票しようとその名前を投票用紙に書いているときには、言語的内容と意図が結合していいます。ただし、残念ながら、英語にも日本語にも、この二種類の行為内意図に別々につけられた名前はありません。)

これらはどちらも<現在の適合関係>ですが、次の2つは、<過去の適合関係>と<未来の適合関係>を加えると次が考えられます。

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

おそらく、これでは志向性の分類としてまだ不十分です。

これは、まだ不十分な分類なのですが、次の3種の区別の組み合わせで分類をしました。

  ・心的内容を、知覚的イメージと言語的内容の2つに分ける

  ・適合の方向を、2方向に分ける

  ・適合の時間を、過去、現在、未来の3つに分ける

何を補えばよいのかを、次に考えたいとおもいます。それを踏まえて、これが、サールの区分よりもすぐれていることを示したいと思います。]

41 志向性にアプローチする方法について  (20210404)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

今回は、志向性に限らず、意識や表象について考察するときの、一般的なアプローチ方法について考えてみたいと思います。

以下は、意識と言語の発生に関する私のまったく思弁的な予想です。

<意識は、おそらく探索とそれに対する発見によって始まると思います。動物の起源とも始まる、見かけ上の探索と発見のプロセスではなく、意図的な探索とそれに対する発見が、おそらく意識の成立になるのです。これは非言語的な探索と発見において成り立つことです。

これに対して言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>

この予想をなんとか証明したいと思いますが、前途は多難です。意識や言語の起源についての研究で有用なのは、(言語学と言語哲学における)言語の意味論と語用論の研究、(生物学と心理学と社会学における)行動や行為の研究、脳神経科学における神経ネットワークの研究であります。

この場合、内省による意識研究は有効ではないと思われます。何故なら、考察が曖昧で混乱したものになってしまうからです。しかし、言語の起源の研究はともかく、意識や表象の起源の研究をするときに内省による研究を除外するというのは、変に思われるかもしれません。なぜなら、意識や表象の起源を研究するということは、意識や表象の存在を認めているからであり、意識や表象が存在することは、内省によってのみ確実に知ることができるように思われるからです。

 しかし、意識や表象を持つことを、内省によって知るとしても、それについての語れることが必要です。デイヴィドソンは、自分の心の内容についての一人称の知識が、自分だけが、また自分の内省だけでそれにアクセスできる特別な知識だとは考えません。彼は知識を次の3つに分けます。

  ①自分の心の内容に関する知識

  ②世界内の対象についての知識

  ③他人の心の内容に関する知識

そして、これらは、どれも他の二つの知識に依存していることを指摘します。

③は、他人の行動を知ることによって得られるので、②を前提する。また③は自分の心と行動の関係からの類推によって知ることができるという面を持つので、①も前提します。

②の真理性は、その真理性についての他者とのコミュニケーションによって、知られるので、①と③を前提します。

①もまた、②と③を前提します。

「われわれ自身の心の命題的内容についての知識は、他の形態の知識がなければ不可能である。なぜなら、コミュニケーションなしには命題的内容は存在しないからである。またわれわれは、自分が何を考えているかを知っているのでなければ、他人に思考を帰属させることができない。なぜなら、他人に思考を帰属させることは、他人の言語的その他の行動を、われわれ自身の命題ないし有意味な文と、対応づけることに他ならないからである。こうして、自分自身の心に関する知識と他人の心に関する知識は相互依存的である。」(デイヴィドソン「三種類の知識」、デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、329)

①②③について、このうちの一つを獲得するためには、他の二種類の知からその内容を確定する必要がある。それを「三角測量」(同訳、328)と名付けた。

デイヴィドソンのこの三角測量の議論は、私には十分に説得力があるように思われます。これを受け入れるならば、意識や表象の存在を認めるとしても、意識や表象が存在することは、内省によるだけで確実に知りうることではないことになります。

自分の心についての知るには、他者とのコミュニケーションが必要ですが、しかし、自分と他者が、意識や表象について、内省し、その内省の内容についてコミュニケーションするだけでは不十分です。①が成立するには、③だけでなく、②も必要です。つまり言語行為や身体行為や社会的行為や神経ネットワークついての知識が必要だということです。

さて、以上を踏まえて、志向性について考えようとするとどうなるでしょうか。