社会に対する悪意と「恩おくり」

       議論の階段を上る、あるいは踊り場にとどまる。

話を少し戻す。1月23日の議論に戻す。
そこでは、次の(b)と(b1)の区別、(c)と(c1)の区別をした。つまり悪意と敵意の区別である。
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」
(c1)社会が悪いために悲惨な目にあっていると考える「社会にたいする敵意」
そこで述べた問題は、「当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解する」という整理でよいのかどうか、ということであった。

その後の議論をまとめてみよう。

1月24には、(b)と(b1)について、「特定の個人や組織に対して、当人が悪意としりつつ悪意を持つこともある」と指摘した。つまり、23日の整理では、不十分であると述べた。
(当人が悪意と知りつつ悪意を持つことは矛盾しているように思われるので、1月26日に検討した。)
1月26日には、<CがAに殴られたときに、Aの行為を憎むことは正しいことである。しかし、その憎しみに基づいて、Aに仕返しをすることは悪いことである>という矛盾?を説明するために、<CのAに対する怒りは、社会もまた共有できる怒りであるが、CがAに対して仕返することを社会はCと共有できない。社会が共有できるとすれば、社会がAに仕返しするということである>と考えた。つまりこのように考えると、<憎しみは正しくても、仕返しは正しくない>ということは矛盾していないということである。(仕返しを悪いと知りつつ、つまり)悪意と知りつつ、(仕返ししようとすること)悪意を持つことは、やはり矛盾しているのである。
1月27日には、<前日のような議論は不自然であり、仕返ししようとするのは自然なことであり、矛盾していない>という意見があると思われるので、それに対する反論として、<仕返ししようとするのは、自然なことではない。つまり動物は仕返しをしない>と指摘した。
1月28日には、<仕返しと恩返しは、他者に対する同種の反応(ただし方向が反対)である>ことを指摘した。
1月29日には、<相手に悪意があるときにだけ、相手を憎む>という前日の発言への反論、相手に悪意がなくても腹を立てる事例を指摘した。
1月30日には、<相手に悪意がないのに腹を立てるのは、精神的な無条件反射のようなものであり、相手に悪意があるときに怒るときでは、怒りが質的に異なる>と考えた。

こうしてみると、1月26日の議論が重要である。
(議論が錯綜して、すみません。)

さて我々は、(C)と(C1)の区別について、「当人は、(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(c)として理解する」という整理でよいのかどうか、という問に答えたい。それは間違いである。なぜなら、自分の敵意を悪意だと思いつつ社会に対して悪意を持つことがあるからである。
ここで重要なのは、そのような一見したところ矛盾している態度が何故生じるのかを、分析することである。

例えば、バブルがはじけた後、会社が倒産して失業したというような場合、当人は社会が悪いと思ってうらんでいる。しかし、そのときに生活の苦しさから詐欺をするようになったとしよう。このとき、当人は詐欺が悪いことだと思っている。それにもかかわらず、彼は詐欺をする。そのとき彼は被害者に対しては恨みをもっていない。彼は社会にたいして恨みをもっている。

これは、「恩おくり」の反対である。(「恩おくり」(pay it forward)をWikipediaでご覧下さい。)
BさんがAさんから恩を受けたときに、Aさんに「恩返し」をすると、その行為は、AさんとBさんの二人の中で閉じてしまう。もしBさんが、Aさんから与えられたのと同様の利益をCさんに与えるとき、それを「恩おくり」というそうだ。CさんもまたDさんに「恩送り」すると、恩は社会の中にひろがってゆく。
上の詐欺師は、社会の中で誰かから得た不利益を、他の人に与えようとしている。それは「仕返し」ではなくて「仕送り」だ(これは冗談です)。これをどう呼べばよいだろうか。

(どなたかよいネーミングをお願いします。)

怒りと心的因果性

       冬の寂しい天井です。
       この寂しさは心的因果によるものか?

昨日の反論に答えよう。
他者の中に悪意がなくても、我々は他者を憎む場合があるという反論だった。

その根拠となるいくつかの例は、二種類に分けられるようにおもえる。その一つは、電車でよろけた人が、私の足を踏むケースや、机の脚に、私の足をぶつけてしまうケースだ。これらのケースでは、私は確かにムカッとするだろう(人間が小さくてすみません)。しかし、この場合の怒りは、他者の悪意に対する怒りや敵意とは異質なものではないだろうか。つまり、この怒りは、いわば動物的な怒りである。自己意識や「自分のもの」という観念を持たない動物でも、足を踏まれたら怒るだろう。それと同じ類の怒りである。この怒りは、精神的な反射の一種ではないだろうか。これはアンスコムが「心的因果性」と読んだものに似ているのではないか。夜一人で部屋にいるときに、窓にヌッと顔が現れると、我々はぞっとして思わず、後ろにのけぞるだろう。アンスコムは、このような行為の原因について「心的因果性」と述べているが、そのような行為は、この場合の「ぞっとする」という感情のように、何らかの感情を常に伴っているのではないだろうか。(参照、アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、勁草書房、§8)上の怒りとこの感情は同種のものではないだろうか。

ライオンや犬が、岩に自分の足をぶつけたときに、岩に怒るかどうか、ぜひ知りたいところだ(もしご存知の方がおられたら是非教えて下さい)。私などは、思わず机を蹴り返そうと思うが、蹴ればよけいに痛いので、そうしないだけのことである。足を踏まれる場合についていうと、私は、足を踏んだ相手が一言「すみません」といえば、私の痛みは残っても私の怒りはなくなる。ではライオンや犬はどうするだろうか。ライオンや犬が、相手に悪意があるかどうかの区別をしないことは確かだろう。なぜなら、「悪意」などというものを理解しないからである。従って、ライオンや犬は、過失で足を踏んだ場合と、意図して足を踏んだ場合の区別をしないだろう。しかし、足が踏まれ続けるというような危険が続くか、そのような危険が続かないかの判断をおこなって、それによって態度が変わるということはあるだろう。

 (今日の発言では、アンスコムの「心的因果性(mental causality)」を動物にも認めました。もしこれについて、反論があればお寄せ下さい。これの難点は、動物も感情をもつことになる点です。それが難点なのは、感情は物語付加的であるが、動物は物語を生きていない、ということです。これを解決するには、感情を二種類に分けるというということでしょうか。)

昨日の反論のもう一つのケースは、社会や自然や運命に対する怒りであって、これは、宿題になっている「社会に対する敵意」の一種であると思われるので、これの検討に戻りたい。

反論

      あまりに寒いので、机の下にストーブを入れてみました。

昨日の発言に対して一つの反論が予想される。

予想される反論:<他者の行為によって我々が不利益を被ったときに、我々が他者を憎むのは、他者が我々に不利益をもたらそうと意図している場合に限らない。つまり、他者にそのような悪意がなくても、過失によって、あるいは、他者の行為の意図せざる結果によって、我々に不利益がもたらされたときにも、我々はその他者を憎むのではないか。たとえば、電車が揺れて、隣にいた人がよろけて、その靴の踵で思いっきり私の足の小指を踏んづけたとしよう。私は、思わず腹を立てるのではないだろうか。あるいは、私が部屋の中を移動中に、机の脚に、思いっきり私の足の小指をぶつけてしまったとしよう。私は、思わず腹を立てるのではないだろうか。忌々しい机に、あるいは自分に。つまり、悪意があると思うから、相手に腹を立てるのではなくて、痛みの原因に対して腹を立てるのではないか。これは、痛みでなくてもよい。たとえば、私がほとんどの資産を預けている銀行が、なんの前触れもなく突然倒産したとしよう。そのとき、私は腹を立てるのではないだろうか。地震や津波で、突然家族を失えば、私は腹を立てるのではないだろうか。突然、余命の短い癌だと宣告されれば、私は腹を立てるのではないだろうか。>

さて、この反論にどう答えたものだろうか。

感謝と憎しみは、対称的?

      冬の味覚、お雑煮の進化ないし堕落したもの

自己意識がなければ、「自分のもの」という意識がうまれない。しかし、自己意識があれば、そこから必然的に「自分のもの」という意識が生まれるのだろうか。(これの考察をはじめると、この書庫のテーマをはみ出るので、ここでは問題の指摘にとどめたい。)「自分のもの」という意識が生まれると、それを他者が侵害することは悪いことである、といえるだろう。それは「自分のもの」という言葉の意味に含まれている(と考えたい)。ここで問題にしたいのは、「「自分のもの」を侵害するのは、悪いことである」を認めても、そこから、復讐してもよいとか、復讐すべきであるとか、いうことは、どのようにして帰結するのだろうか、という問題である。

これの逆のケースも考えられる。他人が、彼のものを私にくれたとしよう。これは「侵害」の反対の行為である。そのとき、我々は、その恩返しをしようとする。それはなぜだろうか。

悪意の反対は、善意である。悪意が相手に損害を与えようとする心であるとすると、善意は相手に利益を与えようとする心である。相手から損害を得た者は、相手に憎しみ、怒り、敵意、などを感じる。相手から利益を得た者は、相手に感謝、恩、負い目、などを感じる。

相手が私に利益を与えてくれたとしよう。私に利益が生まれた。その原因は、他者の行為である。しかも他者は私に利益を与えようと意図して、その行為を行ってくれた。その行為によって他者自身が何らかの不利益を被るのであれ、何の不利益も被らないのであれ、あるいは何らかの利益を得るのであれ、我々は他者のその行為に感謝するだろう。

他者の行為によって我々が不利益を被るとき、他者が我々に不利益を与えようと意図して、その行為を行ったとき、私は他者を憎むだろう。その行為によって、他者が利益を得るのであれ、何の利益も得ないのであれ、何らかの不利益を被るのであれ、我々は他者の行為を憎むだろう。

他者に対する感謝と憎しみは、全く対称的な関係にあるのだろうか。つまり、同じ心のメカニズムが反対方向に働いているだけの違いなのだろうか?

動物は復讐しない

   冬の味覚といえば、これです。
   お餅ですが、うまく焼けなかったのでうまく撮れませんでした。

予告した「社会に対する悪意」に移る前に、前回の分析をもう少し展開しておきたい。

前回の議論が、抽象的な言葉遊びに思われるかもしれないので、少し別の角度から分析を補強し展開しよう。
AがCを殴ったときに、CがAに仕返ししようとするのは、「自然なことだ」と考えている人がいるかもしれないので、まずは「動物や仕返しや復讐をしない」ということを確認し、強調しておきたい。

たとえば、Aがある犬をいつもいじめていたとしても、その犬はAに復讐しようとはしない。もっとも、Aが近づいてきたら、犬は条件反射で、また苛められるとよきして、Aに噛み付こうとするかもしれない。しかし、それは、Aに以前に苛められたことへの仕返しなのではない。

では、なぜ動物は仕返ししないのだろうか。それは、動物には自己意識がないからである。自分の所有や権利や名誉などのが奪われたと考えることはない。したがって、それを奪い返そうと考えることもない。
たとえば、あるライオンが鹿を捕まえて食べようとしていたら、そこに他のライオン二頭がやってきて、それをとろとする。そこでそのライオンは相手を追い返そうとするのだが、そうしている間に、もう一頭がそれを取ろうとして、それを追い返そうとするが、半分ほど持っていかれる、というようなシーンは、TVでしばしば流される。このライオンは、その後、相手のライオンにであったときに、そのときの仕返しをするのかといえば、そのようなことはないといわれている。なぜなら、彼は、相手が「自分の獲物をうばった」とは思っていないからである。なぜなら、そのときの鹿を「自分の獲物」だとは思っていないからである。もちろん、言葉を持たないから、そのように言葉で考えると言うことはないといえる。しかし、そもそも自己意識がないのである。(もっとも、自己意識が成立するには、言葉が必要である可能性がある。これは、重要な問題だが、別の大きな問題なので、ここでは論じられない。)自己意識がないことは、例えば、鏡を見せたときに、そこに写るのを、他のライオンだと考えて、自分だとは考えないことからもわかる。そのような実験は、サルについても行われている。またあるオス猿が、雌猿をと仲良くしているところを、ビデオにとり、それを後で、そのオス猿に見せると、そのオス猿は、怒り出す。それはそこに写っているオス猿を自分だとは思っていないからである。

人間だけが、自己意識を持ち、仕返しをしようとする。それは、人間に自己意識があり、「自分のもの」という所有意識や権利意識や縄張り意識などを持つからである。それが侵害されたときには、その仕返しをしようとする。
しかしここで「自己意識こそが悪意の起源だ」などと詰まらないことをいう気はない。もう少し話を詰める必要がある。

「あるものが「Cのもの」であるならば、それをC以外の者がとることは、悪いことである。」これは、「Cのもの」という言葉の意味から帰結する。Cの肉体は、Cのものである。故に、C以外の者がCの肉体を殴ることは、悪いことである。では、Aに殴られたCがAに仕返しをしようとするのはなぜだろうか。
Cのお金が奪われたときに、それを取り返したならば、お金は元に戻るので、Aからお金を奪い返そうとすることは、理解できる。しかし、Aに殴られたCがAを殴り返しても、Cの肉体の痛みがなくなるわけではない。では、CがAに殴られたときに、後日Aを殴り返そうとするのは、なぜだろうか。

より一般的な文脈の中で考えよう。仕返しや復讐は、より一般的な行為の特殊ケースである。それは、恩返しと同様の行為である。善いことを相手にしてもらったときには、相手にその恩をお返ししようとする。悪いことを相手にされたときには、相手にその悪いことをお返ししようとする。ここには、他者に対して、同種の行為を返すという関係がみられる。これは、相手との収支バランスをプラスマイナス零に保とうとする働きであるともいえる。

バランスシートをゼロにする傾向があるといえるのだろうか?
そういえるとすると、それはなぜか?

矛盾の解決?

冬の味覚?大豆です。もうすぐ豆まきです。
     待ちきれずに、食べてみました。

前回は、個人が「特定の個人や組織に対する敵意」を抱くだけでなく、自分で「悪意」と知りつつ、「特定の個人や組織に対する悪意」を抱くことがあることを述べた。

 善良な人間Cが、もし何の理由もなくAに殴られたとしよう。Cは、Aに対して怒りを感じるだろう。Cが、Aに対して怒りを感じることは、悪いことだろうか。そうではないだろう。たとえば、悪を憎むことは、正しいことであるし、悪に対する怒りは、おそらく正しい感情である。では、その怒りに基づいて、Aを殴り返そうとすることは、正しいことだろうか、悪いことだろうか。
一般的には、(正当防衛を除いて)どんな場合にも他者を殴ることは悪いことだ、と考えられている。もしそのとおりだとすると、たとえ正しい怒りにもとづいてAを殴るのであっても、殴ることは悪いことである。そこで、善良なCは「殴りたい」けれども、殴るのをやめる。このとき、Cは「殴りたい」という「悪意」を心の中にもっている。
このとき、Cの心は、矛盾しているのだろうか。Aの行為に対して怒ることは正しい感情である。しかし、この怒りからAを殴ることは悪いことである。Aに対する怒りが正しいのに、Aを殴ることが悪いのは、なぜだろうか。ここではCの心が矛盾していないだろうか。この矛盾をどのように考えればよいのだろうか。

Aに対する怒りが正しいのは、社会から見てのことである。Cは自分の怒りを正しいと考えるだろうが、それは社会から見て正しいと考えるということである。(これは「正しい」という語の用法に由来する。)Aに対する怒りは、Cだけでなく、社会の人々が共感ないし共有できる怒りである。他方で、Aを殴ろうとするのが悪いのは、<Cが>Aを殴ろうとすることだからである。<社会が>Aに制裁しようと意図するのであれば、(おそらく)それは悪いことではないだろう。しかし、CがAを殴ろうとする意図は、社会から見て悪いことである。それゆえに、Cもまたそれを社会から見て悪いことだと考えるのである。
Aに対する怒りを、Cは社会と共有できる。しかし、CがAに仕返しすることを、Cは社会と共有できない。なぜなら、CがAに仕返しすることと、社会がAに仕返しすることは異なるからである。

このように説明すれば、Cは、Aに対する怒りが正しくても、その怒りのためにAに仕返ししてはいけないことを納得できるだろうか。

ところで、Cは、Aに対する怒りをどのように処理すればよいのだろうか。社会にAの犯罪を訴えればよいのだろうか。しかし、CがAに殴られたというだけで、それを証言してくれるものがなかったらどうなるだろうか。警察は、それを立件しないだろう。Cの怒りは、Aだけでなく、警察や社会にも向かうことになるかもしれない。このような事例を次に考えよう。

「悪意」を持つことの矛盾

     冬の味覚、温州みかん、英語でsatsumaだそうです。

昨日の宿題は、「当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解するのだろうか」であった。

 まず、(b)と(b1)について考えよう。当人は、次の(b1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)として理解するのだろうか。
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」

たとえば、隣人Aの騒音がうるさくて迷惑していた人間Bが、隣人Aを殺したとしよう。第三者から見るならば、<隣人AがBに迷惑をかけたことは悪いことであり、BがAを恨むのはもっともではあるが、Aを殺すことは過剰な仕返しであり、それは悪いことである>ということになるだろう。つまり、第三者から見るならば、BのAに対する心は、「悪意」である。
 では、このときB自身はどう考えているのだろうか。ある日ついに堪忍袋の緒が切れて、カッとしてAをころしたのだとすると、カッとしているときには、Aに対して怒っているのであって、自分の行為が過剰な仕返しだとは思っていないだろう。犯行後、冷静になって考えると、過剰な仕返しであったということ、そのときの敵意は「悪意」であったことをみとめるかもしれない。では、犯行の時点で、自分の心(気持ち、意志)を「悪意」だと考えることはないのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。
 他の例を考えてみよう。AがBを殴ったとしよう。Bは後日Aを待ち伏せて殴り返したとしよう。このとき、Bは「Aに仕返しをすることは悪いことではない」と考えている。なぜなら、もしそう考えていれば、仕返ししないだろうからである。しかし、Bは、もしそのとき近くに警官がいることに気がつけば、仕返しを中止するだろう。なぜなら、仮にAがBを以前に殴ったとしても、BがAを殴り返すことは犯罪になることを知っているからである。つまり、Bは、「Aに対する仕返しであるとしても、Aを殴ることは悪いことである」と知っているのである。(この場合には、Bは、Aに対して「悪意」を持っていると自ら考えていることになる。)

 この場合、Bは一方では「Aに仕返しをすることは悪いことでない」と考えており、他方では、「Aに仕返しすることは悪いことである」と考えている。この矛盾について、我々はどう考えればよいのだろうか。

 犯罪をしない善良な人間Cの場合には、「Aに仕返しすることは悪いことである」と考えて、仕返しないだろう。しかし、そのような人間Cであっても、「仕返ししたい」という気持ちをもつことはあるだろう。この場合に、Cは、「仕返しすることは悪いことである」と考えている限りにおいて、「仕返ししたい」というその気持ちを「悪意」だと考えるだろう。つまり、Cは自分のうちに「悪意」を見つけるのである。
 このとき、Cの心は、矛盾していないだろうか。

悪意と敵意の違い

         今朝の奈良です。向こうに見えるのが生駒山系です。
         この道路が第二阪奈です。
         議論が、今朝の天気のように曖昧もことしていないことを祈ります。

悪意と敵意の違いについて

たとえば、「聖戦」や「正義の戦争」を戦っているつもりの人は、相手に対して「敵意」を持っていることをみとめるだろうが、相手に対して「悪意」を持っていることを認めないのではないだろうか。「悪意」をもつことは悪いことであるが、悪いやつをやっつけようとすることは悪いことではないので、自分の意志は「敵意」ではあても「悪意」ではない、と彼/彼女は考えるだろう。

たとえば、悪者が弱い者いじめをしているときに、正義の味方がやってきて、悪者を退治するとき、正義の味方は、「善意」の持ち主であって、「悪意」の持ち主ではない。

敵意は、「相手に害を加えようとする心」(goo辞書による)であるとしよう。このとき、相手が悪くないときには、その敵意は「悪意」とよばれ、相手が悪いときには、その敵意は「悪意」とは呼ばれない。つまり、悪意は、敵意の下位集合を指す。以下では、「敵意」一般を、相手が悪くない場合の「悪意」と、相手が悪者である場合の「悪意でない敵意」(ときに単に「敵意」とよぶ)に区別して用いたい。

前回、「悪意」を次の3つに区別した。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

これをもう一度考え直そう。

(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

上の(a)の「悪意」が「悪意でない敵意」である場合はないだろう。

上の(b)は、個人的に相手である個人や組織を恨んでいるのだから、彼にとって相手は悪者であり、それゆえに、(b)は「悪意」ではなくて「悪意でない敵意」である。
つまり、つぎのように言うべきだ。
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」
しかし、個人的な恨みを持っていても、その恨み以上の仕返しを考えているのならば、仕返しの過剰な部分に関しては、悪意である。だから最初の(b)が正しい表現であるケースがある。

上の(c)はどうだろうか。理由が何であれ、社会が悪いと考えているのならば、社会に害を与えようとするとの心は、「悪意」ではなくて、「敵意」である。そうすると次のように言うべきである。
(c1)自分を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする敵意」
しかし、「自分の悪い行為」を正当化するために社会が悪いと考えるのだとすると、社会は悪くないということになる。そのときには、社会に害を与えようとする心は、「悪意」になるだろう。

当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解するのだろうか。

悪意の分類

小山楽山翁の石碑です。もちろん彼は詐欺師でも悪人でもありません。
      写真がなかったので、正月にとった写真をのせました。
         

「大きな嘘に成長することになる最初の小さな嘘はどうして生まれたのだろうか。」
これが前回の宿題だったが、これは案外難しい問題なので、少し問題をかえて、絡め手で詰めることにしたい。

「人はどうして嘘をつくのだろうか。」これについては、次のようなパターンの分類が考えられるだろう。
①そもそも嘘をつくことが全く悪いことだとは思っていない。
  ②嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、自分の利益になる。
  ③嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、相手の利益になる。
  ④嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、第三者の利益になる。
  ⑤嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い相手に不利益を与える。
  ⑥嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い第三者に不利益を与える。
偽装事件の場合に、嘘をつくのは②のケースである。詐欺師の場合も②の場合である。

詐欺師の場合、その悪意はどのように始まるのだろうか。彼は、お金がほしくて、詐欺をする。しかも、彼は捕まらずに詐欺ができると考えている。彼は詐欺が悪いことだと考えているだろう。詐欺をはっきりと悪いことだと考えているが、しかしそれよりもお金がほしいという利己的な欲望が優先するのだろう。ただし、詐欺師の場合には、その悪意の背後には、「利己的な欲望」だけでなく「社会に対する悪意」があるかもしれない。その「社会に対する敵意」は、自分の行為を正当化するために、社会が悪いのだと考えることから、生まれるのかもしれない。たとえば、まともに生きようとしていたのに、詐欺をせざるを得なくなった、その責任を社会に負わせて社会を恨むことから、敵意が生まれるのかもしれない。

以上の例からとりあえず、「悪意」を次の3つに区別できる。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」
上の嘘の②③④は、(a)に属する。⑤と⑥の一部は(b)に属し、⑥の一部は(c)に属する。

(a)や(b)が含まれている悪は、事情がわかれば理解できるいわば「凡庸な悪」である。では、わけのわからない「特異な悪意」は(c)だけからなるのだろうか。それてとも、(a)(b)(c)のどれでもないような悪意なのだろうか。

そのまえに、悪意と敵意をどう区別すべきかを考えてみよう。

商人の利益はごまかし?

       都会には小さな嘘が渦巻いている?

食品偽装、再生紙偽装など、最近よくニュースになる偽装事件は、おそらくは、最初から大規模な偽装を計画して行われたものではなくて、最初はごく小さなごまかしから始まったのではないだろうか。最初の小さなごまかしは、「儲けたい」という欲望によるものだったのだろう。小さなごまかしが次第に大きなごまかしになって行く、そのプロセスをどこかでとめることができなかったのは、「怠惰」からではないだろうか、あるいはいまさら人に言えないという「臆病」からかもしれない。
では、最初の小さなごまかしは、どうして生じたのだろうか。儲けたいという欲望は誰にでもある。儲けることは、つねに誤魔化しなのだろうか。例えば、商人の儲けは、常にごまかしによるものなのだろうか。
そうではない。たしかに、多く場合、商人はその取引によって、どれだけの儲けがあるのかを、明らかにしない。例えば、果物屋さんでりんごを買うときに、「いくらで仕入れたの」ときいても、本当のことを言ってくれないような気がする。「いくらで仕入れたの」とたずねることもまた、相手を疑うようで、はばかられる。商人は店先で、仕入れ値を聞かれて、本当の仕入れ値より少し高く答える、というようなことがあるかもしれない。これは道徳的に悪である。しかし、このような質問に正直に答えることが商人の義務であるとは思われない。
商人の利益は仕入れ値の何パーセントかに決まっているわけではない。時には、利益が出ないときもある。仕入れの値段も、売値もそれぞれの市場での需要と供給の関係で決まる。商品の価値が需要と供給で決まるときに、商品の品質についての正しい情報が提供されて、その品質と値段を買い手が納得して買うのならば、売り手がどれほど大きな利益を得ても、それは正当な利益である。通常は、商人は、仕入れ値については、答える必要はない。「仕入れ値がそんなに安いのなら、もっと安くしてください」という要求は、つねに仕入れ値よりも高く売れるとは限らないというリスクをとって商売をしている人に対しては、過剰な要求だからである。(もっとも、答える必要がないということは、答える代わりに嘘をついてもよい、ということではない。例えば、絵画の仕入れ値を法外に高く偽って、それを高く売ろうとすることは、詐欺である。)
商品の品質について間違った情報を意図的に提供して、より多くの利益を得たとすれば、その利益はごまかしによる不当な利益である。これは法的に悪である。商人は、商品の品質については、正しく答えるべきである。
儲けたいために、品質について嘘をつくとしよう。なぜ嘘をつくのだろうか。嘘をつくことが悪いことだと思っていなければ、嘘をつくだろう。嘘をつくことが悪いことだと思っていても、その理解が曖昧であれば、儲けたいという明確な欲望が優先することもあるだろう。では、このような最初の小さな悪を阻止するためには、嘘をつくことがなぜ悪いのかを、周知すればよいのだろうか。
最初の小さな嘘はどうして生まれるのだろうか。