04 錯覚論証(20210501)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず「錯覚論証」を紹介します。「錯覚論証」(Argument from illusion)とは、知覚と実在を区別するための論証であり、その区別によって、実在そのものを見ていると考える「素朴実在論」を批判する論証です。錯覚論証は、次のステップをとります。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

<まず①の説明>

例えば、山道を歩いていて、木の枝ではなさそうな、細長いものが見えたとき

  (a)「あれは何だろう」「蛇だ」

  (b)「あれは何だろう」「縄だ」

という問答が行われて、(a)は錯覚で、(b)が正しい知覚であったとしましょう。

この二つの答え「蛇だ」「縄だ」はともに<知覚に依拠する報告>であって、知覚そのものではありません。この(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのでしょうか、それとも同じ知覚に依拠して異なる報告を作り出したのでしょうか。対象が蛇に見える時と縄に見える時では、ゲシュタルトが異なります。ゲシュタルトが異なる時、それは別の知覚です。つまり、(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのです。

正確に言えば、(a)は<錯覚>に依拠する報告であり、(b)は<真正な知覚>に依拠する報告です。しかし、後になって、(a)は錯覚に依拠する報告だとわかったとしても、その時には、真正な知覚に依拠する報告だと考えています。知覚している時には、錯覚と真正な知覚の区別ができません(できないからこそ錯覚がありうるのです)。

 以上が、<①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない>の説明になります。

<次に②の説明>

「錯覚(illusion)」とは、存在する対象について間違った知覚をすることであり、「幻覚(hallucination)」とは、存在しない対象を存在するものとして知覚することです。錯覚や幻覚の内容は、客観的には存在しません。したがって、それは主観的な表象であることになります。

<次に③について>

①と②から、「正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である」が帰結します。

以上が「錯覚論証」です。この結論③から多くのことを導出できるでしょうが、が帰結するでしょうが、最も重要な帰結は、「知覚は、真正な知覚であっても、対象そのものを知覚しているのではない」ということです。

ジョン・ロック以来の近代的な認識論は素朴実在論を批判しますが、「素朴実在論」に対する最も明解な批判がこの「錯覚論証」です。

しかし、「錯覚論証」については、現在では批判的に語られることの方が多いのです。しばらくは、「錯覚論証」へのいくつかの批判を紹介し、検討したいと思います。

03 対象の報告と知覚の報告に関する問答 (20210429)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここから知覚と知覚報告の考察を始めたいとおもいます。

ここでは、知覚に依拠した報告が、対象についての報告である場合と、知覚についての報告である場合に区別されることを確認したいと思います。

#<対象の知覚的性質についての報告>、とその問答

  ①「その花は何色ですか?」「この花は黄色です」

ふつうは、この場合の答えは、知覚ではなく知覚報告です。ここで「知覚報告」というのは、「知覚に依拠した報告」と言う意味です。この問答は、知覚そのものについての問答ではなく、<知覚の対象についての問答>です。

対象について、五感によって与えられる知覚的性質(色、形、大きさ、距離、音色、音量、音高、におい、味、手触り、熱さ、冷たさ、など)に関して問うことができます。

その問いの答えは、<対象の知覚的性質を記述するもの>になります。これは<知覚に依拠する報告>ですが、<知覚についての報告>ではなく、<対象の知覚的性質についての報告>です。

(ただし、この答えの文「この花は黄色です」は、知覚報告になるとはかぎりません。例えば、黄色の花ばかりはいった箱を受け取った人が、そこにやって来た別の人から同じ問いを問われて、「この花は黄色です」と答える時、この答えは、知覚方向ではなく、伝聞の報告です。)

これに対して、<知覚についての報告>は、次のようなものです。

#<知覚についての報告>、とその問答

  ②「この花は何色に見えますか?」「黄色に見えます」

この問いは、対象の(知覚的)性質についての問うているのではなく、対象が目にどう見るか、<対象の感覚器官にとっての現われ>について問うています。この花が黄色に見えるとしても、実際に黄色であるかどうかは問われていません。この答えは、<知覚についての報告>です。

(以下は、少し煩雑になるかもしれない補足です。

 次のように①の問いに②の答えで答えることがあるかもしれない。

  ④「この花は何色ですか?」「黄色に見えます」

この場合、この答えは、「この花の色はおそらく黄色だろうが、しかし黄色に見えるだけかもしれない」ということを意味しているだろう。

 また、②の問いに③の答えで答えることがあるかもしれない。

  ⑤「この花は何色に見えますか?」「この花は黄色です」

この場合、この答えは「この花は黄色に見えるし、また実際にも黄色である」ということを意味しているだろう。)

このように、<対象の知覚的性質についての報告>と<知覚についての報告>の区別は、発話だけを見ても多義的であいまいですが、相関質問との関係において明確になります。

次に悪名高い「錯覚論証」を考察したいとおもいます。

02認識についての問答の区別(補足) (20210427)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚を考察する前に、前回発言に二点補足させてください。

<補足1> レベル3(問答としての認識論)への補足。

 前回は現象的認識についての「なぜ」の問答について説明しましたが、理論的認識についての「なぜ」の問答は、認識論一般ではなく、科学論を構成するでしょう。この場合の「なぜ」の問答もまた3種類あります。

①理論的認識の原因を問う「なぜ」の問答は、「自然化された科学論」になるでしょう。

②理論的認識を行う理由を問う「なぜ」の問答は、「プラグマティックな科学論」になるでしょう。

③理論的認識の主張の根拠を問う「なぜ」の問答は、「論理的科学論」になるでしょう。

<補足2> 一般的なことですが、問いに対する答えの違いは、もしその答えの違いから帰結することに重要な違いがないのならば、重要ではないでしょう。例えば、<Q2→Q1→A1→A2>という二重問答関係があるとき、問Q1の答A1の違いから帰結するのは、より上位の問Q2に対する答A2の違いです。

では、前回述べたような認識に関する問いへの答えの違いは、どのような違いをもたらすのでしょうか。

#レベル1の問いに対する答え(通常の認識)の違いは、(プラグマティズムが主張する)必ずその対象に対する行動に何らかの違いを惹き起こすのでしょうか。もしレベル1の問いのより上位の問いが実践的問いであるならば、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の問いの答えの違い、つまり行動の違いを生み出します。他方、もしレベル1のより上位の問いが理論的問いであるなら、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出します。しかし、さらにより上位の問いが実践的問いであるならば、最初の理論的な問いの答えの違いが、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出し、その違いがさらにより上位の実践的問いの答えの違いを生み出すことになるでしょう。理論的問いの上位の問いをさかのぼっていけば、つねに何らかの実践的問いに行き着くのだとすれば、あらゆる理論的問いの答えの違いは、程度の差はあれ何らかの行為の違いをもたらすことになるでしょう。

#レベル2の問いに対する答えの違いは、予測の違いを生み出すと思われます。レベル2の問答は、次のような、現象的認識についての「なぜ」の問いとその答えでした。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」

  「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

この「なぜ」の問いは、原因の説明を求める「なぜ」の問いです。自然現象について「なぜ」と問う場合、その理由や根拠を問うということはありえないので、この場合の「なぜ」は常に、原因の説明を求める「なぜ」になります。では、自然現象の原因の説明を求める問いのより上位の問い(目的)は何でしょうか。自然現象の原因が分かれば、原因となる出来事と似たような出来事があれば、似たような結果が生じるであろうことが予測できます。また、その現象について理論的ない問いを立て、その自然現象についてさらに分析を進めることが可能になります。また他方では、予測をもとに、自然現象を阻止したり、変化させたりすることが可能になります。ここでのより上位の問いは、次のようなものになるでしょう。

  ・自然現象を予測すること(理論的問い)

  ・自然現象の原因について分析を進めるための問いを立てること(理論的問い)

  ・自然現象を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

最初の二つの問いは、理論的問い(たとえば「すべての黄色い花は、カロチンを多く含むのか?」という問いや、「カロチンは色素なのか?」という問いになるでしょう。後者の問いは、実践的な問い(例えば「この花をもっと濃い黄色にするにはどうすればよいのか?」という問い)になるでしょう。

(理論的認識についての「なぜ」の問いの場合を含めて、より詳しくは科学について考察するときに、取り上げることにします。)。

#レベル3に対する答えの違いは、どのような違いをもたらすでしょうか。レベル3の問いは「なぜ」の問いであり、その答えは推論となる。「なぜpなのか」の問いの場合には、「…ゆえに、p」というpを結論とする推論となります。

 一般的に(つまり認識論に限定せずに)考えて、原因、理由、根拠に関するこのようなpの上流推論の違いから何が帰結するでしょうか。おそらくより上位の問いの答えの違いが帰結するでしょう。では、「なぜ」の問いのより上位の問いは、一般的にどのようなものになるのでしょうか。たとえば、原因の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは、レベル2の問答について考察した場合を含めて、次のようになるでしょう。 

  ・出来事を予測すること(理論的問い)

  ・出来事について分析を進めること(理論的問い)

  ・出来事を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

では、行為の理由の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・行為を理解するため

  ・理由を理解して、次の行為を予測するため。

  ・次の行為を予測して、それを支援したり、妨害したりするため。

  ・行為の理由を理解して、さらにより上位の理由を理解する(問う)ため。

では、主張の根拠の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・主張を証明するため。

  ・主張を証明して、その主張から何が帰結するかを予測するため。

  ・その主張から何が帰結するかを予測して、その主張に反論するため。

以上は、「なぜ」の問いのより上位な問いがどのようなものになるかを一般的に考察したものですが、認識行為についての「なぜ」の問いのより上位の問いの場合も、同様のものになるだろうと思います。

(<「なぜ」の問いのより上位の問い>については、これまで主題的に考えたことがなかったので、今回の考察は非常に暫定的なものです。今後、修正改良することになると思います。)

次回から知覚と知覚方向について考えます。

01認識についての問答の区別 (20210424)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは、問答の観点から認識を考察し、認識論の伝統的な問題に問答の観点から答えることだけでなく、認識についての新しいアプローチ、つまり新しい問題設定を目指したいとおもいます。論じたいトピックは、以下のようなものです。

・問答と知覚

・問答と知覚報告

・問答と観察命題と理論命題

・問答と科学研究

一般的に、認識に関する問答は、次の三つのレベルに区別できそうです。

レベル1(問答としての現象的認識):現象的認識は、問いに対する答えである。現象的認識は問答として成立する。例えば次のような問答になります。

  「この花は何色ですか?」:「黄色です」、「この花の色は黄色です」

レベル2:(問答としての理論的認識):現象的認識についての「なぜ」の問いと答えは、理論的認識を構成する。例えば次のような問答になります。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」:「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

(ここでの「現象的」と「理論的」の区別は、カルナップによる区別を念頭においたものです。いずれ説明します。)

レベル3(問答としての認識論)認識論は、認識についての問いに対する答えである。認識論もまた問答として成立する。例えば、「私はこの花の色を黄色だと認識している」という現象的認識について言えば、次のような問いになります。

 「なぜ、私はこの花の色を黄色だと認識しているのか」

通常の問いの答えは、命題になりますが、「なぜ」の問いの答えは、一般的に推論となります。「なぜpなのですか?」という問いへの答えは、「…ゆえに、p」という推論形式をとります。そして「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、主張の根拠を問う「なぜ」に区別できます(これについては、『問答の言語哲学』120-124で説明しました)。それゆえに、ここでの認識についての「なぜ」の問いも次の3つの意味に区別されます。

①<私はこの花の色を黄色だと認識している>という出来事ないし状態の原因を問う「なぜ」

この場合の答えは、「光が網膜にはいって、視神経を刺激して…、ゆえに、私はこの花の色を黄色だと認識している」という仕方で認識の原因の説明をおこないます。この問答は、「自然化された認識論」を構成します。

②<私はこの花の色は黄色だと認識する>という行為の理由を問う「なぜ」

 「私はこの花とあの花が同じ品種に属するものかどうかを知りたいゆえに、この花の色は黄色だと認識する」という仕方で、認識行為の理由の説明を行います。この問答は、「実践的な認識論」あるいは「プラグマティックな認識論」を構成します。

③「私はこの花の色は黄色だと認識している」という主張の根拠を問う「なぜ」

 この場合の答えは、「この花の色は、黄色である。私はこの花の色を黄色だと考えるゆえに、私はこの花の色を認識する」と言う仕方で、認識の主張の根拠を説明します。

 この問答は、「論理的な認識論」(この呼び方にはまだ迷いがありますが、とりあえずこうしておきます)を構成します。

認識論についての議論は錯綜しがちですから、とりあえず以上の区別を踏まえて、最も身近な認識である知覚と知覚判断の考察にとりかかりたいと思います。

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