06 素朴実在論は脳科学と両立するのか(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか?」

今回は、これを考えたいと思います。

素朴実在論とは、<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>とする立場です。(有名な論者としては、例えば、パトナム、マクダウェル、日本では大森荘蔵、野矢茂樹、などです。)

他方、「知覚は、どのようなものであり、それはどのようにして成立するのか」という問いに対してまず思い浮かぶ答えは、自然科学による次のような説明でしょう。例えば、黄色の花に太陽光が当たって、そこで反射した光の一部が目に入り、網膜に黄色の花の像を結ぶ。そのとき網膜にある多くの視神経が発火してその信号が脳の視覚野に伝わり、別の神経細胞を発火させる。その後はなぞですが、脳における多数のニューロン発火のあるパターンが、黄色の花の知覚イメージをつくることになります。この説明で問題になるのは、脳内のニューロン発火のパターンと「知覚イメージ」の関係です。多くの場合これは「付随」関係として語られますが、それは現象を記述するための語彙であり、説明するための語彙ではありません。「付随」関係そのものはいまだ謎です。

 この二つの知覚的認識の説明は、多くの場合、両立しないものとして捉えられているのかもしれません。しかし、もし次のように定式化できるならば、それらは両立可能だろうと思います。

・脳科学による知覚の説明:<知覚は、感覚器官、求心性神経、大脳のニューロンネットワークを介して、対象を捉えることである>

・素朴実在論:<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>

このように捉える時、この二つは両立可能です。なぜなら、脳科学の説明では、知覚は、「知覚的表象」や「センスデータ」を介して対象を捉えることではないからです。

論者がこの二つの説明方式を両立不可能なものとみなすときには、脳におけるニューロンの発火パターンに付随する「知覚イメージ」を、素朴実在論が批判する「知覚的表象」や「センスデータ」だと見なしているのです。その「知覚イメージ」を、素朴実在論が理解する「知覚」と同一視できれば、両者を両立可能なものとして理解できます。

次にこれを説明したいと思います。

06 素朴実在論の検討へ向けて(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、次の「錯覚論証」におけるaからbは帰結しません。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

bを否定して、知覚と錯覚・幻覚が、異種であるかもしれないというだけでなく、それらが異種であることを主張しようとするには、別途追加の根拠が必要であり、それを検討したいと、前回予告しました。

 しかし、aからbが帰結しないのならば、それだけで錯覚論証を批判するには十分です。もちろん、まだ知覚と錯覚・幻覚が同じ種類の経験である可能性はのこっていますが、それを証明できていないのですから、錯覚論証の批判としてはこれで十分です。(以前に、錯覚論証についてのいくつかの批判を検討すると予告しました。錯覚論証については、aについても、cについても、批判が可能かもしれませんが、それらの検討は行わないことにします。もし必要になれば、言及することにします)。

こうして、錯覚論証が失敗したとすると、それが否定しようとしていた素朴実在論を改めて取り上げて、検討する必要が生じます。

素朴実在論とは、私たちが知覚しているのは、対象そのものであると考える立場です。とりあえず、次の二つの問題を考えたいとおもいます。

1、素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか。

2,素朴実在論は、錯覚や幻覚のように私たちが知覚しているものが、対象そのものではない場合をどう説明するのでしょうか。

05 錯覚論証への批判(20210502)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

次の「錯覚論証」を批判するにはどうすればよいでしょうか。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

①と②を批判することは難しいのですが、①と②を認めても③が帰結しないようにすればよいのです。

野矢茂樹は、『心という難問』(講談社)で錯覚論法を次の四段階で説明しています。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

(野矢氏は、abcdではなく、①②③④を使っているのですが、私が前回うっかり①②③を用いてしまったので、野矢氏の方をabcdに換えさせてもらいました。)

野矢氏がbを挿入したのは、aとcを認みとめても、bを批判すればdが帰結することを防ぐことができるからです。aを認めてもbを認めないということは、<真正な知覚と錯覚や幻想を区別できないことは認めるが、しかしそのことからそれらが同種の経験であるということ(同種性テーゼ)は必ずしも帰結しないということ、また実際にそれらは異種な経験である>と主張することです。

オースティンが言うように、次のような「奇妙な一般原理」は成り立たないのです。

「もし二つの物が「種的に同じ」、「本性上」同じでないならば、両者が似ていることはありえないし、ほぼ似ていることさえあり得ない」(オースティン『知覚の言語』丹治信春、守屋唱進訳、勁草書房、79)

確かにこの原理は成り立たないでしょう。野矢さんが引用し、オースティンが挙げている例でいうと、レモンと石鹸が区別できないとしても、それらが同種のものであるということにはならないでしょう。(確かに昔、レモンの色と形と香りを持つ石鹸がありました。あの石鹸は今もあるのでしょうか。)

この批判は、説得力があるとおもいます。したがって、<真正な知覚と錯覚や幻想が区別できないとしても、それらは異種の経験である可能性がある>ということは正しいだろうと思います。

 しかし、そこからさらに踏み込んで、それらが異種の経験であるというには、別の論拠が必要です。

それは何でしょうか。

04 錯覚論証(20210501)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず「錯覚論証」を紹介します。「錯覚論証」(Argument from illusion)とは、知覚と実在を区別するための論証であり、その区別によって、実在そのものを見ていると考える「素朴実在論」を批判する論証です。錯覚論証は、次のステップをとります。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

<まず①の説明>

例えば、山道を歩いていて、木の枝ではなさそうな、細長いものが見えたとき

  (a)「あれは何だろう」「蛇だ」

  (b)「あれは何だろう」「縄だ」

という問答が行われて、(a)は錯覚で、(b)が正しい知覚であったとしましょう。

この二つの答え「蛇だ」「縄だ」はともに<知覚に依拠する報告>であって、知覚そのものではありません。この(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのでしょうか、それとも同じ知覚に依拠して異なる報告を作り出したのでしょうか。対象が蛇に見える時と縄に見える時では、ゲシュタルトが異なります。ゲシュタルトが異なる時、それは別の知覚です。つまり、(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのです。

正確に言えば、(a)は<錯覚>に依拠する報告であり、(b)は<真正な知覚>に依拠する報告です。しかし、後になって、(a)は錯覚に依拠する報告だとわかったとしても、その時には、真正な知覚に依拠する報告だと考えています。知覚している時には、錯覚と真正な知覚の区別ができません(できないからこそ錯覚がありうるのです)。

 以上が、<①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない>の説明になります。

<次に②の説明>

「錯覚(illusion)」とは、存在する対象について間違った知覚をすることであり、「幻覚(hallucination)」とは、存在しない対象を存在するものとして知覚することです。錯覚や幻覚の内容は、客観的には存在しません。したがって、それは主観的な表象であることになります。

<次に③について>

①と②から、「正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である」が帰結します。

以上が「錯覚論証」です。この結論③から多くのことを導出できるでしょうが、が帰結するでしょうが、最も重要な帰結は、「知覚は、真正な知覚であっても、対象そのものを知覚しているのではない」ということです。

ジョン・ロック以来の近代的な認識論は素朴実在論を批判しますが、「素朴実在論」に対する最も明解な批判がこの「錯覚論証」です。

しかし、「錯覚論証」については、現在では批判的に語られることの方が多いのです。しばらくは、「錯覚論証」へのいくつかの批判を紹介し、検討したいと思います。

03 対象の報告と知覚の報告に関する問答 (20210429)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここから知覚と知覚報告の考察を始めたいとおもいます。

ここでは、知覚に依拠した報告が、対象についての報告である場合と、知覚についての報告である場合に区別されることを確認したいと思います。

#<対象の知覚的性質についての報告>、とその問答

  ①「その花は何色ですか?」「この花は黄色です」

ふつうは、この場合の答えは、知覚ではなく知覚報告です。ここで「知覚報告」というのは、「知覚に依拠した報告」と言う意味です。この問答は、知覚そのものについての問答ではなく、<知覚の対象についての問答>です。

対象について、五感によって与えられる知覚的性質(色、形、大きさ、距離、音色、音量、音高、におい、味、手触り、熱さ、冷たさ、など)に関して問うことができます。

その問いの答えは、<対象の知覚的性質を記述するもの>になります。これは<知覚に依拠する報告>ですが、<知覚についての報告>ではなく、<対象の知覚的性質についての報告>です。

(ただし、この答えの文「この花は黄色です」は、知覚報告になるとはかぎりません。例えば、黄色の花ばかりはいった箱を受け取った人が、そこにやって来た別の人から同じ問いを問われて、「この花は黄色です」と答える時、この答えは、知覚方向ではなく、伝聞の報告です。)

これに対して、<知覚についての報告>は、次のようなものです。

#<知覚についての報告>、とその問答

  ②「この花は何色に見えますか?」「黄色に見えます」

この問いは、対象の(知覚的)性質についての問うているのではなく、対象が目にどう見るか、<対象の感覚器官にとっての現われ>について問うています。この花が黄色に見えるとしても、実際に黄色であるかどうかは問われていません。この答えは、<知覚についての報告>です。

(以下は、少し煩雑になるかもしれない補足です。

 次のように①の問いに②の答えで答えることがあるかもしれない。

  ④「この花は何色ですか?」「黄色に見えます」

この場合、この答えは、「この花の色はおそらく黄色だろうが、しかし黄色に見えるだけかもしれない」ということを意味しているだろう。

 また、②の問いに③の答えで答えることがあるかもしれない。

  ⑤「この花は何色に見えますか?」「この花は黄色です」

この場合、この答えは「この花は黄色に見えるし、また実際にも黄色である」ということを意味しているだろう。)

このように、<対象の知覚的性質についての報告>と<知覚についての報告>の区別は、発話だけを見ても多義的であいまいですが、相関質問との関係において明確になります。

次に悪名高い「錯覚論証」を考察したいとおもいます。

02認識についての問答の区別(補足) (20210427)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚を考察する前に、前回発言に二点補足させてください。

<補足1> レベル3(問答としての認識論)への補足。

 前回は現象的認識についての「なぜ」の問答について説明しましたが、理論的認識についての「なぜ」の問答は、認識論一般ではなく、科学論を構成するでしょう。この場合の「なぜ」の問答もまた3種類あります。

①理論的認識の原因を問う「なぜ」の問答は、「自然化された科学論」になるでしょう。

②理論的認識を行う理由を問う「なぜ」の問答は、「プラグマティックな科学論」になるでしょう。

③理論的認識の主張の根拠を問う「なぜ」の問答は、「論理的科学論」になるでしょう。

<補足2> 一般的なことですが、問いに対する答えの違いは、もしその答えの違いから帰結することに重要な違いがないのならば、重要ではないでしょう。例えば、<Q2→Q1→A1→A2>という二重問答関係があるとき、問Q1の答A1の違いから帰結するのは、より上位の問Q2に対する答A2の違いです。

では、前回述べたような認識に関する問いへの答えの違いは、どのような違いをもたらすのでしょうか。

#レベル1の問いに対する答え(通常の認識)の違いは、(プラグマティズムが主張する)必ずその対象に対する行動に何らかの違いを惹き起こすのでしょうか。もしレベル1の問いのより上位の問いが実践的問いであるならば、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の問いの答えの違い、つまり行動の違いを生み出します。他方、もしレベル1のより上位の問いが理論的問いであるなら、レベル1の問いの答えの違いは、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出します。しかし、さらにより上位の問いが実践的問いであるならば、最初の理論的な問いの答えの違いが、より上位の理論的問いの答えの違いを生み出し、その違いがさらにより上位の実践的問いの答えの違いを生み出すことになるでしょう。理論的問いの上位の問いをさかのぼっていけば、つねに何らかの実践的問いに行き着くのだとすれば、あらゆる理論的問いの答えの違いは、程度の差はあれ何らかの行為の違いをもたらすことになるでしょう。

#レベル2の問いに対する答えの違いは、予測の違いを生み出すと思われます。レベル2の問答は、次のような、現象的認識についての「なぜ」の問いとその答えでした。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」

  「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

この「なぜ」の問いは、原因の説明を求める「なぜ」の問いです。自然現象について「なぜ」と問う場合、その理由や根拠を問うということはありえないので、この場合の「なぜ」は常に、原因の説明を求める「なぜ」になります。では、自然現象の原因の説明を求める問いのより上位の問い(目的)は何でしょうか。自然現象の原因が分かれば、原因となる出来事と似たような出来事があれば、似たような結果が生じるであろうことが予測できます。また、その現象について理論的ない問いを立て、その自然現象についてさらに分析を進めることが可能になります。また他方では、予測をもとに、自然現象を阻止したり、変化させたりすることが可能になります。ここでのより上位の問いは、次のようなものになるでしょう。

  ・自然現象を予測すること(理論的問い)

  ・自然現象の原因について分析を進めるための問いを立てること(理論的問い)

  ・自然現象を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

最初の二つの問いは、理論的問い(たとえば「すべての黄色い花は、カロチンを多く含むのか?」という問いや、「カロチンは色素なのか?」という問いになるでしょう。後者の問いは、実践的な問い(例えば「この花をもっと濃い黄色にするにはどうすればよいのか?」という問い)になるでしょう。

(理論的認識についての「なぜ」の問いの場合を含めて、より詳しくは科学について考察するときに、取り上げることにします。)。

#レベル3に対する答えの違いは、どのような違いをもたらすでしょうか。レベル3の問いは「なぜ」の問いであり、その答えは推論となる。「なぜpなのか」の問いの場合には、「…ゆえに、p」というpを結論とする推論となります。

 一般的に(つまり認識論に限定せずに)考えて、原因、理由、根拠に関するこのようなpの上流推論の違いから何が帰結するでしょうか。おそらくより上位の問いの答えの違いが帰結するでしょう。では、「なぜ」の問いのより上位の問いは、一般的にどのようなものになるのでしょうか。たとえば、原因の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは、レベル2の問答について考察した場合を含めて、次のようになるでしょう。 

  ・出来事を予測すること(理論的問い)

  ・出来事について分析を進めること(理論的問い)

  ・出来事を予測して、自然現象を阻止したり、変化させたりすること(実践的問い)

では、行為の理由の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・行為を理解するため

  ・理由を理解して、次の行為を予測するため。

  ・次の行為を予測して、それを支援したり、妨害したりするため。

  ・行為の理由を理解して、さらにより上位の理由を理解する(問う)ため。

では、主張の根拠の説明を求めて「なぜ」と問うのは、一般にどのような場合でしょうか。それは次のような場合です。

  ・主張を証明するため。

  ・主張を証明して、その主張から何が帰結するかを予測するため。

  ・その主張から何が帰結するかを予測して、その主張に反論するため。

以上は、「なぜ」の問いのより上位な問いがどのようなものになるかを一般的に考察したものですが、認識行為についての「なぜ」の問いのより上位の問いの場合も、同様のものになるだろうと思います。

(<「なぜ」の問いのより上位の問い>については、これまで主題的に考えたことがなかったので、今回の考察は非常に暫定的なものです。今後、修正改良することになると思います。)

次回から知覚と知覚方向について考えます。

01認識についての問答の区別 (20210424)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは、問答の観点から認識を考察し、認識論の伝統的な問題に問答の観点から答えることだけでなく、認識についての新しいアプローチ、つまり新しい問題設定を目指したいとおもいます。論じたいトピックは、以下のようなものです。

・問答と知覚

・問答と知覚報告

・問答と観察命題と理論命題

・問答と科学研究

一般的に、認識に関する問答は、次の三つのレベルに区別できそうです。

レベル1(問答としての現象的認識):現象的認識は、問いに対する答えである。現象的認識は問答として成立する。例えば次のような問答になります。

  「この花は何色ですか?」:「黄色です」、「この花の色は黄色です」

レベル2:(問答としての理論的認識):現象的認識についての「なぜ」の問いと答えは、理論的認識を構成する。例えば次のような問答になります。

  「なぜ、この花の色は黄色なのか?」:「なぜなら、この花は、カロチンをたくさん含むからです。」

(ここでの「現象的」と「理論的」の区別は、カルナップによる区別を念頭においたものです。いずれ説明します。)

レベル3(問答としての認識論)認識論は、認識についての問いに対する答えである。認識論もまた問答として成立する。例えば、「私はこの花の色を黄色だと認識している」という現象的認識について言えば、次のような問いになります。

 「なぜ、私はこの花の色を黄色だと認識しているのか」

通常の問いの答えは、命題になりますが、「なぜ」の問いの答えは、一般的に推論となります。「なぜpなのですか?」という問いへの答えは、「…ゆえに、p」という推論形式をとります。そして「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」と、行為の理由を問う「なぜ」と、主張の根拠を問う「なぜ」に区別できます(これについては、『問答の言語哲学』120-124で説明しました)。それゆえに、ここでの認識についての「なぜ」の問いも次の3つの意味に区別されます。

①<私はこの花の色を黄色だと認識している>という出来事ないし状態の原因を問う「なぜ」

この場合の答えは、「光が網膜にはいって、視神経を刺激して…、ゆえに、私はこの花の色を黄色だと認識している」という仕方で認識の原因の説明をおこないます。この問答は、「自然化された認識論」を構成します。

②<私はこの花の色は黄色だと認識する>という行為の理由を問う「なぜ」

 「私はこの花とあの花が同じ品種に属するものかどうかを知りたいゆえに、この花の色は黄色だと認識する」という仕方で、認識行為の理由の説明を行います。この問答は、「実践的な認識論」あるいは「プラグマティックな認識論」を構成します。

③「私はこの花の色は黄色だと認識している」という主張の根拠を問う「なぜ」

 この場合の答えは、「この花の色は、黄色である。私はこの花の色を黄色だと考えるゆえに、私はこの花の色を認識する」と言う仕方で、認識の主張の根拠を説明します。

 この問答は、「論理的な認識論」(この呼び方にはまだ迷いがありますが、とりあえずこうしておきます)を構成します。

認識論についての議論は錯綜しがちですから、とりあえず以上の区別を踏まえて、最も身近な認識である知覚と知覚判断の考察にとりかかりたいと思います。

(コメントをいただくときに、メイルアドレスの入力は不要になりましたので、安心してコメントしてください。よろしくお願いします。)