88 BSDから概念実在論を考える  (20230325)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#BSDから概念実在論を考える

BSDでブランダムが論じるのは、「語用論的に媒介された意味論」であり、具体的には語彙を運用する実践に媒介された語彙と語彙の関係です。BSDが、概念実在論と関係するのは、対象を指示するof志向性の語彙の意味を、語用論的に媒介された意味論で説明するからです。

#of志向性とthat志向性の説明

of志向性とは、「Xさんが、対象Yについて(of)、pと信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes of Y that p)などで表現される志向性である。他方、that志向性とは、「Xが、pということを信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes that p)などで表現される志向性である。Of志向性は、対象Yを指示して、それについてpと信じること(あるいは他の志向的態度をとること)です。

#コミットメントの両立不可能性の客観的側面と主観的側面

BSDでは、主張やコミットメント間の両立不可能性が生じることは、一つの対象を前提することから生じると説明します。また両立不可能なコミットメントを修正しなければならないという規範性は、コミットメントの主体が一つであることから生じると説明します。

これによって、<対象>と<主体>の形而上学的構築が行われると説明します。

・両立不可能な複数の主張を修正して、両立不可能性を解消することは、一つの対象を形而上学的に構築することである。

・両立不可能な複数のコミットメントを修正して、両立不可能性を解消することは、一つの主体を形而上学的に構成することである(cf. BSD193)

主張やコミットメントの両立不可能性を取り除くプロセスがどうじに、対象と主体を構成するプロセスなのです。このプロセスは、事実の概念構造の客観性を説明するプロセス、つまり概念実在論のただしさを説明するプロセスでもあります。このプロセスは、志向性の語彙の運用によって行われます。その運用実践は、「理由を与え求める」実践ですが、問い答えるの実践でもあります。

何かしっくりしない、曖昧な、話ですみません(こういうとき、私は背中がムズムズします)。次回は、主張やコミットメントの両立不可能性の議論を問答の観点から見直したいと思います。

87 疑問文を使わない問答  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず、下の図 (BSD46) を説明したいと思います。(いきなりこの図の説明を読んでも、理解するのが難しいかもしれません。ゆっくりと読んでみてください。)

ブランダムは、この図式で、論理的語彙を使用しない推論を考えています。BSDのなかでは一般に、Vは「語彙」、Pは「実践」(実践ないしその能力」を表します。PV-suffは、の出発点のPが、矢印の先のVを運用するのに十分であること(being sufficient to deploy)を示します。PV-necは、矢印元のPが矢印の先のVを運用するのに必要であることを示します。上の図式は、「もし…ならば」という条件文を作る語彙Vconditionalsと、条件法を含まない語彙V1の関係を表現しています。条件法を含まない語彙でもそれが使用される時には、推論を行っています。その推論を行う実践がPinferingであり、それは、V1を運用するのに必要であるので、PV-necの矢印がPinferingからV1へ向かっています。

PP-suffは、矢印元の基礎的Pが矢印先の複雑なPをアルゴリズムに従って作り上げるのに十分であるということを示しています。PADPからV1への矢印がP-suffとなっているのは、ADP (an aoutonomous discursive practice)(自律的言説実践)(これは「他の言語ゲームをすることなくその言語ゲームをすることができるような言説実践」(BSD41)です)が、条件文を含まない語彙V1を運用するのに十分であるということを意味しています。

PAlgEl は、「Pをアルゴリズムに従って作り上げること」(Pをアルゴリズム的に精緻化すること)を意味します。上の図のPAlgEl3:PP-suffは、「もし…ならば」の語彙なしに推論する実践Pinferingから、アルゴリズムによって、「もし…ならば」を含む語彙Vconditionalsを運用する実践Pconditionalsを、構成することができることを示しています。つまり、論理的な語彙を使用しなくても、私たちは推論しているということです。そしてそのような推論を、ブランダムは(「形式的推論」と対比して)「実質的推論」(material inference)と呼びます。ここで重要なのは、Vconditionalsを用いて、Pinferingを特定(specify)ないしコード化(codify)できるといことです。つまり、論理的語彙を使用せずに実質的に行っている推論実践を、論理的語彙をもちいて記述できます。この関係は、VconditionalsからPinferingへの矢印VP-suffで表示されています。このとき、Vconditionalsは、V1の中で実質的に暗黙的に行われている推論を明示化(explicate)するという関係にあります。この明示化の関係は、実践を解する間接的な関係であり、Res:VV(resultantな(結果として成立する)VとVの関係)であり、「語用論的に媒介された意味論的関係」です。このような「語用論的に媒介された意味論的関係」Res:VVは、これ以外にもあるのですが、このようなRes:VVをブランダムは「LX関係」と呼びます。Lは、elaborationの関係を表現し、Xはexplicationの関係を表します。この両方をともなうとき、Res:VVを「LX関係」とよび、それを成立させるVconditionalsのような語彙「LX語彙」と呼びます。

ブランダムは、条件法の語彙以外のLX語彙として、「指示詞」の語彙、「様相」の語彙、「規範」の語彙を挙げています。彼によれば、「指示詞」の語彙は照応の語彙に対してLXの関係にあり、「様相」の語彙は「経験的語彙」に対してLXの関係にあり、「規範」の語彙も「経験的語彙」に対してLXの関係にあります。

私がここで指摘したいのは、疑問の語彙もまた「LX語彙」である、ということです。

ブランダムは疑問の語彙については、何も述べていません。また問答関係についても全く言及しません。ブランダムは、よく「理由を与え求めるゲーム」(the game of giving and asking for reasons)について言及するのですが、そのとき彼の念頭にあるのは、問いと答えではなく、ある主張の理由を与える<上流推論>と、その主張を前提として他の命題に理由を与える<下流推論>だと思われます。

しかし、私たちは、ブランダムの語用論に媒介された意味論を、疑問の語彙に適用できると思います。

私が考える「疑問の語彙」とは、「疑問詞」(「どれ」「なに」「なぜ」「どのように」「いつ」「どこ」「だれ」など)と決定疑問文です(ブランダムのいう「語彙」は語の集合を意味するのではなく、「発話」(locution)の集合ですので、決定疑問文(ないしその文形)もまた「疑問の語彙」に含まれると思います)。

上のPinfering が条件法を用いないで推論を行う実践Pを意味していましたが、それと同様に、Pquestioning and answering で、疑問の語彙をもちいないで問答を行う実践Pを意味したいとおもいます。そのような実践とは、つぎのような発話です。

 「これは」「それはリンゴです」

  「リンゴは」「それです」

  「リンゴの色は」「それは赤色です」

このような問答が日常ではよく行われています。多くの場合、これらの問いは、次のような疑問文の省略形だと説明されるでしょう。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

  「リンゴはどれですか」「それがリンゴです」

  「リンゴの色は何ですか」「それは赤色です」

私は、このような疑問文とそれへの答えという問答においては、「疑問の語彙」が用いられていますが、そのような語彙が導入される前に、上のような仕方で問答が成立していただろうと考えます。いったん疑問の語彙の使用を学習したならば、それを使用しない問答は、疑問文による問答の省略形だとみなすことができるでしょうが、しかしそのような語彙の導入前に、上記のような暗黙的な問答が成立しているだろうと考えます。

では、ここから、概念実在論について何が言えるでしょうか。

87 研究会がおわって  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(更新が遅れてしまい、すみません。)

3月10日に「概念実在論と問答」と題して「推論主義研究会」で発表しました。

その時の原稿を以下にアップします。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230310研究発表%20「概念実在論と問答」(Ver2).pdf

もう少し時間をもらって、その後の質疑を受けて考えたことも追加してVer.3としてupする予定です。

このカテゴリーでは82回目から、ブランダムの概念実在論と問答推論の関係を論じてきました。

その過程で、A Spirit of Trust(ST)の議論が、Between Saying and Doing (BSD)の叙述と密接に関係していることがわかりました。研究発表でもそのことを説明しました。概念の客観的形式と主観的形式、言い換えると真理様相語彙と義務規範語彙が相互に意味依存するというSTの主張を、BSDでは、「語用論的に媒介された意味論」をもちいて説明していました(この説明については、上記の発表原稿をご覧ください)。

ここでは、概念実在論が主張する事実の概念構造の「客観性」について、MIE、AR、BSD、STの議論を参照しながら、検討したいとおもいます(研究会の発表後、MIE、ARにも同様の議論があることに気づきました。それは、MIEの「8章 命題的態度を帰属すること:推理することから表象することへのみちすじ」やARの「第五章 推論から表象への社会的なみちすじ」での議論です。こうしてみると、ブランダムがMIEから同じ基本的な枠組みで論じてきたことがわかります。私が気づいていなかっただけ、というべきかもしれません。)

私はブランダムの概念実在論を問答推論の立場から検討することを目指しているので、次回からBSDの議論に問答の語彙をどう組み込みことができるのかを考えたいとおもいます。残念ながら、BSDには問答の語彙への言及が全くないのです。

86 概念的観念論の非対称性  (20230302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#概念的観念論とは

「概念的観念論は、事物を解釈する二つの仕方はともに妥当で本質的であるが、それらの間には説明上の重要な非対称性があるというアイデアである。」ST369

ここでいう「事物を解釈する二つの仕方とは、「客観的概念的諸関係」と「主観的概念的実践とプロセス」ST369です。もう少し詳しくいえば、

「世界の概念構造を分節化する実質的な両立不可能性(および、したがって帰結)の客観的関係を表象する概念」ST369

「(実質的に両立不可能なコミットメントの是認に反応して、(いくつかのコミットメントを同定したり、他のコミットメントを犠牲にすることによって)自己意識的な個人的自己を構成する)主観的実践とプロセスを表現する概念」ST369 

です。

ここでブランダムは次の問いを立てます。

「<客観的概念的諸関係と主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」ST369

この問いに対して、ブランダムは、この配置全体は、「主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語」で理解することが、説明上優先されるべきだと答えます。そしてこの主張を、概念的観念論をと呼びます。この主張は二つの説明方式の間に非対称性を認めます。(ちなみに、「実体は主体である」というヘーゲルの言葉は、この概念的観念論を表現していると言われます。)

実はまだSTの第三部を読めていないので、今の段階では「概念的観念論」については、まだよくわかりません。しかし、STが概念実在論、客観的観念論、概念的観念論がという三段階でヘーゲル『精神現象学』を捉えようとしていることとそのおおよその内容はわかりました。この三段階は、おそらくヘーゲル『大論理学』の三部とも次のように対応するのだろうと推測します。

「存在論」は概念的実在論に対応し、

「本質論」は客観的観念論に対応し、

「概念論」は概念的観念論に対応する。

この理解の根拠は、次の個所です。

「『大論理学』で「本質論理学」(これは論理学の第二部)は、何処であれ、存在と仮象の間の区別、実在性と現われの区別があるところで、適用される。(第三の最後の段階「概念論理学」は、人が存在と仮象の区別の発展的連鎖(これは私たちの解明が向かっているところである)を見る時に、適用される。)」ST424

さらに、この三段階は、Between Saying and Doing (BSD)の内容と次のように関係するだろうと推測します。

「概念的実在論」に対応するのが、BSD第2章(或いは第2,4章)

「客観的観念論」に対応するのが、BSD第4章(或いは第2,4章)

「概念的観念論」に対応するのが、BSD第6章

さらに、ブランダムは、「概念的実在論」を完全に理解するには「概念的観念論」まで進まなけれならないと考えているだろうと推測します。

以上の推測を踏まえて、次回から「概念的実在論」と問答(ないし問答推論)の関係をBSDを参照しながら考察したいと思います。

85 <事実の概念構造の客観性>と相互的意味依存  (20230225)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

事実の概念構造が、客観性を持つとは、「もしそれを認識する人がいなくても、事実の概念構造が存在している」という反事実的条件法が成り立つことだとしましょう。この反事実的条件法は、客観的世界についての語りとして成立します。

前に(第83回で)「「二様相的質料形相的概念実在論」について説明したように、ブランダムによれば、概念的内容は、二つの形式(客観的形式と主観的形式)をとります。

「主観的形式は、義務論的規範的語彙によって明示化され、客観的形式は真理論的様相的語彙によって明示化されます」(ST80)

この二つの形式ないし語彙が相互的意味依存の関係にあるのと主張するのが、客観的観念論」であることも第83回にのべました。ブランダムは、他の個所で、それらの語彙の具体例を次のように上げています。

「客観的世界の存在論的構造を分節化する諸概念:対象、性質、事実、および法則」(ST671)

「客観的世界について語り考えるプロセスと実践を分節化する諸概念:指示する、記述する、判断するないし主張する、推論する、単称名辞、述語、平叙文、仮定法条件文」(ST671)

つまり、事実の概念構造が客観性を持つことは、「もしそれを認識する人がいなくても、事実の概念構造が存在している」という反事実的条件法によって主張されるのですが、その反事実的条件法は、概念的内容の主観的形式に属するものであり、これは「存在の領域」ではなく、「思想の領域」に属します。事実の概念構造の客観性は、概念内容の主観的形式に「意味依存」しているのです。

「意味依存」は、「指示依存」と対比的に説明されます。それらは次のように定義されています。

・「意味依存」の定義

「XがYに意味依存するとは、Xの概念を把握する事が、Yの概念の把握なしには、不可能である」(ST 206)

ブランダムの挙げている例では、概念sunburn (日焼け)は 概念sun(お日様)と burn(焼ける)に意味依存する。これは一方的な意味依存の例。また、概念「親」は、概念「子供」に意味依存する。これは相互的意味依存の例。

・「指示依存」の定義

「XがYに指示依存するのは、次の場合のみである。<X(概念Xの指示対象)が、Y(概念Yの指示対象)が存在するまでは、存在しえない>場合である。」(ST 206)

ブランダムの挙げている例では、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることによって1871年のシカゴ大火災が起こったが、1871年のシカゴ大火災は、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることに「指示依存」する。これは一方的指示依存の例。

つまり、仮定法条件文の概念の把握なしには、事実の概念構造の客観性の概念の把握は不可能なのです。ただし、事実の概念構造の客観性の概念を把握するものがいなくても、事実の概念構造の客観性が成立することは可能です。なぜなら、事実の概念構造は、仮定法条件文の概念に指示依存しないからです。

この議論と問答の関係を論じたいのですが、その前に、この議論が、ヘーゲル観念論の第三段階である(とブランダムが言う)「概念的観念論」とどう関係するかを、次に見たいと思います。

84 概念的実在論と問答 (20230221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、「概念的実在論」とは、「客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)、言い換えると、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にある」(ST 54)という主張です。

客観的事実や性質について、例えば「これはXである」と言えば、「これはXではない」とは両立不可能ですし、「Xであること」と「Xでないこと」の区別が前提されているし、その区別ができることが前提されています。したがって、客観的事実や性質について何からの記述ができる限りで、<客観的事実や性質は、他の事実や性質に対して、両立不可能性や帰結の関係にある>と言えるでしょう。

問題は、客観的事実や性質についての両立不可能性や帰結の記述がどういう意味で<客観性>を持っているのか、ということです。

例えば「これはリンゴであり、これはナシではない」「これはリンゴであり、したがってこれは食べられる」などの記述がどのような客観性を持っているのかです。それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます。

ではこれらの記述が、<客観的事実や性質>の記述であるとは、どういうことでしょうか。それは、「その事実や性質を確認する人がいなくても、つまりそのリンゴを見る人や、そのリンゴを食べる人がいなくても、それらの記述は成り立つだろう」ということです。別の例でいえば、「ニュートンが生まれなくても、また人類が生まれなくても、万有引力の法則は成立していただろう」ということです。このように、客観的事実については、様相概念(可能、必然、など)を用いて語る必要があります。

概念実在論は、客観的事実についての真理様相語彙をもちいた記述の正しさを主張することです。

(念のために言えば、「」は文や命題を表現し、<>は単なる強調を表現しています。)

 

 先ほど、「それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます」と述べました。この確認作業において、私たちは次のような問答を行っていると思います。

「これはリンゴだろうか」「これはリンゴだ」。

 「これはナシだろうか」「これはナシではない」

 「これは食べられるだろうか」「これは食べられる」

このような問答なしに、この確認作業を行うということは不可能でしょう。

では、概念実在論において、疑問の語彙や疑問文の文型は、真理様相語彙と同様に必須なものでしょうか。また問答関係や問答推論の論理的関係は、どのように位置づけられるでしょうか。

 これを検討したいと思います。

83 概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論  (20230216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今回はヘーゲル観念論の3つの段階を説明します。

ブランダムは、A Spirit of Trust (STと略記)で「概念的実在論」を、次のように説明しています。

#「概念的実在論」とは何か

・「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」((ST 3)

・「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)という主張。

・「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(ST3)

・「概念的実在論は、世界が客観的にあるあり方は、それ自体で、概念的に分節化されている、という主張である。」(ST54) 

ここで「概念形式の中にある」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)です。(<なぜ客観的世界がすでに概念形式の中にあるといえるのか>については後で考察したいと思います。)

#「二様相的質料形相的概念実在論」とは何か

ブランダムによれば、概念的内容は、二つの形式(客観的形式と主観的形式)をとります。

「主観的形式は、義務論的規範的語彙によって明示化され、客観的形式は真理論的様相的語彙によって明示化されます」(ST80)

このように二つの形式をとることを「質料形相的理解(hylomorphic conception):一つの内容と二つの形式」(ST80)であると言います。(ちなみに、概念内容の客観的形式が質料に対応し、主観的形式が形相に対応するというのではなく、同一の内容(質料)が、二つの形相(客観的形式と主観的形式)をとるということです。)そこでかれは「二様相的質料形相的概念的実在論」(bimodal hylomorphic conceptual realism)を主張します。

#客観的観念論とは何か

ブランダムは、概念内容の客観的形式と主観的形式が、相互的(対称的)意味依存の関係にあると主張します。そしてその主張を「客観的観念論」と呼びます。

「彼[ヘーゲル]は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私[ブランダム]が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

(なぜ二つの形式が相互的に意味依存するのかについても、後で考察します。)

#概念的観念論とは何か

「概念的観念論」とは、「概念的実在論」による<二様相質料形相的概念的分節化>の主張と、「客観的観念論」による<客観的概念関係と主観的概念関係の相互的意味依存>の主張を、前提としたうえで、<客観的概念関係が主観的概念関係に依存する>と主張する立場です。

「<客観的概念的諸関係>と<主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」(ST369)

という問いに、後者で答えるのが「概念的観念論」です。

「概念的観念論は、二様相の質料形相的概念的実在論と客観的観念論に基づいており、それを前提としています。それらは両方とも、概念的内容の主観的形式と客観的形式の間の対称的な関係を示しています。概念的観念論は、志向的結合の2つの極の間の対称関係のこれらの両方の種類に、この想起的活動の非対称的な優先性というアイデアを追加します。」ST373

(この「想起的活動の非対称的な優先性」がどのようなものであるかについては、後で考察します。)

82再びブランダムの「概念的実在論」について  (20230210)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(3月にブランダムに関する研究会で発表する予定ですので、その準備を兼ねて、しばらくブランダムの概念実在論と問答推論の関係について考えたいと思います。)

このカテゴリーの第56回から65回までブランダムの「概念実在論」をめぐって考察しました。そこでは、ブランダムの推論主義を問答推論主義へと展開しようとするとき、ブランダムの概念実在論をどのように変更する必要があるのかを論じようとしましたが、ブランダムについての勉強不足もあって、十分に論じきれませんでした。現在でもまだ勉強不足なのですが、もう一度その問題を論じたいと思います。

まず、ブランダムの『信頼の精神』(A Spirit of Trust、ST)の大枠を確認したいと思います。この本は、ヘーゲルの『精神現象学』の「意味論的読解」(ST p.3)であり、それの「合理的再構成」(ST, p.1)を意図するものです。「意味論的読解」とは、「概念内容」を中心とピックと考える読解です。「合理的再構成」については次回に「概念的観念論」を説明するときに説明します。

ブランダムは、この本で、ヘーゲルの観念論が次の3つの段階(概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論)からなると考えます。この構造が、意味論的読解の大枠です。

次にこの3段階を説明します。

81 オペラント行動の失敗から意識が発生する(空想的)物語  (20220619)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「どのようにして意識が発生するのか」という問いへの答えは、物語形式になるでしょう。その物語の証明ないし正当化が必要になりますが、とりあえず、意識の発生の「整合的な物語」(つまり現在の私の知識と矛盾しない範囲で、最も在りそうな物語、空想、妄想、推測、思弁の類)を作ってみたいとおもいます。

オペラント行動は、探索の一種です。探索の失敗から探索の意識が生じるだろうと推測します。

オペラント行動の失敗については、前に次のような場合に分類しました。

(1)弁別刺激の錯覚や誤解の場合

(2)行動の間違いの場合

(3)強化刺激の錯覚や誤解の場合

(4)弁別刺激と行動と強化刺激の三者の結合関係の誤解の場合

これらは、行動の失敗の原因の分類になります。一般的に行動の失敗の原因としては、事実の誤認(知覚の失敗)と行為能力の誤認が考えられますが、原因が何であれ、行動に失敗したときには、もしそれが意識的な行動であった場合には、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。オペラント行動の失敗もまた、上記のようにいろいろな原因によって生じるでしょうが、原因が何であれ、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。ただし、それはもともと意識をもつ主体の場合です。

前に、知覚が意識されるのは、探索に対する答えとしてであろうと言いました。行動が意識されるのも、探索に対する答えとしてであろうと思います。ただし、その場合に、その探索が意識されていることが必要です。意識的な探索の答えとして、知覚や行為(ないし行為内意図)が意識されるのだろうと思います。

では、探索が意識されるのは、どのような場合でしょうか。探索が意識されるのもまた、探索が失敗した時だろうと思います。前に、知覚の失敗によって、知覚を意識すると言いました。それは、知覚の失敗によって探索が失敗し、探索が意識的になるので、知覚の失敗が意識され、その結果知覚が知覚として意識されるのだろう、と推測します。また前に行動の失敗によって、行為内意図を意識することになるとどこかで述べたような気がします。行動の失敗によって、探索が失敗し、探索が意識的になることによって、行動の失敗が意識され、意図(行為内意図)が意識されるようになるのだろう、と推測します。

このように、意識の発生は探索の失敗、オペラント行動の失敗によると推測します。しかし、オペラント行動に失敗しても、鶏やネズミや猫や犬が、意識を持つようには見えません。もし鶏やネズミや猫や犬がオペラント行動に失敗しして、意識的になるのならば、失敗を何度が経験すれば、最初から意識的にオペラント行動や試行錯誤をするようになるでしょう。意識的に試行錯誤するとは、考えてから行動(試行)するということです。しかし、鶏やネズミや猫や犬は、(私には)試行の前に考えているように見えません。

意識をもたない動物がオペラント行動をするときに、試行錯誤するとき、それは意識なしの試行錯誤(意識なしの探索)です。つまり、不快な状況にある時それを変えようとして、動き回り、たまたまある行動の後に快適な状態になったとすると、その時のきっかけになった行動を行うようになるというのが、オペラント行動の始まりだろうとおもいます。

これに対して意識的に探索する動物が、試行錯誤するときには、おそらく目的を意識し、状況を意識的に知覚し、そこから可能な候補を一つ(場合によっては、複数)考えて、それを試行するでしょう。つまり実際に行動にとりかかる前に、一旦停止し、その後で行動を始めるのではないでしょうか。(それは、ちょうど突然の物音や光に静止し、その方を注視する「定位反射」に似ていると思います。下等動物では、定位反射の後に続くのは、別の反射行動でしょう。たとえば、外敵をみつけたなら逃げる、などです。)では、猫や犬は、ソーンダイクの試行錯誤の実験において、試行にとりかかる前に、「一旦停止」するでしょうか。ネットにある動画では、それが編集されているために、そのあたりがよくわかりません。

ただし、オペラント行動の失敗から意識を獲得する動物はいます。少なくとも人間はそうですし、マカクやチンパンジーもそうかもしません。猫やイヌも、可能性は低いですが、そうかもしれません。しかしオペラント行動をするが、意識を持たない動物がいます。例えば、鶏など。オペラント行動の失敗から意識的になるかどうかどうかを分けるのは、おそらく脳の構造の違いにあるのだろうとおもいます。では、意識を持つためにはどのような脳の構造が必要でしょうか。次回は、これについて(思弁的に)考えてみます。

80 試行錯誤とオペラント条件付け  (20220616)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動の失敗について考察中ですが、今回は、ソーンダイクの試行錯誤論への寄り道です。)

ソーンダイクの試行錯誤理論の実験で、檻に閉じ込められた犬が、檻から出るために、何をしたらよいのかわからないとき、まずいろいろ動きます。そのなかでたまたまレバーに前足がかかって、檻の扉があきます。この経験から、犬は、レバーを引いて、檻の扉を開けようとするようになります。そして、何度もするうちに、レバーの引き方が次第に上達して、より少ない試行と時間で扉を開けられるようになります。この過程で、レバーをひく行動に上達します。試行錯誤の中で、必要な行為や知覚の精緻化が生じています(この実験については、https://www.youtube.com/watch?v=y-g2OmRXb0gをご覧ください)。

(試行錯誤は、より原始的な生物が、刺激の方向性が解らないとき、よりよい状態を求めて、ランダムに動き回るという「動性(kinesis)」と似ています。そのとき、たまたまその行動がより快適な状態をもたらすこともあるでしょうが、そこから学習することはありません。学習する高等な動物は、その成功の経験の痕跡(記憶)をもとに、オペラント行動するようになったのでしょう。)

犬が檻から出ようとしていろいろ行動するのは、檻からでたいと欲求しているからであり、そのいろいろな行動は欲求を実現するための試行錯誤であり、探索だといえるでしょう。

つまり、試行錯誤(trial and error)は、失敗から学ぶ(learn by mistake)ということでしょうが、もちろん成功から学ぶことも含まれています。

スキナーのオペラント行動論は、ソーンダイクの試行錯誤論の影響を受けていると言われています。オペラント行動には、成功から学ぶ場合と、失敗から学ぶことの両方があります。つまり、オペラント行動もまた、失敗と成功という行動の結果から学ぶことです。

では、オペラント行動と試行錯誤は何が違うでしょうか。試行錯誤理論にかけているのは、行動のきっかけとなる弁別刺激への明示的な言及ではないかとおもいます。ソーンダイクのイヌの実験で、レバーを引くという行動が起きるまえには、檻の中に閉じ込められていることの知覚、レバーの知覚などがあります。この二つが弁別刺激になっていると考えることができます。

このように試行錯誤論には、弁別刺激への言及がないのですが、しかし他方で、オペラント行動論には、試行錯誤過程、つまり適切なオペラント行動の発見の過程への言及がありません。オペラント条件付けにおけるこの弁別刺激は、行為を誘発する刺激(条件反射における誘発刺激のようなもの)ではないとされます。しかし、弁別刺激が与えられた時(たとえば、檻に閉じ込められたことが解った時)に、試行錯誤したり、過去の行動の結果から学んだりするのは、ある刺激や状態を求めているからではないでしょう。つまり、弁別刺激とは別に、ある刺激や状態を求めているという条件がなければ、そのための探索をするということはありえません。それがなければ、試行錯誤も、オペラント行動も成立しません。確認するまでもないことかもしれませんが、試行錯誤もオペラント行動も探索です。

次回は、オペラント行動の失敗から意識が生じるという話に戻りたいと思います。