34 問答推論の観点からの分析/綜合の区別(2)(20210907)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回に続いて、いくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース3

  「机の上にリンゴがありますか?」「はい、机の上にリンゴがあります」

この問いを理解するということは、(他の問いの場合と同様に)この問いの上流問答推論や下流問答推論の正しさを判別できるということです。ところで、この問いの意味論的前提(つまりこの問いが正しい答えを持つための必要条件)の一つは、「机がある」ということです。この問いの前提を認めるためには、机を知覚する必要があります。さらに、この問いに答えるためには、机の上を見てリンゴがあるかないかを判断する必要があります。

 つまり、この問いの前提が成立しているという認識は、知覚に基づくものなので、問答はアポステリオリに成立します。そして、答えは問いの分析によって与えられるものではありません。したがって、この問答関係はアポステリオリで綜合的なものです。

#ケース4:問いを理解することによって、問いの前提が成立する問い。

出張が多くて、ホテルに泊まることが多い人は、目覚めたときに、自分がどこにいるのかわからなくて次のように自問することがあるでしょう。

  「私はどこにいるのだろう?」

このように自問する人は、当然この問いを理解しています。この問いの前提は、「私がどこかに存在する」ということです。したがって、人がこの問いを理解するとき、この問いの前提は成立しています。つまり、この問いは常に有効であり、それに対して真なる答えが存在することになります。この意味で、この問いはアプリオリに成立します。

 他方、この問いに答えるには、昨夜の行動を思い出し、その記憶に基づいて答える必要があります。あるいは、昨夜の記憶がないなら、部屋を出て、そこがホテルであるのかどうか、どこにあるホテルなのか、などを確認する必要があります。したがって、この問いに答えることは、綜合的です。このように考える時、この問答関係はアプリオリで綜合的だ、と言えそうです。

前回のケース1と今回のケース4はともに、問いを理解するとき、常に問いの前提が成立しています。しかし、二つのケースには、次のような違いがあります。

 ケース1では、問いの前提の成立は、問いの理解と無関係である。

 ケース4では、問いの前提の成立が、問いの理解によって生じる。

前回のケース2と今回のケース3はともに、問いを理解するときに、常に問いの前提が成立しているとは限りません。

 ケース2では、問いの前提が成立するとき、問いの前提の成立から、答えが分析的に帰結します。

 ケース3では、問いの前提が成立するとき、問いに対する答えは、知覚や記憶を介して、綜合的に与えられます。

これらをまとめると次のように言いたくなります。

ケース1の問答関係は、アプリオリで分析的

ケース2の問答関係は、アポステリオリで分析的

ケース3の問答関係は、アポステリオリで綜合的

ケース4の問答関係は、アプリオリで綜合的

問答関係としての真理をこのように4つに分類することができるでしょうか。

この分類は整合的でしょうか?明晰判明でしょうか?有用でしょうか?

これを次に考えたいと思います。

33 問答推論の観点からの分析/綜合の区別  ((20210905)

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 問答推論の観点から、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立についてどう考えるかを説明したいと思いますが、そのためには、問答推論の観点から分析/綜合の区別をどう考えるかを説明する必要があります。(前に[カテゴリー:問答の観点からの認識]の36回(20210724) において、「分析的に真」と「綜合的に真」、「アプリオリに真」と「アポステリオリに真」について新定義を提案しましたが、ここではそれを少し修正して、ここで再提案を試みたいと思います。)

 私は、カルナップを含む多くの論者と同様に、「分析」と「綜合」は論理的概念であり、「アプリオリ」と「アポステリオリ」は認識論的概念であると考えることにします。ただし、問答推論の立場では、判断を問いに対する答えとして成立するものとして捉えるので、「分析」「綜合」「アプリオリ」「アポステリオリ」は、命題や判断がもつ性質ではなく、問答関係がもつ性質だと考えます。

#問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することを伴う。

・「問いの意味論的前提」とは、「問いが真なる答えを持つための必要条件」であるとすると、問いが答えを持つ限りは、意味論的前提をもつはずです。ところで、問いの意味は、問いの上流と下流の問答推論関係として成立することです。それゆえに、問いの意味論的前提を理解することは、問いの下流問答推論関係を理解すること(の一部)です。<問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することである>、このことはすべての問いについて言えるでしょう。

 ただし、問いの意味論的前提を理解することは、その意味論的前提が成立していることを認めることではありません。

#問いの理解と問いの成立(問いの前提の成立)

 問いの前提が正しくなければ、問いは成立しないが、問いの前提が成立しない問いでも理解することは可能です。例えば、「フランス王は禿げていますか?」という問いは、「フランス王が存在する」を前提としている。この前提が真でないとしても、この問いを理解することは可能です。しかし、この前提が真でないなら、この問いは成立せず、この問いに答えることもできません。この問いに「はい」と答えることも「いいえ」と答えることもできません。このことは、補足疑問の場合も同様です。「フランス王はどんなひげを生やしていますか?」という補足疑問も、問いの前提が真でないなら、その問いに答えることはできません。

以上をふまえて、次にいくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース1

ある種の問いでは、問いの意味論的前提を理解することは、同時にそれを認めることです。次の例で説明しましょう。

  「5+7=12は真であるか?」

この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。では、「5+7=12」が真であるとは、どういうことでしょうか。それは、この式が自然数論の公理から導出できる、ということです。この式を理解するとは、この式を、適格な式(wff)とする自然数論の公理系を理解していることです。したがって、この式を理解する者は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。

 この例と同様に、論理学・数学の問いは一般に、<問いを理解することが同時に問いの意味論的前提を理解することだけでなく、その意味論的前提が成り立つことを認めることです>。

#ケース2

  「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」

この問いの場合、一見すると問いの意味を理解するだけで、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」と答えられると思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、この問いは机が存在することを前提しているからです。もし机があれば、これに対する答えは、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となりますが、もし机がなければ、この問いは無効であり、「はい」と答えることも、「いいえ」と答えることもできません。つまり無効な問いんに対する答えはありません。

 この問いの前提が成立すること、つまりこの問いが成立することを知るためには、机を知覚することが必要です。つまり、問いの前提の成立は、経験的認識を必要とします。

これら以外のケースの考察は、次回に行いたいと思います。

32 トートロジーについての「無内容性」理解と「実在性」理解((20210902)

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前回の最後に述べたトートロジーについての「無内容性」理解と「有意味性」理解の対立について考えたいと思いますが、後者を「実在性」理解と呼ぶことにしたいと思います(この方が違いが分かりやすいと思うからです)。。

カルナップが、論理学・数学の命題を無内容としたのは、それがどのような事実においても真とであるからです。それゆえにまた、「論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない」といいます。カルナップのように論理学・数学の「無内容」理解を採用するとき、そのような無内容な命題と、内容のある命題を区別することになります。この区別は、分析命題と綜合命題の区別にかさなるでしょう。カルナップによれば、分析命題と綜合命題の区別は、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別と重なります。この二つの区別の間にズレはありません。したがって、カントが「アプリオリな綜合判断」とみなしたものは、カルナップによれば、アプリオリで分析的なのか、アポステリオリで綜合的なのか、このいずれかです。例えば、幾何学の公理「二点を結ぶ直線は一つである」は、カントによれば、アプリオリな総合判断ですが、これに対して、カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、数学的幾何学の命題は、分析的でアプリオリであり、物理的幾何学は綜合的でアポステリオリであると考えました(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第18章 カントの綜合的アプリオリ」)。

 これに対して、論文「経験論の二つのドグマ」のクワインのように、分析と綜合を区別できないとし、全ての真理が綜合的であると考える時、論理学・数学の真なる命題もまた、世界の状態について、事実について、語っているということになります。つまり、クワインは、論理学・数学の「実在性」理解を採用するでしょう。

 クワインは、「経験論の二つのドグマ」おいて、分析的真理と綜合的真理を区別できるというドグマと、経験的命題をセンスデータ言明に還元できるという「還元主義のドグマ」を批判します。

「言明を単位として考える根源的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59

この根元的還元主義はうまくゆかず、カルナップは、根元的還元主義を捨てることになるのですが、クワインによれば、その後もカルナップは還元主義のドグマをもちつづけていると言います。

「還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である」(61)という考えです。

クワインはこの二つのドグマを共に批判し、「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である。」(61)と考えます。「[その同一の根とは] 言明の真理性は、何らかの仕方で、言語的要因と事実的要因へと分析できるという考えである。われわれが経験主義者であれば、事実的要因は、確証的経験の範囲ということに帰着する。言語的要因がすべてであるような極端な場合においては、真である言明は分析的である。」(邦訳62)

「個々の言明の真理性における言語的要因と事実的要因について語ることが、それ自体ナンセンスであり、他の多くのナンセンスの源でもある」(邦訳62)

「科学は、全体としてみられたとき、言語と経験の両方に依存している。だが、この二元性は、個々別々に考えられた科学的言明においては有意味な仕方では見出せないものなのである。」62

クワインは、言明の真理性に関する「言語的要因」と「事実的要因」を分けることできないと主張します。これは、分析/綜合の区別の否定から帰結することです。

次に、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立について、問答推論の観点から考えたいと思います。

31 論理的語彙による事実の明示化 (20210901)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

<論理的語彙と疑問表現が、それ以外の言語表現の意味の明示化すること>について、これまで(18回から30回まで)説明してきました。ここから、<論理的語彙と疑問表現が、事実を明示化すること>について検討したいとおもいます。

 とりあえずは、論理的語彙によって事実の明示化(解明)ができることを確認しましょう。例えば「これは青リンゴです┣これはリンゴであり、かつ青い色です」という推論は、青リンゴの定義ではないとしても、青リンゴがどのような性質を持つのかを明示化しています。その意味で、「これは青リンゴです」のこの下流推論は、青リンゴに関する事実を明示化しています。このように実質的推論において使用されている論理的語彙(この例では「かつ」)は、事実の明示化という機能をもちます。

 では次のような論理的に真なる命題はどうでしょうか。p→p、p∨¬p、¬(p∧¬p)、など。これらの論理的に真なる命題は、pがどんな内容の物であっても真となります。したがって、これらによって事実を明示化することはできないと考えられることがおおいです。例えば、カルナップは、次のように言います。

「いったん論理法則における用語の定義が理解されると、この法則が世界の性質とはまったく無関係なやり方で真でなければならない、ということが明らかになる。それは必然的な真理であり、また哲学者たちがしばしばいうように、すべての可能な世界に通用する真理なのである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店1968、原書1966、p.10)

「このことは、論理学の法則と同様に数学の法則についても当てはまる。…「1+3=4」という法則の真理性は、これらの意味から直ちにでてくる。…3次元のユークリッド空間は、一定の基礎的条件を満足する順序付けられた実数の3つ組の集合として、代数学的に定義することができる。しかしすべてこれは、外的世界の性質については何も扱ってはいない。群論の法則やユークリッド的三次元空間の抽象幾何学の法則が成立しない、可能な世界は存在しない、というのは、これらの法則はそれに含まれている用語の意味にのみ依存し、わたくしたちがたまたま存在している現実的な世界の構造には依存しないからである。」(同訳書、p.11)

「その代価とは、論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない、と言うことである。わたくしたちは、3たす1が4であることを確信しうる。しかしその理由は、このことがどんな可能な世界にでも通用し、わたくしたちが住んでいる世界について、何も語りえないからである。」(同訳書、p.11)

確かに、論理的に真なる命題は、世界がどのような状態であっても真となります、言い換えるとすべての可能世界で真となります。そこから、これらは世界の状態について何も語っていない、というのです。カルナップのこの考えは、おそらくウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で論理学、数学の命題をトートロジーとみなし、「無内容(sinnlos)」とみなしたことに由来するのだろうと思います。

前回私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。

これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。

 以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。

 次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。

30 論理的語彙と疑問表現による意味の明示化の再考 (20210831)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回見たように、公理p┣pは、表現pの意味を変えませんが、しかし、pの意味の成立を可能にするものです。この公理からから┣ p→pが得られます。論理結合子「→」は、pの意味を変えません。しかし、上の公理と同じような意味で、┣ p→pは、pの意味の成立を可能にするものです。その意味で、┣ p→pは、pの意味を明示化するものでもあります。pの意味はその推論関係ですが、p┣pは、pの正しい上流推論の一つであり、また正しい下流推論の一つです。

  ?p、p┣p

  ?(p→p)┣p→p

これらの推論が、pの意味の構成と明示化に役立っているのだとすると、論理結合子の導入規則や除去規則は、一般に、それ以外の語彙の意味の構成と明示化に役立っているといえるでしょう。前(21回)には、論理結合子が意味の明示化に役立つのは次のような場合と述べました。

  Aは動物であり、かつ、Aは理性的である。┣Aは人間である。

  Aは人間である。┣Aは動物であり、かつAは理性的である。

しかし、このような場合だけではないということです。そこでは次のように論じました

「形式的な推論は、そのたの言語票の意味を変えません。言い換えると、その他の言語表現の意味にとは独立に、形式的な推論が成立します。例えばp∧r┣pという推論は、pやrの内容に関係なく成立するものであり、それゆえに、pやrの内容に影響を与えませんが、逆にその内容を明示化するのにも役立ちません。」(21回)

しかしこれは拙速でした。現在ならば、次のように言えます。<p∧r┣pが、pとrの意味内容に関係なく成立するということは、この式がpやrの意味内容を明示化するのに役立たないということではなく、この推論においてpとrの意味が保存されているということを意味するのであり、pとrの意味内容は、この推論によって変わらないものとして提示され、構成され、明示化されています。> 同様のことは、論理結合子だけでなく、疑問表現にも成り立つでしょう。

このように<論理結合子と疑問表現が、他の言語表現の意味の明示化に役立つ>ということの説明をこのように拡張するならば、それは<論理結合子と疑問表現が、事実の明示化に役立つ>と言うことの説明も拡張することになるでしょう。これが何を意味するかは、次回から説明します。

29 同一律p┣pの考察から、議論の修正へ向けて (20210830)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 (問答論理での)シーケント計算が、他の言語表現の意味を変えないこと、つまり公理(p┣p、同一律)、構造規則の「弱化」「縮約」「交換」、派生規則の「カット」、それに加えて「┣」、これらの使用が、他の表現の意味を変えないことをどうやって証明したらよいのでしょうか。

#公理p┣pについて。

p┣pがpの意味を変えないことは、どうしたら証明できるでしょうか。これを証明することは、<もしp┣pによってpの意味が変化するとしたら、矛盾が生じる>ということを証明することによってできるでしょう。もしpの意味が変化するとすれば、真であったp≡rが、偽になるとか、真であったp→rが、偽になるとか、真であったr→pが偽になる、というようなことが生じるはずです。つまり、従来の真であった式が偽になったり、従来偽であった式が真になったりするはずであり、矛盾が生じるはずです。

(p┣pがpの意味を変えないことについては、今のところこのような背理法による証明しか思いつきません。直観主義論理では、背理法が成り立たないので、直観主義論における同一律の使用がpの意味を変えないことの証明にはなっていません。)

 しかし、ここで重要なことに気づきました。p┣pは、pの意味を変えないのですが、それはpの意味を保存するからではなく、pの意味を作り出すからではないでしょうか。p┣pと語る前に、pの意味が成立しているのならば、pの意味を変えずに保存していると言えますが。しかし、pについて語る時、p┣pが常に暗黙的に考えられているとすると、p┣pは、pの意味を変えずに保存しているのではなくて、pの意味を作り出していることになります。

 一度使用されたpを何度も使用するときには、最初のpの使用への照応的な言及が行われているはずです。pの意味は、一旦作った彫刻が存在し続けるように、pの意味を作ったら、存在し続けえるというのではありません。それが存在し続けるのは、いわば意味の空間においてであり、それを絶えず再構成し続けているのではないでしょうか。つまり、p┣pは、pについて最初に語る時だけでなく、p┣pは、pについて語るとき常に暗黙的に考えられており、pの意味を常に作り出していることになります。

 ここから言えることは、たしかにp┣pは、pの意味を変えないけれども、それは、<pの意味はこの同一律とは同区立に成立しており、同一律はpの意味と無関係である>と言うことではない、と言うことです。そして、同様のことが、これまでみた論理定項についても同じように言えるのではないでしょうか。論理的語彙が、他の語の意味を変えないということは、その語の意味と無関係であるということを意味しないのです。

 ここから、これまで述べてきた論理的語彙と疑問表現による意味の明示化についての説明を、少し変更する必要が生じます。次にこの点を説明したいとおもいます。(今回言及しなかった構造規則とカット規則と意味の関係については、その後の課題とします。)

28 部分構造論理の意味の保存拡大性について (20210827)

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論理的結合子の「保存拡大性」とは、次のような意味でした。<その論理結合子を導入規則と除去規則を連続適用したときできる推論が、その論理結合子を使用する以前にも可能であった推論である>と言うことでした。

これをもう少し明晰に証明するために、<ある論理的語彙を導入規則と除去規則を連続適用したときできる推論>を、<その推論が他の論理結合子を含んでいる場合(場合1)>と<含んでいない場合(場合2)>に分けます。

場合1には、論理的には、次のような可能性があります。<論理結合子C1の導入規則と除去規則を連続適用したときできる推論が、論理結合子C2を含んでおり、逆に、論理結合子C2の導入規則と除去規則を連続適用したときできる推論が、論理結合子C1を含んでいる>、かつ<C1とC2は、それ以外の語彙の意味を変化させている>、という可能性ないし怖れがあります。

しかし、場合1に当てはまるのは、論理結合子「∨」だけであり、その他の論理結合子や疑問表現は、場合2になります。つまり、それらの導入規則に除去規則を連続適用してできる推論は、どれも論理結合子を含まない推論でした。そして、「∨」の導入規則に除去規則を連続適用してできる推論は、「?(s)、p、p→s、r→s┣s」であり、他の論理結合子(→)を含んでいる(参照24回)のですが、ただし、「→」の導入規則に除去規則を連続適用してできる推論は、他の論理結合子を含んでいません。それゆえに、もし「→」が保存拡大性を持つのならば、「∨」も保存拡大性を持つと言えます。

それゆえに、問題は、場合2の表現が、保存拡大性を持つと言えるかどうかです。例えば「∧」について確認しましょう。「∧」の導入規則と除去規則を連続適用して得られる推論は次でした。

  ?(p)、p、r┣p

これは正しい問答推論ですが、論理結合子を含んでいません。ただし、p┣pという同一律を推論規則として成立する推論だと言えます。問答論理学では、この同一律は、相関質問を前提に加えて、

  ?(p)、p┣ p

と表記すべきだろうと思います。

 通常のシーケント計算では、p┣pに、構造規則「弱化」を適用して、p、r┣pを証明することができます。私は、ここで問答論理学でのシーケント計算の規則を考えて、それを明示すべきなのですが、それができることを想定して説明します。つまり、?(p)、p┣pから ?(p)、p、r┣ pが証明できるだろうと想定します。

 つまり、この問答推論は、p┣pというシーケント計算の公理(同一律)と構造規則「弱化」という二つの規則によって正当化されます。また、この証明の過程で、構造規則「縮約」「交換」と派生規則「カット」を用いています。つまり、論理結合子と疑問表現の保存拡大性を証明するために、シーケント計算を用いています。(ここではシーケント計算を適当に翻案して利用しているので、厳密に証明するには、問答論理のシーケント計算を定式化する必要があります。)

 シーケント計算の構造規則と公理(同一律)とカット規則が、他の表現の意味を変えないことを証明する必要があるでしょう。なぜなら、これらが他の表現の意味を変えるので、「∧」が他の表現の意味を変えないように見えている可能性が残るからです。論理結合子の利用が、他の表現の意味を変えないことの証明に、部分構造論理を使用しているのならば、部分構造論理が、他の表現の意味を変えないことを証明する必要があります。

 では、これ証明をどうやって行えばよいでしょうか。公理(同一律)や構造規則やカット規則やについては、導入規則と除去規則に対応するものがありません。したがって、拡大保存性についての、これまでの証明とは異なる証明の仕方が必要になります。次回は、これについて考えたいと思います。

27「何」と「なぜ」の導入規則と除去規則と保存拡大性 (20210825)

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「何」の導入規則と除去規則については、前に(23回)つぎのように説明していました。

疑問詞「何」の導入規則と除去規則は、「その花の色は何ですか」の例の場合、次のようなものです。

  「その花はバラです」┣「その花の色は何ですか」

  「その花の色は何ですか?」、Γ┣「その花の色は、赤です」 (Γは平叙文の列)

「どれ」の場合と同じように、除去規則は、問いを前提に含む推論、つまり問答推論の規則になっています。しかし、導入規則の方は、前提に問いを含んでいません。つまり、これは問答推論システムでの導入規則になっていません(22回での説明が不正確だったのです)。このような推論において潜在的にはたいているはずの相関質問を補うなら、例えば次のようになるでしょう。

  「開発中の新しい品種は、どんな花ですか?」「その花はバラです」┣「その花の色は何ですか?」

これに続けて導入規則

  「その花の色は何ですか?」、Γ┣「その花の色は、赤です」

を適用すると、次の推論になります。

  「開発中の新しい品種は、どんな花ですか?」、「その花はバラです」、Γ┣「その花の色は、赤です」

しかしこの結論は、最初の前提の問いの答えにはなっていません。つまり冒頭の問いに対する答えに至るには、ここでの結論を前提に加えて、それをもとに冒頭の問いに答える必要があります。

たとえば、それは次のようになるでしょう。

 「開発中の新しい品種は、どんな花ですか?」、「その花はバラです」、Γ、「その花の色は、赤です」┣「開発中の新しい品種は、赤いバラの花です」

冒頭の問いに対する答えに至りついたとき、この問答推論は完成します。そしてこの問答推論は、「その花の色は赤です」という前提があれば、「その花の色は何ですか?」という問いがなくても成り立ちます。なぜなら「その花の色は赤です」を答えとする相関質問は、他ものでもよいからです。例えば「その花の色は赤ですか?」「その花の色は、赤ですか黄色ですか?」「赤い花はどれですか?」「赤いものはどれですか?」などです。したがって、「その花の色は何ですか?」という問いや疑問詞「何」は、他の表現の意味に変化をもたらさないということです。これらは保存拡大性をもちます。

#疑問詞「なぜ」の導入規則と除去規則

これについては、前に(20回)に次のように説明しました(その時と少し表現が違います)。

<出来事の原因の「なぜ」の導入規則>

  「出来事pが起きた」┣「なぜ出来事pが起きたのか?」

<出来事の原因の「なぜ」の除去規則>

  「なぜ出来事pが起きたのか?」┣ 「Γ┣「出来事pが起きた」」

問答推論は、推論の結論を答えとする相関質問を、冒頭の前提として設定すべきです。「なぜ」の除去規則の結論は、命題ではなく推論であるが、前提には、その推論の相関質問が設定されているので、問答推論とみなしてもよいでしょう。しかし、導入規則は、結論の相関質問が前提にないので、それを明示化して補う必要があります。

 例えば、次のようなるでしょう。

  「出来事pの責任はだれにあるのか?」「出来事pが起きた」┣ 「なぜ出来事pが起きたのか?」

これと次の除去規則

  「なぜ」の除去規則:「なぜ出来事pが起きたのですか?」┣「Γ┣「出来事pが起きた」」

を連続適用すれば、次のようになります。

  「出来事pの責任はだれにあるのか?」「出来事pが起きた」┣ 「Γ┣「出来事pが起きた」」

冒頭の答えを得るためには、上の結論を前提に移して、そこから結論を引き出す必要があります。例えば、次のようになります。

  「出来事pの責任はだれにあるのか?」、(Γ→「出来事pが起きた」)、⊿┣「出来事pの責任はXにある」

この問答推論が正しいかどうかは、Γと⊿の内容に依存します。この問答推論が成立するには、前提Γ→「出来事pが起きた」が必要ですが、この前提を得るための相関質問は「なぜ出来事pが生じたのか?」であるとは限りません。他にも「Γが成り立つとき、何が生じたのか?」、「Γが成立するとき、出来事pが生じたのか?」「Γが成立するとき、出来事pが生じたのか、出来事qが生じたのか?」なのかなど、多くの問いに対する答えとなり得ます。つまり、「なぜ出来事pが生じたのか?」という問いや疑問詞「なぜ」を使用しなくても、この問答推論は成立します。したがって、「なぜ出来事pが生じたのか?」という問いや疑問詞「なぜ」は、他の表現の意味に変化を与えず、保存拡大的です。

行為の理由の「なぜ」、主張の根拠の「なぜ」についても同様の仕方で説明できるでしょう。

以上が、<論理的語彙と疑問表現が、保存拡大性をもつ>ということの説明です。

これは重要な論点ですので、次回は、以上の説明で十分であるかどうか、もう少し考えたいと思います。

26 疑問表現の導入規則と除去規則と保存拡大性 (20210824)

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まず、疑問詞「どれ」について説明します。

前に(19回)でのべた疑問詞「どれ」の導入規則と除去規則は、次のものでした。

  「どれ」の導入規則:「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

  「どれ」の除去規則:「どれがFですか?」、Γ┣ 「aはFです」

この除去規則は、前提が問いで始まり、結論がその問いの答えとなっているので問答推論であり、問答推論における「どれ」の除去規則になっています。

 しかし、導入規則については修正が必要です。導入規則は、推論の前提に問いがありませんので、問答推論になっていません。そこで、その問いを解決するために、結論の問いを立てる必要があるような問いを、前提の冒頭に追加すると例えば次のようになります。

  ・「FでありかつGであるものがここにありますか?」「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

  ・「Fであるものがあるのなら、それはGだろうか?」「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

冒頭に追加される問い(暗黙的な問いだが省略されていたと思われる問い)は、この二つの例のように多様です。

 一般に、問答推論の結論が問いになるというのは、つぎのような場合です。

  Q2、Γ┣Q1  

この問答推論は、Q2を解くために、Γという条件下では、Q1の答えを求めることが必要である、あるいは有用である、という関係を表示しています。このような場合、Q1の答えA1をもちいてQ2の答えを得ることが可能になるということです。したがって、A1が得られたならば、つぎのような問答推論が成立します。

  Q2、Γ、A1、⊿┣A2 (Γ、⊿は平叙文の列を表示し、A2はQ2の答えを表示する)

通常の認識の順序からすると、問いQ2を立ててから、Q1を立てることになりますが、Q1を解決することは、Q2の解決の役に立つだけでなく、他の多くの問いの解決にも役立つことが可能です。したがって、「どれ」の導入規則の場合、冒頭に追加すべき問いを、(緩やかな仕方ですら)一つの形に限定することはできません。

 ここでは仮に、次の導入規則と除去規則を考えてみます。

  ・「Fであるものは、ここにいくつありますか?」「Fであるものが存在する」┣「どれがFですか?」

  ・「どれがFですか?」、Γ┣ 「aとbがFです」

これらを連続適用すると「どれがFですか?」は除去され、次の推論になります。

  「Fであるものは、ここにいくつありますか?」「Fであるものが存在する」、Γ┣ 「aとbがFです」

しかし、これは問答推論の条件を満たしていません。なぜなら、前提にある問いと結論が、問いと答えの関係になっていないからです。この結論「aとbがFです」は、当初の問い「Fであるものは、ここにいくつありますか?」に答えるためのステップとして求められたものです。したがって、この後のプロセスとしては、この結論「aとbがFです」を前提に加えて、次の問答推論が行われるでしょう。

  「Fであるものは、ここにいくつありますか?」「Fであるものが存在する」、Γ、「aとbがFです」┣「Fであるものは、ここに二つあります」

 この問答推論では、「どれがFですか」という問いの答えが結論になっています。そしてこの問答推論は、もし「aとbがFです」という前提が与えられたならば、もはや「どれがFですか?」という問いを使用しなくても成立します(「aとbがFです」という前提は、「どれがFですか?」という問いを相関質問としなくても、「aとbがFですか?」や「どれとbがFですか?」や「aとどれがFですか?」や「aとbは何ですか?」などを相関質問に取ることも可能です)。従って疑問詞「どれ」は保存拡大的です。

 疑問詞「だれ」「どこ」「いつ」についても同じように説明出来るでしょう。

 決定疑問文という疑問の形式についての、同じように保存拡大性を説明出来ると考えます(ここではその説明を省略します)。

前に(19回)に疑問表現の導入規則と除去規則を説明したときに、取り上げていなかった疑問詞「何」と「なぜ」について次に説明したいと思います。

25「¬」の保存拡大性について (20210822)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

最後に「¬」を検討しましょう。

  ¬の導入規則:p→⊥┣ ¬p 

  ¬の除去規則:¬¬p┣ p

(の除去規則は直観主義論理では成立しないので、ここでは古典論理で考えます。)

これらは、それぞれ、次のようになるでしょう。

  ¬の導入規則:Q、p→⊥┣ ¬p 

  ¬の除去規則:Q、¬¬p┣ p

Qの具体例としては、次が考えられます。

  ¬の導入規則:?(p)、p→⊥┣ ¬p 

  ¬の除去規則:?(p)、¬¬p┣ p

¬pの相関質問は、場合によっては、?(¬p)という否定疑問文の発話であるかもしれませんが、しかし?(p)という問いの答えには、┣pである場合と┣¬pである場合があるので、?(p)が相関質問になる場合の方が多いでしょう。

 ところで、¬の導入規則と除去規則を連続して適用するにはどうしたらよいのでしょうか。それがうまく考えられません。ベルナップもダメットもブランダムも、論理結合子の保存拡大性を説明するときに、一般的に語るだけで、全ての論理結合子についての網羅的個別的に説明しているわけではないので、「¬」の保存拡大性をどのように証明できると考えていたのか、不明です。

それが分かれば、問答論理での「¬」の保存拡大性の証明に応用できるとおもうのですが、残念です。

 あるいは、「¬」については、

  ¬p=df p→⊥

という定義を用いて説明し、その保存拡大性は、「→」の保存拡大性から証明できると考えていたのかもしれません。そこで、私たちも問答推論における「¬」の保存拡大性を、問答推論における「→」の保存拡大性にもとづいて証明できると考えることにします。

残る課題は、疑問表現の導入規則と除去規則と保存拡大性の説明です。