61 実質的暗黙的問答か形式的暗黙的問答か (20230626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回推論の成立順序についてつぎのように述べました。

<実質的暗黙的推論→実質的明示的推論→形式的明示的推論→形式的暗黙的推論

この最後の形式的暗黙的推論とは、形式的推論であるけれども、論理的語彙をもちいて完全に推論関係を明示化できていないという推論です。例えば、次のような省略三段論法がそれになります。

   「雨が降るならば、道路が濡れる。」

これを省略三段論法として理解するときには、次の()の中の前提が省略されていると考えます。

   「雨が降る。(雨が降れば、雨が当たるところは濡れる。道路には雨が当たる。)ゆえに

道路が濡れる」

ブランダムは、「雨が降るならば、道路が濡れる」を省略三段論法ではなく、実質的推論(私の分類では、実質的明示的推論)だと考えます。この違いについて、次のように言います。両略三段論法は、形式的明示的推論の前提のいくつかが省略されているものですが、実質的推論には、そのような省略はありません。

 では、ブランダムはなぜ実質的推論の存在を主張するのでしょうか。もし論理的語彙の意味が、その使用法であり、論理的語彙の意味から使用が決定するのではなく、論理的語彙の使用法から、その意味が決定されるのだとすると、論理的語彙の最初の使用は、論理的語彙の意味によって正当化されるのではないことになります。つまり論理的語彙の使用は、少なくとも当初は、形式的な使用ではありません。その使用は、実質的推論となります。

 同じことが、疑問表現にも言えるはずです。そこで、問答は少なくとも当初は、実質的問答であるはずです。明示的問答は少なくとも当初は、明示的実質的問答であるはずです。

第52回から論じてきたことは、<論理や意味や発話行為が問答に基づくだろう>また<論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾を問答論的矛盾から説明できるだろう>という予測です。

これらは、実質的問答(つまり、「問答関係の正しさが、その問と答えの概念内容を決定するような種類の問答」)のアイデアに基づいていると言えそうです。

 では、「私たちは、どうして問答関係の正しさを理解できるのでしょうか」あるいは「わたしたちは、どうして問答ができるのでしょうか」

58 疑問表現を用いない暗黙的問答について (20230604)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前々回に、論理的語彙を使用せすに行われる推論を暗黙的推論と呼びましたが、それと同じように、疑問表現をもちいなくても問うことや問答が行われることがあり、それを「暗黙的問い」や「暗黙的問答」と呼びたいと思います。例えば、

  「これは」「リンゴです」

なにかを指さして「これは」といえば、相手は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの問いとして理解し、「リンゴです」とか「100円です」とか答えるでしょう。このとき、「これは」は「これは何ですか」「これはいくらですか」などの省略形である場合もあるでしょう。

しかし「なに」という語(の使用法)を知らない場合にも、「これは」で何かを求めていると理解できる必要があるのではないでしょうか。もしそれが理解できないとすると、「何」という語の使用法を学習することや教えることの説明がかなり難しいでしょう。

 言語を持つ以前の人間や他の動物は、探索行動をします。例えば、エサを探します。言語化すれば、「これは食べられるだろうか」とか「これはなにだろうか」などの問で表現できる探索行動をしていると思われます。「これ」や「リンゴ」などの語を取得すれば、それらをもちいて問うことができるでしょう。「これ」や「リンゴ」などの語を学習するためにも、探索が必要です。そこでは語の使用方法を確認しようとする問答が必要になるはずです。

 ところで、すでに疑問表現を習得している私たちも、このような暗黙的な問答を行っているのではないでしょうか。それを次に考えたいと思います。

57 保存拡大性の定義の修正 (20230528)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 私には、tonkで明示化できるような暗黙的な推論は成立していないように思われます。しかし、それを証明することも難しように思われます。

そこで、<暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまう>という懸念を回避するために、保存拡大性の定義をつぎのように修正したいとおもいます。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった明示的推論が正しくなることはなく、正しかった明示的推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の明示的推論関係が保存される>としたいと思います。

このようにすれば、tonkのような論理結合子を排除できます。

56 暗黙的推論について (20230527)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#暗黙的推論(implicit inference)

論理的語彙とは、推論関係を明示化するための語彙ですが、推論は、論理的語彙がなくても可能です。例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき、私たちは暗黙的に推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。私たちは、暗黙的に行っている推論を明示化するために、論理的語彙を使用するのです。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではない」と言えます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的表現「ない」「ので」を使用しています。暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要なのです。

#論理的語彙の保存拡大性

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

N.BelnapやM.Dummettがこのような論理的語彙の保存拡大性を考えたとき、彼らは暗黙的推論を想定していなかっただろうと思います。私も、『問答の言語哲学』では、このような暗黙的推論を考えていませんでした。

#暗黙的推論を認めるとき、論理的語彙の保存拡大性は変化するのか?

 論理的語彙によって明示化される明示的推論は、論理的語彙を用いないでも暗黙的に成立している暗黙的推論であるとすると、論理的語彙によって可能になるすべての推論は、論理的語彙を除去規則によって除去しなくても、論理的語彙を導入する前から、暗黙的推論として成立していたことになります。したがって暗黙的推論をこのようなものとして想定するとき、論理的語彙の保存拡大性は、自明なこととして成立します。

 ところでベルナップが論理結合子が「保存拡大性」を持つべきだと提案したのは、次の「tonk」のような不適切な論理結合子を排除するためでした。これは、次のような導入規則と除去規則を持つ論理結合子です。

  p┣ptonk r  (導入規則)

      ptonk r┣ p  (除去規則)

    ptonk r┣ r  (除去規則)

上記のような仕方で暗黙的推論を認めると、「tonk」のような不適切な論理的語彙もまた保存拡大的であることになってしまいます。

 この問題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。

55 論理的語彙の保存拡大性:再考 (20230521)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回検討した批判を、「疑問表現の保存拡大性」に基づいて説明すると、それは次のような批判だと思われます。<疑問表現が保存拡大的であるとしたら、その使用によって、その他の推論関係を変えないはずである。したがって、その使用後に両立不可能な関係が成立しているのだとすると、その使用前にも両立不可能な関係が成立していたはずである。したがって、同一の問いに対するある二つの答えが両立不可能であるとしたら、それの二つの主張は、同一の問いで問われる前から両立不可能であったと思われる。>

この批判を検討するために、疑問表現と論理的語彙の「保存拡大性」について考察したいと思います(これについては、『問答の言語哲学』で論じましたが、ここではもう少し議論を深められると思います)。今回はまず論理的語彙の保存拡大性について考察します。

論理的語彙の「保存拡大性」とは、<論理的語彙(論理結合子と量化子。このほかに何を含めるかは論争の余地があります)を(導入規則によって)導入して、直ちに(除去規則によって)除去するとき、論理的語彙の導入と除去の前に、正しくなかった推論が正しくなることはなく、正しかった推論が正しくなくなることはない、つまり、以前の推論関係が保存される>ということです。

ゲンツェンは、論理結合子の使用法をそれの導入規則と除去規則で説明しました。しかし、どのような導入規則と除去規則を明示すれば、どのような論理結合子を設定してもよいとすることはできません。そこでBelnapは、上記の「保存拡大性」を必要条件として提案しました。

論理結合子の導入規則(I)と除去規則(E)は、次の通りです。

ところで、私たちは、論理的語彙を使用する前にも、推論を行っています。それを「暗黙的推論」と呼ぶことにします。私たちは、論理的語彙を導入することによって、暗黙的推論を明示化するのです。これによって、命題と命題の論理関係が明示化されます。

例えば、「これはリンゴです」から「これは果物です」と言うことができます。このとき私たちは論理的語彙を使用しませんが、暗黙的推論を行っています。その推論を明示化すると「もしこれがリンゴであるなら、これは果物です」ということになります。ここでは論理的語彙「もし…ならば、…」を使用しています。つまり、暗黙的に行っている推論を明示化するには、論理的語彙が必要です。もう一つ例を挙げましょう。「これはリンゴです」から「これはナシではありません」と言うことができます。このときも私たちは暗黙的に推論を行っており、その推論を明示化すると、「これはリンゴであり、リンゴはナシではないので、これはナシではない」ということになります。ここでは、論理的語彙「ない」「ので」を使用しています。私たちが暗黙的に行っている推論を明示化するには、このような論理的語彙が必要です。ブランダムは、論理的語彙のこの働きを「論理的語彙の表現的役割」(MIE110,231,AR57,68)とよびます。(これらの語彙は、歴史的に当初は論理的語彙ではなかっただろうとおもいますが、しだいに論理関係を明示化するという役割が明確になってきたのだろうと思います。)

この「論理的語彙の表現的役割」(暗黙的推論が論理的語彙によって明示的推論になること)を認めることは、「論理的語彙の保存拡大性」とどう関係するでしょうか。それを次に考えます。

54 論理的関係の明示化と明示化以前の関係 (20230516)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回、「両立不可能性」や「帰結」の関係は、同一の問いに対する二つの答えの関係として成立することを説明し、それに対して次のような批判が予測できることを述べました。

<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

今回はこの批判に答えたいと思います。同一の問いをもつ二つの問答によって、二つの命題の両立不可能性が明示化されますが、この批判がいうように、その両立不可能性は問答の前にも暗黙的に成立しているのでしょうか。

もし<命題の概念関係が、問答とは独立に成立しており、問答が命題の概念関係を変えない>とすると、この批判が言うように問答の前にも両立不可能性が成立していることになるでしょう。

しかし、<命題の意味は相関質問との関係において成立する>とすると、命題の概念関係もまた相関質問との関係において成立し、それゆえに命題の概念関係は問答とは独立に成立していないことになります。私は、この立場を取りたいと思います。

しかし、この場合、<上記の問答の前には両立不可能性は成立していない>ということではありません。現実に問答が行われていないときも、もし問答③の問いが問われたならば、その答えが答えられるだろう、という反事実的条件法は成立しているだろうと考えます。この意味で、問答関係が暗黙的には成立していると考えます。このように考えるならば、両立不可能性も暗黙的に成立していることになります。だだし、それは問答とは独立に成立しているのではありません。両立不可能性を明示化する問答が暗黙的に成立しているのです。

 上記の批判は、「疑問表現の保存拡大性」とも関係していますので、次回に、疑問表現と論理的語彙の保存拡大性について考察して、その後この批判について別の角度から考察したいと思います。

53 推論法則を問答論的矛盾から証明する(20230510)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(焦点位置を最初は、下線で表示していたのですが、それが反映されないので、[ ]Fで表示しなおしました。)

(更新が遅れてすみません。拙著の執筆のために、他の論点をいろいろ考えているうちに、ここでの話になかなか戻ってくれなくなってしまいました。科研の実績報告書の締め切りとか、GPT4のことを考えたりとか、もありました。)

 前回は、4種類の矛盾を、通常は、論理的矛盾を基礎に据えて、それをもとに意味論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに語用論的矛盾を説明し、さらにそれらをもとに問答論的矛盾刷ることが想定されるが、逆に、問答論的矛盾を基礎にして、そこから語用論的矛盾、意味論的矛盾、論理的矛盾を説明することもできると述べました。

この後者の説明順序を採用するとき、問答論的矛盾や問答規則によって、語用論的規則や意味論的規則や論理的規則を説明することになるだろうという予測を述べました。この予測を具体的に証明することがここでの課題です。

この課題には、『問答の言語哲学』第四章ですでに少し取り組みはじめていました。基本的な論理法則である同一律や矛盾律の正しさは、その正しさを問う問いに、否定的に答えることが問答論矛盾になる、ということから背理法によって説明できます。ただしこの論法は古典論理を前提するので、限界があります。(これについて『問答の言語哲学』第四章で論じました)。

そこで少し違ったアプローチで、この課題に取り組んでみたいと思います。(ブランダムが推論関係の基礎と考えていた)「両立不可能性」と「帰結」について、問答関係の観点から、説明を試みたいと思います。

 まず両立不可能性について。コリングウッドは、二つの主張が矛盾することは、それらが同一の問いに対する答えである場合に成り立つと考えました。その根拠は、<命題の意味は、問いに対する答として成立する>ということと、<同一の文でも相関質問が異なれば意味が異なる>ということにあります。二つの主張が同一の問いに対する答である場合に、両立不可能性が成立するのです。

 これをもう少し具体的に説明します。命題は、問いに対する答えとしてのみ意味をもつ、とすると、問答のセットが意味を持つことになります。それは、焦点付き命題です。もし二つの主張が同一の問いに対する答としてのみ矛盾するとすれば、次の二つの答えは矛盾しません。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

②「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴでない]F

この二つの答えが矛盾すると考えるとき、私たちは次のように考えています。

①「[どれ]Fがリンゴですか?」「[これ]Fがリンゴである。」

という問答の答えから改めて次の問いを立て、次の答えを得ます。

  ③「これは[何]Fですか?」「これは[リンゴ]Fです」

こうすると、③は、上の問答セット②の問いと同じであり、③の答えと②の答えは矛盾します。文の発話の焦点は、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうとき、焦点位置を変更できます。

 (「矛盾」と「両立不可能性」は厳密には異なります。pとrが矛盾するとは、pとrの真理値は常に逆になる、ということです。それに対してpとrが両立不可能であるとは、pとrが共に真となることはあり得なませんが、pとrが共に偽であることはありえます。コリングウッドは「矛盾」についてこのことを語っているのですが、「両立不可能性」についても同じことが成り立つと思います。)

次に、「帰結」について。(コリンウッドは帰結についてはこのように述べていませんが)私たちは、<ある命題が別のある命題から帰結するということが成り立つのは、それらの命題が同一の問いに対する答である場合である>と言えると思います。それを具体的に説明しましょう。

例えば、「これは銅である」から「これは電導体である」が帰結します。今仮にこの二つの発話を次の問答によって得たとしましょう。

   ④「これは[何]Fですか」「これは[銅]Fである。」

⑤「[どれ]Fが電導体ですか」「[これ]Fが電導体である」

この場合には、④の答えから⑤の答えが帰結するようには見えません。そこで、⑤の問答に続いて次の問答をしするとしましょう。

   ⑥「これは[何]Fですか」「これは[電導体]Fである」

このとき、この⑥の答えは、④の答えから帰結するといえます。上記の場合と同様に、文の発話の焦点位置については、このように別の問いを立てその答えとして同じ文の発話をおこなうことによって、焦点位置を変更できます。このようにして焦点位置を揃えるとき、二つの命題は「帰結」関係になりえます。

(ここでの「帰結」関係は、論理的帰結関係ないし意味論的帰結関係であり、因果的帰結関係ではありません。)

ここで或いは次のような批判があるかもしれません。<二つの命題の「両立不可能性」や「帰結」の関係が明示化されるためには、同一の問いに対する答えであることが必要であるけれども、それらが異なる問いの答えになっているときにも、「両立不可能性」や「帰結」の関係は暗黙的に成立しているのではないか。> 

この批判について、次に考えたいと思います。

52 4種類の矛盾の説明順序を逆転させる (20230501)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#4種類の矛盾の説明の順序

①構文論的矛盾(論理的矛盾)

②意味論的矛盾

③語用論的矛盾

④問答論的矛盾

これらは、この順番で説明されることが多いでしょう(拙著『問答の言語哲学』第4章でも、この順序で説明しました)。しかし、この説明の順番を逆にするほうが適切であるかもしれない。

まず、<③語用論的矛盾は ④問答論的矛盾から説明できます。>

語用論的矛盾は、命題内容と発語内行為の矛盾から生じるが、命題内容は問いへの答えとして成立する。他方で、発語内行為も亦、質問への返答として成立する。(この二点については、『問答の言語哲学』で論じました。)したがって、語用論的矛盾は、<相関質問への答えの命題内容>と<相関質問への返答としての発語内行為>の矛盾である。語用論的矛盾は、相関質問への答えの命題内容と、相関質問への返答の発語内行為の矛盾です。返答の発語内行為は、質問において既に指定されているので、語用論的矛盾は、発話の命題内容が、相関質問の想定と矛盾するということです。このように理解するとき、<すべての語用論的矛盾は、問答論的矛盾の一種である>と言えます。

次に、<①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。>

推論規則やそれに基づく論理的推論は、おそらくブランダムがMaking It Explicit、やArticulating Reason (『推論主義序説』)で主張するように、実質推論の一種として説明できるでしょう(これについても『問答の言語哲学』で論じました)。したがって、①論理的矛盾は、②意味論的矛盾の一種として説明できます。

さらに最後に、<②意味論的矛盾は、③語用論的矛盾の一種として説明できるのではないでしょうか>。

「わたしは存在しない」は語用論的矛盾の一例です。こでは、<話し手が主張する>という発語内行為と、<話し手が存在しない>という命題行為(命題内容を構成する)が矛盾します。他方、「この赤リンゴは青い」は、意味論的に矛盾しています。この命題から、「このリンゴは赤い。かつこのリンゴは青い。」を導出できますが、これが矛盾するのは、「赤い」と「青い」という二つの述語を一つの対象に述語づけることができないからです。より正確にいうならば、「このリンゴは赤い」と「このリンゴは青い」が同一の問いに対する答だからです。同一の問いに対するこの二つのコミットメントが両立不可能だからです。

「この赤いリンゴは青いですか」に「それは青いです」と答えることは、問いの前提に矛盾します。つまり、この問いは、「この赤いリンゴ」が指示する対象が存在することを前提していますが、答えはその前提を否定しているからです。これは、問答論的矛盾です。また他方で、意味論的矛盾は語用論的矛盾の一種だともいえます。答えが、問いに対する答えとなるためには、問いの前提を受容している必要がありますが、問いに答えるという発話行為は、問いの前提を受容することを含意しているのに、答えの命題内容はそれを否定しているからです。

もし、発話の意味や発語内行為が、問答関係において成立するのだとすると、これらの矛盾は、問答論的矛盾から説明する方が適切であるかもしれません。

もし問答論的矛盾から論理的矛盾が説明することが適切であるならば、論理法則もまた問答論的矛盾から説明することが適切であるかもしれません。次回は、それを試みたいと思います。

51 3つの問題の同型性  (20220913)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。

知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。

・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)

・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)

・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)

そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。

・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること

・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること

・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること

私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。

「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」

「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」

次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」

「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」

「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」

このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。

このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。

ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。

「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)

私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。

たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。

50 規約主義の問題に答える  (20220907)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前回述べた第一の問題の解決について、補足しておきます。

前回は、第一の問題「われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである」を、<前提がその結論を導くことを可能にしているのは、問答関係である>と考えて、第一の問題への解決と考えました。

しかし、デイヴィドソンが考えていたのは、もっと単純なこと、つまり<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則である>ということを、第一の問題の解決と考えていたのかもしれません。

この二つの解釈を合わせたものとして、第一の問題を理解するときには、<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則と問答関係である>と答えることで解決できます。

さて、第二の問題は、<推論が推論規則の適用によって可能になるとき、さらにその適用の規則が求められ、その場合、適用の規則の適用の規則の適用の規則の … というように無限に反復してしまい、推論の正当化ができなくなる>という問題です。これは「規約主義のパラドクス」と呼ばれているものです。(これを指摘していたのは、クワインの論文 ’Truth by Convention’ (1936)であり、飯田隆の『言語哲学大全II』にこの論文の紹介があります。)

たとえば、<pとp→rからrを導出する>推論は、∀x∀y((x∧(x→y))→y)という推論規則に基づいていることになります[p、rを命題定項とし、xとyを命題変数とします]。そしてさらに、<<pとp→rと∀x∀y((x∧(x→y))→y)からrを導出する>推論は、

∀s∀t(s∧s→t∧∀x∀y((x∧(x→y))→y))→tという推論規則に基づいています[s, t, x, yは命題変数とします]、というように無限に反復します。

この反復を避けるためには、pとp→rからrを導出するときに、「pとp→rからrが導出できますか」という問いに「はい、rを導出できます」と答える、という問答が行われていると考えることができます。この答えは、次のように正当化できます。もし「いいえ、rを導出できません」と答えるならば、pからrは導出できないということになり、それはp→rという前提を認めること矛盾します。したがって、この矛盾を避けるためには、「はい、rを導出できます」と答えることが必要になります。こうして「はい、rを導出できます」と答えることを正当化できます。規約主義のパラドクスは、推論「p、p→r┣r」を次の問答推論としてとらえ返すことによって、回避できるのではないでしょうか。

  Q「pとp→rからrが導出できますか」、p、p→r┣r

<規約主義のパラドクスを、推論を問答推論としてとらえ返すことによって解決する>ということが、ここでの提案です。

 

デイヴィドソンは、以上の3つの問題(知覚、行為、推論の説明の問題)が同じタイプの属する問題だと考えています。その点を次に確認したいと思います。