13 国際司法裁判所について (20220710)

[カテゴリー:平和のために]

前回触れた「世界全体」は、世界のすべての人が参加してつくる世界共和国になるか、あるいは、すべての国家が参加して作る国家連合体のどちらかになるでしょう。国家連合体を作り、次第に国家の主権の制約を進めて、最終的に世界共和国をつくるというのがよいかもしれません(ここにも議論すべきことがありますが、話の拡散を避けるために今は論じません。)

とりあえず、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。

ところで、現在の国連の中には、すでに国際司法裁判所があります。

(以下、Wikipediaの「国際司法裁判所」の項目からの引用)
「国際司法裁判所規程
38条1項は、「裁判所は、付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務とし、次のものを適用する」と規定する。すなわち、ICJが紛争の平和的解決のために適用するのは国際法である。

そして適用されるものとして、同条同項には以下が列挙されている。

・一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

すなわち条約慣習法法の一般原則に基づき裁判がなされ、そしてそれらを明らかにするために判例学説が援用される。

また同条第2項では、当事国の合意がある場合には、「衡平と善 (ex aequo et bono)」に基づき裁判することができると規定している[20]。この場合の「衡平と善」とは、「法に反する衡平」(Equity contra legem) のことである。英米法のエクィティと同じものと考えて良い。 」

しかし、この裁判での裁判官の判断は、(カントの定義に従うならば)理性の公的使用ではなく、私的使用です。ただし、利害当事者による理性の私的使用ではありません。

 これはどのようなものになるのでしょうか?

12戦争によらない争いの解決方法 (20220709)

[カテゴリー:平和のために]

人を殺してはいけない、と言えるならば、人を殺すことによる争いの解決は避けるべきだといえます。戦争は人を殺すことですから、戦争による争いの解決は避けるべきです。

では、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、どうすべきでしょうか。

ある国の内部で、二つの集団の利害が対立し、話し合いで解決しないとき、彼/彼女らは、裁判で争うことができます。それは暴力による解決を避けるための方策です。ただし、そのためには、その国の人々が、その裁判制度を承認していなければなりません。もし、その裁判制度を認めず、判決を受け入れない人が、判決に従わない場合には、その行為は国家に対する犯罪になり、国家によって裁かれることになります。

同様の制度を、世界全体で作れば次のようになるでしょう。

<国家間の争いが話し合いで解決しない場合には、国際司法裁判所で争い、当事国がその判決を引受けるならば、戦争による争いの解決を避けることができます。もし、その国際的な裁判制度を認めず、判決を受け入れない国が、判決に従わない場合には、その行為は世界全体に対する犯罪になり、世界全体によって裁かれることになります。>

では、この「世界全体」は、どのようなものになるでしょうか。

11別の側面から理性の公的使用と私的使用の区別について(20220708)

[カテゴリー:平和のために]

理性は推論の能力であり、公的使用と私的使用の区別は、推論の区別であることを前の9回と10回に説明しました。その推論の区別では、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別が前提となっていること、そしてそれらの区別については再検討・再定義が必要であることを指摘し、とりあえず真理の区別の考察に向かうことにしました。これについては、カテゴリー「問答の観点からの真理」で行うことにしました。

今回は、別の側面から、理性の公的使用と私的使用の区別について考えたいとおもいます(本来は、この区別の再定義が終わってからすべき議論かもしれません。)

カントは、次のように述べています。

「自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩は格別妨げられるものではないと。」(たぶん、カント『啓蒙とは何か』岩波文庫、p. 10。今手元に本がなく確認できないので間違っているかもしれません。)

ここから言えることは、<公的使用は常に私的使用に対して優先されなければならない>、<公的使用では決定できない場合に限って、私的使用が行われる>ということです。したがって、<「自国第一」に考えてよいことは、理性の公的使用では決定できないことに限られる>ということです。

二つの国の間に、利害の対立があるとき、それぞれの国民が自国第一で考えたら戦争になる可能性があります。しかし、それぞれの国民である人々が、それぞれの国民としてではなく、世界市民として考える時には、その利害の対立について、それぞれの国民に限らず、すべての人が自由に参加できる、自由な理性的な議論(すべての前提を自由に理性的に吟味する議論)を行うことになるでしょう。そのとき、理性的な議論だけでは決定できない問題に行き当たる時(つまり公的使用では答えられない問題に行き当たる時)は、その決定の利害当事者たちが協議して決定する必要があるでしょう。なぜなら、その決定に責任を負えるのは、利害当事者だけだからです。たとえば、領土問題の場合、どのように国境線を引くかは、利害当事者の協議に任せるしかない部分があるかもしれません。そのような利害当事者の協議で合意ができないときは、どうしたらよいでしょうか。「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合にどうすべきか」という問題は、利害当事者だけの問題でなく、理性を持つすべての人の一般的な問題です。つまり、これは理性の公的使用によって解決すべき問題です。

これは、決して利害当事者間の戦争によって解決すべき問題ではありません。なぜでしょうか。

この問題に理性の公的使用は、どう答えればよいでしょうか。

これらを次に考えたいと思います。

01 真理の4つの区別 (20220705)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(これはupのテストです。)

#真理の4つの区別 分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的

真偽が、命題の性質ではなく、問答関係の性質であるとすれば、分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的、などの区別も、命題の区別ではなく、問答関係の区別です。

10 再定義をやり直します (20220703)

[カテゴリー:平和のために]

(四苦八苦しているうちに、ながらくupできずに、すみませんでした。)

前回の内容をもう一度まとめると次のようになります。

理性の私的使用も公的使用も、事実判断に関しては、同じものを前提します。異なるのは、価値判断に関する前提です。「公的使用」は、価値判断に関しては、普遍的に妥当するアプリオリな規範(カントでは道徳と法)だけを前提として推論しますが、「私的使用」は、それに加えて、アポステリオリな(経験的な)価値命題(世界を記述する個人や集団や共同体の利害、職務や集団や共同体の規範)もまた前提に加えて推論します。

したがって、理性の公的使用と私的使用の区別は、3つの区別(すなわち、事実判断と価値判断の区別、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別、分析判断と綜合判断の区別)を前提しています。この3つの区別は、現代哲学では批判されることが多いものです。したがって、理性の公的使用と私的使用の区別をもちいて、戦争を防ごうとするのならば、これらの区別を再考して、その再定義を与えることが必要になります。

以上が前回のまとめです。

分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリの区別の再定義については、[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]の33回~37回で試みました。そこで、この再定義をもちいて、理性の公的使用と私的使用の区別についての再定義を行うことができるだろう考えました。ただし、それにいざ取り掛かろうとすると、以前に提案した再定義について、いろいろと考察したいことが出てきました。

そこで、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別について、別のカテゴリーでしっかりと論じてから、このカテゴリーにもどって、理性の公的使用/私的使用の再定義を論じることにしたいとおもいます。

以前に「問答の観点からの真理論」という書庫(カテゴリー)を立ち上げていました。今回気づいたのですが、数年前にブログのアドレスの引っ越しをしたとき、その書庫(カテゴリー)が消えていたようです。そこで、「問答の観点からの真理論」を復活させて、できれば、かつての投稿も復活させて、真理についての論じることにします。

09 理性の公的使用と私的使用の区別の問題点 (20220624)

[カテゴリー:平和のために]

カントが考えていた「理性」の「公的使用」と「私的使用」の区別を、次のように考えたいとおもいます。

理性は推論の能力であり、「私的使用」とは、状況を記述する事実命題と、価値や規範を表現する経験的な価値命題(世界を記述する個人や集団や共同体の利害、職務や集団や共同体の規範)と普遍的に妥当するアプリオリな価値命題、を前提として推論することでだといえるでしょう。これにたいして、公的使用は、状況を記述する事実命題と、普遍的に妥当するアプリオリな規範(カントでは道徳と法)だけを前提として推論することだと言えるでしょう。

このように考える時、二つの理性使用(推論)は、事実命題に関しては同じものを受け入れています。これらは、カントならば、アプリオリな分析判断と綜合判断、アポステリオリ(経験的)な総合判断なに区別するでしょう。二つの理性使用(推論)が異なるのは、価値や規範に関する命題です。価値や規範に関わる命題に関しては、理性の公的使用は、アプリオリな分析判断と綜合判断だけを前提としてみとめますが、理性の私的使用は、これに加えてアポステリオリな総合判断も認めます。カントは、このようにめいじしているわけではありませんが、このような区別になるだろう思います。

このように理解するとき、理性の公的使用と私的使用の区別は、3つの区別(すなわち、事実判断と価値判断の区別、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別、分析判断と綜合判断の区別)を前提としています。ところが、この3つの区別は、現代哲学では、批判されることが多いものです。したがって、理性の公的使用と私的使用の区別をもちいて、戦争を防ごうとするのならば、これらの区別を再考して、その再定義を与えることが必要になります。

08 戦争を防ぐために、なぜ理性の公的使用が必要なのか? (20220622) 

[カテゴリー:平和のために]

昨日[カテゴリー:日々是哲学]で「39 戦争の時こそ理性の公的使用を! (20220621)」をupしました。そこでは、カントの『啓蒙とは何か』における「理性」の「公的な使用」と「私的な使用」の区別をもとに、「戦争を防ぐために何より必要なのは、理性のこのような「公的使用」ではないでしょうか。またいったん始まって、国民がナショナリズムに熱狂しているときに、何より必要なものも理性の「公的使用」ではないでしょうか。」と書きました。

しかしこれは説明不足でした。また議論しておくべきことがあると気づきましたので、それをこのカテゴリーで論じることにします。

まず「戦争を防ぐために、なぜ理性の公的使用が必要なのか?」を説明したいと思います。

「戦争を防ぐために、理性の公的使用が必要である」と考えるようになったきっかけは、舟場保之さんの論文「EUの正統性とそのポテンシャリティ--『ヨーロッパ憲法論』を中心に――」(永井彰、日暮雅夫、舟場保之編『批判的社会理論の今日的可能性』晃洋書房、2022、所収)を読んだことです。この論文で舟場さんは、EUの正統性を考える時に、ヨーロッパの市民の「個別国家の国民」としての判断と、「EUの市民」として判断の関係が問題となることを指摘し、この二つの判断の関係を、カントの言う理性の「私的使用」と「公的使用」の関係に結び付けて考えることを提案します。そのうえで「カントのよれば、啓蒙を実現するうえで理性の私的使用は制限されても問題ないが、「万事において理性を公的に使用する自由」は常に確保されていなければならない」(『批判的社会理論の今日的可能性』p.63)と言います。

これを読んで、この議論を、戦争をめぐる「ある国家の国民としての判断」と「世界市民としての判断」の関係に拡張すること思いついたのです。例えば、今回のウクライナ戦争について、ウクライナの人の「ウクライナ国民としての判断」と「世界市民として判断」には違いがあるかもしれないし、ロシアの人の「ロシア国民としての判断」と「世界市民としての判断」には違いがあるかもしれません。日本に住む人の「日本国民としての判断」と「世界市民として判断」にも違いがあるかもしれません。ここで、ある戦争を考える時、どの国の国民であるかによって、「国民としての判断」は大きく異なるでしょうが、「世界市民として判断」は、理性の公的使用として、同一でありうるということになります。しかも、ある国民としての「理性の私的使用」にたいして、世界市民としての「理性の公的使用」が優先するべきであり、公的使用においてどちらもでもよい事柄の場合に限って私的使用が認められるべきだ、ということになります。

戦争に関しても、ある国の「国民としての判断」よりも「世界市民としての判断」が優先されるべきである、ということになります。もしこれが原則として受け入れられるならば、戦争はおそらく生じないし、生じている戦争もまた速やかに収束するでしょう。

これは理想論だと言われるかもしれませんが、しかしこの原則を批判することは難しく、これは戦争反対の強力な論拠になるとおもいます。

以上が昨日のupについての補足説明です。

しかし、その後、この議論に問題があることに気づきました。それを次に説明します。

39 戦争の時こそ理性の公的使用を! (20220621) 

[カテゴリー:日々是哲学]

カントは『啓蒙とは何か』で、「理性」の使用を「公的な使用」と「私的な使用」に分けています。公職に就くものが職務上理性を使用すること、聖職者が説教すること、将校が上官の命令に従って行為すること、カントによれば、これらは理性の「私的な使用」です。これに対して、公衆を前にしての学者の理性使用は「公的な使用」です。そして、教区の聖職者が、学者として信条書の欠点についての吟味を公衆に伝えることや、上官の命令を受けた将校が学者として軍務における欠陥をしてきし、その指摘を公衆の判定に供することもまた、理性の「公的使用」になります。つまり、「一定の共同体において妥当する真理なり規範なりを前提している場合には、理性の「私的使用」となり、聖職者や将校であっても、共同体に受け入れられている真理や規範の妥当性を相対化して問い吟味する場合には、理性の「公的使用」となります。

戦争を防ぐために何より必要なのは、理性のこのような「公的使用」ではないでしょうか。また戦争が始まって、国民がナショナリズムに熱狂しているときに、何より必要なものも理性の「公的使用」ではないでしょうか。

81 オペラント行動の失敗から意識が発生する(空想的)物語  (20220619)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「どのようにして意識が発生するのか」という問いへの答えは、物語形式になるでしょう。その物語の証明ないし正当化が必要になりますが、とりあえず、意識の発生の「整合的な物語」(つまり現在の私の知識と矛盾しない範囲で、最も在りそうな物語、空想、妄想、推測、思弁の類)を作ってみたいとおもいます。

オペラント行動は、探索の一種です。探索の失敗から探索の意識が生じるだろうと推測します。

オペラント行動の失敗については、前に次のような場合に分類しました。

(1)弁別刺激の錯覚や誤解の場合

(2)行動の間違いの場合

(3)強化刺激の錯覚や誤解の場合

(4)弁別刺激と行動と強化刺激の三者の結合関係の誤解の場合

これらは、行動の失敗の原因の分類になります。一般的に行動の失敗の原因としては、事実の誤認(知覚の失敗)と行為能力の誤認が考えられますが、原因が何であれ、行動に失敗したときには、もしそれが意識的な行動であった場合には、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。オペラント行動の失敗もまた、上記のようにいろいろな原因によって生じるでしょうが、原因が何であれ、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。ただし、それはもともと意識をもつ主体の場合です。

前に、知覚が意識されるのは、探索に対する答えとしてであろうと言いました。行動が意識されるのも、探索に対する答えとしてであろうと思います。ただし、その場合に、その探索が意識されていることが必要です。意識的な探索の答えとして、知覚や行為(ないし行為内意図)が意識されるのだろうと思います。

では、探索が意識されるのは、どのような場合でしょうか。探索が意識されるのもまた、探索が失敗した時だろうと思います。前に、知覚の失敗によって、知覚を意識すると言いました。それは、知覚の失敗によって探索が失敗し、探索が意識的になるので、知覚の失敗が意識され、その結果知覚が知覚として意識されるのだろう、と推測します。また前に行動の失敗によって、行為内意図を意識することになるとどこかで述べたような気がします。行動の失敗によって、探索が失敗し、探索が意識的になることによって、行動の失敗が意識され、意図(行為内意図)が意識されるようになるのだろう、と推測します。

このように、意識の発生は探索の失敗、オペラント行動の失敗によると推測します。しかし、オペラント行動に失敗しても、鶏やネズミや猫や犬が、意識を持つようには見えません。もし鶏やネズミや猫や犬がオペラント行動に失敗しして、意識的になるのならば、失敗を何度が経験すれば、最初から意識的にオペラント行動や試行錯誤をするようになるでしょう。意識的に試行錯誤するとは、考えてから行動(試行)するということです。しかし、鶏やネズミや猫や犬は、(私には)試行の前に考えているように見えません。

意識をもたない動物がオペラント行動をするときに、試行錯誤するとき、それは意識なしの試行錯誤(意識なしの探索)です。つまり、不快な状況にある時それを変えようとして、動き回り、たまたまある行動の後に快適な状態になったとすると、その時のきっかけになった行動を行うようになるというのが、オペラント行動の始まりだろうとおもいます。

これに対して意識的に探索する動物が、試行錯誤するときには、おそらく目的を意識し、状況を意識的に知覚し、そこから可能な候補を一つ(場合によっては、複数)考えて、それを試行するでしょう。つまり実際に行動にとりかかる前に、一旦停止し、その後で行動を始めるのではないでしょうか。(それは、ちょうど突然の物音や光に静止し、その方を注視する「定位反射」に似ていると思います。下等動物では、定位反射の後に続くのは、別の反射行動でしょう。たとえば、外敵をみつけたなら逃げる、などです。)では、猫や犬は、ソーンダイクの試行錯誤の実験において、試行にとりかかる前に、「一旦停止」するでしょうか。ネットにある動画では、それが編集されているために、そのあたりがよくわかりません。

ただし、オペラント行動の失敗から意識を獲得する動物はいます。少なくとも人間はそうですし、マカクやチンパンジーもそうかもしません。猫やイヌも、可能性は低いですが、そうかもしれません。しかしオペラント行動をするが、意識を持たない動物がいます。例えば、鶏など。オペラント行動の失敗から意識的になるかどうかどうかを分けるのは、おそらく脳の構造の違いにあるのだろうとおもいます。では、意識を持つためにはどのような脳の構造が必要でしょうか。次回は、これについて(思弁的に)考えてみます。

80 試行錯誤とオペラント条件付け  (20220616)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動の失敗について考察中ですが、今回は、ソーンダイクの試行錯誤論への寄り道です。)

ソーンダイクの試行錯誤理論の実験で、檻に閉じ込められた犬が、檻から出るために、何をしたらよいのかわからないとき、まずいろいろ動きます。そのなかでたまたまレバーに前足がかかって、檻の扉があきます。この経験から、犬は、レバーを引いて、檻の扉を開けようとするようになります。そして、何度もするうちに、レバーの引き方が次第に上達して、より少ない試行と時間で扉を開けられるようになります。この過程で、レバーをひく行動に上達します。試行錯誤の中で、必要な行為や知覚の精緻化が生じています(この実験については、https://www.youtube.com/watch?v=y-g2OmRXb0gをご覧ください)。

(試行錯誤は、より原始的な生物が、刺激の方向性が解らないとき、よりよい状態を求めて、ランダムに動き回るという「動性(kinesis)」と似ています。そのとき、たまたまその行動がより快適な状態をもたらすこともあるでしょうが、そこから学習することはありません。学習する高等な動物は、その成功の経験の痕跡(記憶)をもとに、オペラント行動するようになったのでしょう。)

犬が檻から出ようとしていろいろ行動するのは、檻からでたいと欲求しているからであり、そのいろいろな行動は欲求を実現するための試行錯誤であり、探索だといえるでしょう。

つまり、試行錯誤(trial and error)は、失敗から学ぶ(learn by mistake)ということでしょうが、もちろん成功から学ぶことも含まれています。

スキナーのオペラント行動論は、ソーンダイクの試行錯誤論の影響を受けていると言われています。オペラント行動には、成功から学ぶ場合と、失敗から学ぶことの両方があります。つまり、オペラント行動もまた、失敗と成功という行動の結果から学ぶことです。

では、オペラント行動と試行錯誤は何が違うでしょうか。試行錯誤理論にかけているのは、行動のきっかけとなる弁別刺激への明示的な言及ではないかとおもいます。ソーンダイクのイヌの実験で、レバーを引くという行動が起きるまえには、檻の中に閉じ込められていることの知覚、レバーの知覚などがあります。この二つが弁別刺激になっていると考えることができます。

このように試行錯誤論には、弁別刺激への言及がないのですが、しかし他方で、オペラント行動論には、試行錯誤過程、つまり適切なオペラント行動の発見の過程への言及がありません。オペラント条件付けにおけるこの弁別刺激は、行為を誘発する刺激(条件反射における誘発刺激のようなもの)ではないとされます。しかし、弁別刺激が与えられた時(たとえば、檻に閉じ込められたことが解った時)に、試行錯誤したり、過去の行動の結果から学んだりするのは、ある刺激や状態を求めているからではないでしょう。つまり、弁別刺激とは別に、ある刺激や状態を求めているという条件がなければ、そのための探索をするということはありえません。それがなければ、試行錯誤も、オペラント行動も成立しません。確認するまでもないことかもしれませんが、試行錯誤もオペラント行動も探索です。

次回は、オペラント行動の失敗から意識が生じるという話に戻りたいと思います。