17 利害の衝突を解決するためのコミュニケーションの方法(How to communicate to resolve conflicts of interest)(20231026)

[カテゴリー:平和のために]

利害の衝突、思想の対立、を果たして話し合いで解決できるかについては、悲観的、懐疑的な非ともたくさんいると思いますが、少なくともそれは、話し合い以外のものでは解決できません。

では、どのような話し合いが有効でしょうか。相手を説得しようとするコミュニケーションは、おそらく有効ではなく、むしろ有害かもしれません。何よりも必要なことは、互いの利害の衝突や思想の対立を明確にすることでしょう。

 論争によって相手を説得することは、学問研究においてすら難しいことですが、ましてや政治においてはほぼ不可能なことだと思います。しかし、お互いの差異を明確にしようとする話し合いは多くの場合可能です(これが不可能な場合には、第三者を介する話し合いが必要になります)。

 差異を明確にするためのコミュニケーションもまたコミュニケーションであって、それが成立するには、「好意の原則」(デイヴィドソン)や「協調の原理」(グライス)に従うことが必要です。コミュニケーションを継続すれば、いずれ信頼関係も生まれるでしょう。

「ライバルと交流すれば、彼らを人間として扱うようになる。そうすれば、協力、交渉、そして信頼が可能になるのだ。」(ブライアン・ヘス、ヴァネッサ・ウッズ『ヒトは<家畜化>して進化した』藤原多加夫訳、白揚社、p. 29)

差異を明確にすることで可能になることは、最悪でどこまで譲歩すれば対立の解消になるのかをお互いが理解できるようになることです。それを出発点にして、互いにどこまで歩み寄れるかを交渉することが可能になります。

 たとえ戦争状態になっても、全体としての最悪の選択を避けるためには、対話を継続することが重要です。対話では、差異を明確にして、最悪の譲歩地点を確認し、すこしでもましな妥協点を交渉する。(今のところ、これ以上のことを思いつきません。動物は復讐しません。その点だけは動物を見習いたいです。)

16 感情的反応と二種類の合理的反応:イスラエルのガザ地区本格攻撃を目前にして(202301016)

Emotional reactions and two types of rational reactions: In the face of Israel's full-scale attack on the Gaza Strip

[カテゴリー:平和のために]

ガザ地区のハマスによるイスラエル攻撃に対して、イスラエルのネタニヤフ政府は大規模な報復攻撃をしようとしています。これについて内田樹さんが、YouTubeチャンネル「デモクラシー・タイムズ」で、感情の問題と合理的な対応を区別しなければならないと指摘しています。その通りだと思います。

家族や仲間を殺された人が復讐したいとおもう感情は人間にとってはある意味で自然なことです(動物は復讐しません)。しかし、それでは悲惨な復讐の連鎖はいつになっても止まりません。それを回避するには、双方にとっての長期的な利害を合理的に考える必要があります。しかし、この文脈での合理的な反応には二種類のものがあります。

一つは、「囚人のディレンマ」ゲームにおける合理的な反応です。「囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すというゲームです。

このゲームが成り立つには、二つの重要な条件があります。一つは、<囚人同士が互いにコミュニケーションできない>ということ、もう一つは、<二人の囚人がどちらも、自分の利益だけを最大にしようとしている>ということです。

この帰結を回避するには、この二つの条件を変えることが必要です(囚人のディレンマ・ゲームにおける配点を変更する、ということも、最悪の状態を避けるための一つの方法ですが、これは現実には難しいことがおおいので、触れません)。

私たちにできそうなことは、<当事者や関係者が相互にコミュニケーションすること>です。それができれば、最悪の事態を避けられるでしょう。もしコミュニケーションが十分にできるならば、他者の利益や全体の利益を考慮することが、結果として自己(目先の利益ではなく)長期的な利益を最大にすることになることがわかるでしょう。

他者の利益や全体の利益を考慮し、自己の長期的な利益を考慮するためには、合理的に考える必要があります。

合理的反応の一つは、他者とコミュニケーションせずに、自分の短期的な利益だけを、合理的に追及することです。合理的反応のもうひとつは、他者とコミュニケーションし、自己や他者や全体の利益を考え、自己の長期的な利益を合理的に追及するということです。

ホッブズが言ったように、人間は理性を持っているにも拘わらず争うのではなく、むしろ理性を持っているからこそ争うのです。理性的にふるまうことは重要ですが、それだけでは不十分です。少なくとも理性的なコミュニケーションが不可欠です。テロやヘイトスピーチは、コミュニケーションを壊してしまいます。

52 Transformerと人間の思考(Transformer and human thinking) (20231012)

[カテゴリー:日々是哲学]

Chat GPTのソフトTansformerは、次の語が何になるのかを計算しているだけであるのに、それが考えながら話しているように見える、ということが不思議だと言われることがあります。確かに、私たちが考えながら話すとき、「次の語は何になるのか」とは問うていません。しかし、私たちは、たいていは、事前に語る内容を心のなかにあいまいな形で考えていて、それを言葉にしていくのではなく、話しながら考えています。このような場合、話すことは、脳内で次の語を決定する作業の連続として生じているのではないでしょうか。そうすると、このとき私たちは、Transformer と同じく、次の語を計算しているだけです。もちろん私たちは、こうしてできた文を反省して、それを前提に推論することができます。しかし、この推論のプロセスも亦、次の語を計算することの連続として成立するのです。

 では、Chat GPTと人間の脳の違いはどこにあるのでしょうか。

51 会話の継続と問答(Continuation of conversation and questions and answers)(20231003)

[カテゴリー:日々是哲学]

ローティは、おそらく「会話の継続」を人類の最上の目的としていると思われます(今『哲学と自然の鏡』が手元にないので確認できません)。「会話の継続」は問答が成立するための超越論的条件であるので、「会話の継続」を目的として設定することは、問答論的必然性として超越論的に証明できるだろうと考えます。

 では発話の継起が「会話」ないし「会話の継続」になっているための条件は何でしょうか。その条件の一つは、発話の継起が、問答および問答の継起になっていることだと思います。問いとそれへの答えが一回行われるだけでなく、問答が継起しなければ、会話を継続できません。この問答の継起の仕方には、様々なパターンがあり、それを分析する必要があります。しかし他方で、前の問答とはまったく無関係な問答を始めたとしても、二人ないしそれ以上の会話者が同一人物であるならば、つまり会話の参加者が同一であるならば、そこで行われる問答の継起は「会話の継続」だといえます。「会話の継続」のためには、会話の内容の連続性(これも重要ですが)よりも、会話者の同一性の方がより重要だと思われます。例えば、わたしが突然会話のテーマを変えたとしても、相手はそのことに会話の含みを読み取るのです。発話の継起を会話の継続にするのは、会話者が発話の前提を共有していることによるのだと言えそうです。

ローティが「人類の会話」というとき、その参加者は人類ですが、何をもって「会話の継続」と言うのでしょうか。その会話参加者の中にAIが加わるようになるとき、「人類及びAIの会話の継続」が目的になるのかもしれません。

ところで、人類とAIは会話できるでしょうか。ここで気にしているのは、AIが思考できるかどうか、と言うことではありません。会話するためには前提の共有が必要です。しかし、人間の記憶能力には限界がありますが、AIの記憶能力には原理的な限界がありません。AIと人が会話するとき、AIは、人が話したことを記憶しているが、人はAIが話したことを記憶していない、と言うことがあり得ます。AIは人間の記憶能力を考慮して、前提として共有している知識を正確に理解することができるでしょうから、AIは人間と会話できるでしょう。しかし、それは対等な会話ではなくなりそうです。AIは人間を置いてきぼりにして、AI同士で勝手に会話を進めていくことになるかもしれません。

50 人権を正当化する二つ目の方法(The second way to justify human rights)(20230922)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回は、人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することだと説明しました。<より上位の目的>の例として、<キリスト教の神>と<資本主義>を挙げました。しかしこの方法は、<より上位の目的>を共有しない人には無効です。イスラム教徒はキリスト教の神を認めませんし、仏教徒や無神論者は、そもそも神をみとめません。社会の在り方として資本主義を認めない人も沢山います。

では、全ての人が共通して認める<より上位の目的>は、存在しないのでしょうか。たとえば、<人類の存続>を<より上位の目的>として設定することが可能かもしれません。それを実現するための手段として、人権尊重を主張することができるかもしれません。例えば、ローティのいう<人類の会話の継続>を<より上位の目的>とし、その実現のための手段として人権尊重を主張することは可能でしょう(ローティ自身が、人権についてこのような論じ方をするかどうかは、わかりません)。

しかし、<人類の存続>は、すべての人が共通して認める<より上位の目的>ではないかもしれません。動物の権利を主張する人や、輪廻転生を信じる仏教徒ならば、人類に限らない生命全体の存在を<より上位の目的>とするかもしれません。シンギュラリティーを超えた未来のAIによるポスト人類の知性やデジタル生命を<より上位の目的>とするようになるかもしれません。

権利は、何かをする自由であるので、人権を尊重するとは、自由を尊重するということでもあります。自由の尊重を、<より上位の目的を実現する手段>としてではなく、別の仕方で正当化できれば、それが人権のもう一つの正当化方法になると考えます。

人間が自由であることについては、カテゴリー[自由意志と問答](特に9回~12回あたり)で論じました。そこでの自由の論証は、「意図的行為」や「選択」という概念を前提とした超越論的論証でした。そこで論じたのは社会的というよりも道徳的な意味での自由の尊重です。しかし、もし自由が道徳的に尊重されるべきならば、それは社会においても尊重されるべきである、言い換えると人権は尊重されるべきである、と考えます。人権を正当化するこの方法は、超越論的論証、だと言えます。

人権を正当化する方法は、<より上位の目的を実現する手段>として正当化することと、<「意図的行為」や「選択」の超越論的条件>として正当化することの二つあります。多くの場合、人権の正当化は前者で行われますが、後者の方が有効ではないかと思います。なぜなら、共有できる<より上位の目的>の設定が難しいからです。

49 人権を正当化する二つの方法 (Two ways to justify human rights)(20230911)

[カテゴリー:日々是哲学]

人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することです。

人権概念は、歴史的には、キリスト教に由来するものです。ジョン・ロックは、『市民政府二論』で、人は、神がその目的を実現するための手段であるので、価値を持つと主張しました。ここでは、人権は、より上位の目的の実現のための手段として正当化されています。「より上位の目的」にあたるのが、「神が設定する目的」ということになります。(神を認める人が、このような仕方で人権を正当化するとは限りません。スピノザは、神は意志を持たないと考えましたので、スピノザならば、違った仕方で、人権を正当化するでしょう。もっともスピノザはキリスト教徒ではありません。)

資本主義社会は、契約による商品交換を基礎としています。そこでは、人間の労働力も商品の一つです。それは、(精神活動を含めて)労働力を商品とみなしますが、しかし他方で、人間はそれらの商品の売買契約の主体として尊重されます。したがって、資本主義社会では、人間は、商品の所有とその売買契約の主体としての権利を持ちます。ジョン・ロックは、所有権を人権の基本とみなしました。資本主義は、その契約社会を成り立たせるものとして、人権を正当化します。ここでも人権を<より上位の目的(資本主義社会の成立)の実現のための手段>として正当化します。

人権を正当化するもう一つの方法については、次回に書きます。

14 指示と自由 (reference and freedom) (20230904)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前の個所(11回から13回まで)では、<選択の不可避性が選択を可能にするということ>(ある種の制限が自由を可能にするということ)を説明してきました。

これと同様のメカニズムで、<指示の不可避性が、指示を可能にすること>が言えると思います。まずこれを説明します。「Xさんの車はどれですか」という問いに対して、指差し行為をともなって「あれです」という発話が行われたとしましょう。これは、典型的な指示行為です。

「あれです」がこの状況で語られたら、それは「Xさんの車はどれですか」という問いの答えであると、そこにいる人々(話し手、聞き手、観客)に予想するでしょう。そこにいる人々は、「あれです」は「Xさんの車」の指示対象を指示していると予想するでしょう。そのような状況で、「あれです」と発話することは、何らかの対象を指示することになります。そして、聞き手は、その状況で、「指差しの方向に存在して、<Xさんの車>と見なすのにもっとも適切な対象は何か」と自問して、「あれを、指示しているのだ」と自答することでしょう(もしそれができなければ、「どれですか?」と問い返すことでしょう。)

このような状況において「あれです」で、対象を指示することは不可避ですが、しかし同時に、指示が不可避な状況において、初めて指示が可能になるのです。ある発話で対象を指示していることが、可能になるのです。

これを一般化するとつぎのような定式になります。

「○○が不可避な状況において、初めて○○が可能になる」

この○○には、選択、自由な行為、指示、主張、コミットメント、約束、命令、宣言、などが入ります。これらは、すべて自由な行為です。

13 選択の問答論的必然性と自由のデフレ主義の関係は?(What is the relation between the necessity in question and answer and the deflationary liberty?) (20230820)

[カテゴリー:自由意志と問答]

これまで(08回から12回まで)論じてきたように、<選択は常に自由な選択であり、この自由な選択は、問答論的必然性によって生じる>としましょう。このような自由理解から、(07回に説明した)自由のデフレ主義が帰結するのでしょうか。

前々回と前回に述べたように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。この選択が、自然な欲求や無意識の欲望によって決定しているとしても、そのことは、この選択に対する責任を免除しません。この選択は自由に行われたのです。選択せざるを得ないことを意識していて、またどちらを選択するもことも可能であることを意識していたことが、この選択を自由な選択、選択の結果に責任を負うべき選択にします。

意識している選択や行為は、すべて自由な選択や自由な行為です。行為者因果を引き起こすような不思議な力が働いて、自由な選択や自由な行為が可能になるのではありません。自由な選択は選択可能性を意識したときに、不可避に成立するのです。このような自由は、デフレ的です。

前回最後の問い「私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか」について。

自由のインフレ主義は、選択や行為を、自由な選択や自由な行為にするものを、特別な能力や作用として理解します。たとえ自由が偏在するとしても、その場合には、その特別な能力や作用が偏在することを主張することになります。しかし、上記の自由理解では、選択や行為を自由な選択や行為にするものは、特別な能力や作用ではありません。あえて言えば、問答論的必然性ですが、これが問答が成立するための超越論的条件であり、何が特別な能力や作用ではありません。すべての問答が成立するための条件です。たしかに、問答は常に自由な問答であるので、問答の能力自体が特別な能力であると言えるかもしれません。例えば、もし<人間の探索や行為は自由であるが、人間以外の動物の探索や行為は自由ではない>と考えるならば、探索や行為を自由にするものは、特殊な能力や作用であることになります。しかし人間以外の動物の探索や行為は、見かけ上の探索や行為であって、探索や行為とは言えない物であると考えるならば、探索や行為自体が自由であり、不自由な探索や不自由な行為は存在しないことになります。次に「選択の不可避性」「問いの不可避性」とよく似たメカニズムである「指示の不可避性」や「伝達の不可避性」について見ておきたいと思います。

12 選択は常に自由に行われる (20230814)

[カテゴリー:自由意志と問答]

問答論的必然性とは、<問いQに対する答えAが問答論的矛盾になるとき、Qを問われたときには、「¬A」と答えることが必然的になる>ということです。これを選択問題に応用すると、次のようになります。

「今Aを行うか、行わないか、という選択が可能であるが、私はどちらかを選択するのだろうか」という問いに、「いいえ、わたしはどちらも選択しません」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになり、矛盾します。これに対して、「はい、私はどちらかを選択します」と答えるとき、私はAを行っていません。したがって、Aを行わないことを選択したことになります。この場合には、矛盾は生じません。つまり「はい、わたしはどちらかを選択します」と自答することが、問答論的に必然的です。

このように、「Aを行うか、行わないか」という選択を意識したときには、どちらかを選択せざるを得ません。このとき、その選択は自由に行われたのでしょうか。何らかの選択をすることは、問答論的に必然的です。しかし、どちらを選択するかは、問答論的に決定していません。この選択の結果に責任を負うことになるでしょう。つまり、その選択は自由に行われたのです。

ところで、何かを問うことは、常に何らかの選択を求めることだとすると、問いに答えることは、常に選択することであり、問いに答えるのは、常に自由に答えることです。さらに、問うこと自体も、ある問いを問うかどうかの選択の結果だとすると、あるいは、その問いを問うことを選択することだとすると、問うことは常に自由に問うことです。

ところで、私たちが問答する限り、選択する限り、自由であるとすれば、自由は偏在するのであり、自由のデフレ主義というよりも、自由のスーパーインフレ主義と呼ぶ方がよいのでしょうか。

10 自由と制限 (20230804)

[カテゴリー:自由意志と問答]

(upしたつもりだったのですが、できていなかったので、8月9日に11回目とあわせてupします。順番が逆になってしまいました。)

(更新が遅れてすみません。ようやく『フィヒテ研究』31号の原稿が仕上がり、送ることができました。この号からはネット掲載になる予定ですので、掲載されたら案内します。)

今回のフィヒテ研究の論文執筆に合わせて、08回から自由意志について、改めて考察しようとしました。

まず論じようとしたのは、<規則性、規範性、自由>という3つの概念の関係です。

まず規則性を、次の二種類に分けました。

事実としての規則性

規範としての規則性

規範は常に、規則性を持ち、規範性は規則性の一種だと考えます。

 次に規範性と自由の関係ですが、「…すべきである」という規範は、「…することができるし、…しないこともできる」ということを前提するので、規範は、自由を前提すると考えます。

 

 前回の最後の方で述べた問いは、「規範性は自由を前提するが、自由もまたある制限を前提するのではないか」ということでした。

規範概念は確かに自由を前提します。しかし、<Aすべきである>という規範性は、<Aすることもしないこともできる>という自由を前提します。ところが、<AすることもAしないこともできる>ということを意識するとき、私たちは、<Aするかしないか>を選択しなければならなくなります。他行為可能性を意識するとき、選択は不可避になります。もし自由の意識が他行為可能性の意識であるとすると、<Aをするかしないか>が自由であるとき、その選択は不可避です。

                       

(補足注:これに対しては、そのような状況では<Aするかしかないか>という選択があるのではなく、<Aするか、Bするか、どちらもしないか>という選択を設定することもできる、という反論があるということもできます。確かに、この状況で選択肢の設定の仕方が複数あることは事実です。しかし、自由であるためには、自由の意識が必要であり、自由を意識するためには、具体的選択肢を意識することが必要です。そして具体的選択肢を意識するとき、選択は不可避になります。)

以上の説明を、意識哲学的な語彙でなく、できるだけ意味論的語彙で表現すると次のようになります。「わたしは、いまここで、自由である」という判断は、「私は今ここで、Aしよう」というような具体的な事前意図において成立します。なぜなら、「私は今ここで、Aしよう」という事前意図は、「私は今ここで、Aすることができる」という可能性の判断を伴立するからです。そして、「私は今ここで、Aすることができる」という判断には、「私は今ここで、Aするかしないかを選択できる」という判断が伴立します。そしてこの判断からは、「私は今ここで、Aするかしないかを選択しなければならない」という判断が帰結します。

ところで、「私は今ここで、Aするかしないかを選択しなければならない」の「しなければならない」は英語でいえば、mustであり、ought to ではないでしょう。mustは、自然法則に基づく自然的な必然性を表すことがありますが、ここでは、自然的な必然性ではありません。この必然性は、論理的な必然性でしょうか、形而上学的な必然性でしょうか、語用論的必然性でしょうか、問答論的必然性でしょうか。

 これは論理的な語彙の使用法に基づく必然性ではないので、論理的な必然性ではありません。これは何らかの存在に訴える必然でもないので、形而上学的必然性ではありません。これは発話の命題内容と発語内行為の関係に基づく語用論的必然性でしょうか。ただし私は、語用論的必然性は、問答論的必然性によって説明できるだろうと予測しているので(これについては、別途論証が必要です)、おそらくは問答論的必然性であるだろうと予測します。

 次回、これを説明します。

 ただし、ここで次のことを付け加えておきたいと思います。

 ここので<選択の不可避性が選択を可能にするということ>(ある種の制限が自由を可能にするということ)は、<指示の不可避性が、指示を可能にすること>、<伝達の不可避性が、伝達を可能にすること>、<問うことの不可避性が、問うことを可能にすること>、という私が論文「発話伝達の不可避性と問答」(『大阪大学文学部紀要』第43号, p.207-215, 2003年3月所収)、『問答の言語哲学』、その他で論じてきたことと同じメカニズムで成立していると予測します。