消費税の逆進性について

昨日の山の中です。
凍った寒い坂道を転がり落ちるような経済状態です。

なぜ次の2つが実現しないのでしょうか。
同一賃金同一労働
サービス残業の廃止
これは、基本的な人権の一部だとおもうのですが、憲法違反ではないのでしょうか?
これは、ILOなどの条約に反しないのでしょうか?

さて、消費税率を上げることが話題になっています。
すでに言われていることですが、消費税率は明らかに逆進性をもっています。
それは、次のようなことだろうとおもいます。(もし間違っていればご指摘をお願いします。)

所得の低い人は、ほとんどの収入を消費にまわします。もし消費税率が5%上昇すれば、所得税率が5%以上上昇するのと同じことです。なぜ5%以上かといえれば、所得税は、収入から経費などが控除された残りにかかりますが、消費税では、(収入の全てを消費に回さなければならない人にとっては)そのような控除なしに収入の全てにかかることになりますので、消費税の5%の上昇は、所得税率の5%の上昇よりも、大きな負担になります。他方で、金持ちは、収入の一部を消費費に回すだけです。もし収入の20%を消費に回しているとすると、消費税が5%上昇すれば、ほぼ収入の1%の増税になるだけです。

消費税の導入によって、所得税を払っていない人は(ほとんどを消費にまわすでしょうから)、全く所得控除のない所得税を5%支払うようになったのとおなじことです。所得税を払っている、低所得者は、先ほど見たように、5%以上の増税になっています。それに対して、高額所得者は、消費税が導入されたこの20年ほどの間に、前に見ましたように、所得税率は20%程度低くなっています。

さて、政府は、このような消費税率を5%から10%にしようとしています。これは財政の赤字を、低所得者への増税によって解決しようとする政策です。これは、間違った方向です。我々がすべきことは、高額所得者と法人に対する所得税の見直しだとおもいます。なぜなら、財政赤字の最も大きな原因は、高額所得者と法人への減税だったと思われるからです。

消費税を上げることは、社会の格差を増大させます。社会格差が、これ以上拡大すると、社会統合は新しい形を取らざるを得なくなるでしょう。今回の予算で、治安の維持のためという理由で、警察官が大量に増員されました。格差の拡大による治安の悪化を見越しているということでしょう。
政府は、社会の格差を縮小させるような政策を何も行なっていないのではないでしょうか?

とってつけたみたい、(カットアンドペーストみたい?)ですが、
皆様良い年をお迎えください。

同一労働同一賃金の実現、サービス残業の廃止

少し前の紅葉の信州の山の中です。

忙しくてupできないでいるうちに、経済はますます深刻な状況になってきました。

公平な税制の問題を考えたいのですが、世の中は、そんな事を行っている場合ではないという状況になってきたのかもしれません。しかし、公平な税制の問題が重要な問題であり、緊急の問題である事には違いありません。

ところで、それ以前の自明の課題ですが、
 ・同一労働同一賃金の実現
 ・サービス残業の廃止

この二つの正当性は、ほとんど自明だと思うのですが、それが実現されていません。
この二つへの違反は、基本的な人権を否定するものであり、憲法違反だとすらいえるのではないでしょうか。なぜ、行政はそれを強力に指導しないのでしょうか。

歴史の歯車が回った

秋も深まり、紅葉から落葉になろうとする森の中で。

11月4日の投票で、Obama氏の次期大統領就任が決定しました。
人類の歴史の歯車が予想よりも早く一つ回った、という感じですね。
今年の金融危機よりも、もっと大きな歴史的な事件になるのではないかと思います。
大変めでたい事です。アメリカにとってだけでなく、世界にとっても、
人種差別や民族差別の克服に向けての、非常に大きな一歩です。

そのObamaの政策によって、世界の経済は新自由主義から、少し違った方向に向かいそうです。
ヨーロッパ風の社会民主主義の傾向に向かうのかもしれませんが、それとは違った方向が出来てきそうな気もします。

少しは落ち着いた世の中になっていってほしいものです。

法人税率と所得税の最高税率を20年前に戻そう!

 やっと、名古屋に着きました。(といっても、これは9月初めのことでした。)

日本の所得税率の推移については、下記をご覧下さい
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/035.htm

これによると最高税率は、
昭和49年には75%
昭和59年には70%
昭和62年には60%
平成元年には50&(2000万以上)
平成7年には50%(3000万以上)
平成11年には37%(1800万円以上)

このように富裕層に対する所得税率は75%から37%に減少しています。
この20年を見ても、50%から37%へ減少しています。

このことは、日本に限りません。
先進国の所得税率の推移は、たとえばここを見て下さい。
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je02/wp-je02-2-1-01z.html

この2,30年で、どの国も所得税の最高税率が、20-10%低下しています。

前回と今回から、財政赤字の解決のためにまずすべきことは、
消費税増税ではなくて、法人税率と富裕層への所得税率を
20年前に戻すことだと考えます。

法人税率や所得税の最高税率を下げる政策は、
他の先進国がそうだから、という理由でおこなわれてきました。

しかし、他の先進国でも同じ理由で、同じ政策が推進されてきました。
ここには、仕組まれた国際協調があるのだとおもいます。

ですから、法人税率と所得税の最高税率をあげることについて、
その実現の為に市民のレベルでの国際的な連帯が必要だと思います。
金融危機が叫ばれている今こそ、よい時期ではないでしょうか。

(そもそも、富裕層がもうけていた金融バブルがはじけた混乱を収拾するために、政府が税金によって
救済策Bailoutをおこなうのならば、そのための税金は、法人や富裕層から回収すべきではないでしょうか。)

もし、この診断について、批判がありましたら、お知らせください。

ところで、法人税率や所得税率を決定するための、合理的な基準は何なのでしょうか。
現実には、様々な政治的な力関係で決まっているとしても、その税率について、あるいは、社会格差について、どのような基準が合理的なもの、ないし正しいもの、であると考えられるのでしょうか。あるいは、そのような合理的で正しい基準などは、そもそも存在しないのでしょうか。

これがこの書庫で考えたい、哲学的な問題です。

なにか、ヒントがありましたら、コメントしてください。

財政赤字の原因

奈良から名古屋へ(その3)
最近の経済のような、怪しい雲行きでした。

先進国の財政赤字の共通の原因は、

1、先進国が1980年代から法人税率を50%あたりから30%当たりに下げたこと
2、富裕層に対する所得税率をやはり1980年代からさげてきたこと(その資料探しは、今日はまにあいませんでした。)

だとおもいます。

日本総合研究所のレポート
http://www.jri.co.jp/press/2007/jri_070531.pdf

によると、先進諸国は、サッチャー時代のイギリスを皮切りに、法人税率を競って
下げています。(もっとも、このレポートの趣旨は、日本も負けずに、法人税率を下げるべきだ、と主張することです。)

日本の財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/082.htm
によると、
日本の法人税率は、昭和53年に法人税率43.3%であったものが
次第に下げられ平成11年からは30%になっています。

この二つで、どれだけの歳入不足になったのかを計算して、それが政府債務の原因になっていることを示す必要があります。

もし、役に立つデータがありましたら、教えてください。

反論がありましたら、ぜひお知らせください。

先進国の財政赤字

奈良から名古屋に向かう(その2)

主要先進国は、軒並み財政赤字になっています。
「先進国」としてはOECDの加盟国(約30カ国)をさすことが多いようですが、G7(日本、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア)が、「主要先進国」と呼ばれることが多いようです。この7カ国は、すべて財政赤字を抱えています。Googleで「○○○の財政赤字」で検索してみてください。軒並み財政赤字であることがわかります。
この財政赤字を理由に、日本では、福祉や教育の分野などで予算のカットが進んでいます。
他の先進国も同様ではないかと推測します。

では、その原因は何でしょうか。各国に固有の理由もあるでしょうが、先進国の多くが財政赤字であるとすれば、そこには共通の原因があるのではないでしょうか。

世の中はおかしい?

 9月の初旬、奈良から名古屋に向かう(その1)
 まるで現代社会のような不気味な天気です。

「最近の世の中はおかしい、哲学を研究する者に何か発言してほしい」という期待が社会の一部にある。もっともな期待であると思う。もしそのような発言が出来ないのならば、哲学には何の価値もないとまで言わないにしても、世の中だけでなく哲学自体がかなりの重症である、と私も思う。

さて本題に入ろう。「最近の世の中はおかしい」と多くの日本人が考えているようだ。これについてのアンケートを見たことは無いが、このような発言は、TVでも日常でもしばしば耳にする。では、「最近の世の中は、本当におかしいのだろうか。」これに対しては、次のように答えよう。「世の中がおかしい」という人が大勢いるのであれば、それによってすでに「社会問題」が構成されている、と。

では、「世の中はどこがおかしいのだろうか」この問にはっきりと答えること、つまり時代診断をはっきりとしなければ、解決すべき問題を明確にすることも出来ない。そこですぐに思いつく具体例を挙げてみよう。
   無差別殺人がおそらく増加している。
   法や道徳を守らない企業が、グローバルな悪影響を与えている。
   年金問題に見られるように、役人の仕事が非常に杜撰である。
   格差が拡大しつつある。
   TV番組が俗悪である。

これらは全て人に優しくない(俗悪な番組は我々の人間性を傷つける)。
「地球に優しいことも大切だが、人に優しいことがもっと大切だ」

しかし、こんな簡単な診断と軟弱な回答では、世の中は変わらない。

これらの原因はなにだろうか。それは社会での競争の激化による人への優しさの喪失ではないだろうか。競争に敗れた者からは、社会への敵意が生まれる。競争の激化で、企業人は利益を上げることを、法や道徳に優先させる。役人は、競争の激化のなかで、公共心を忘れて自分の利益に走る。社会には格差が広がる。TV番組は、人への優しさを忘れた人々の視聴率に支配される。(もちろん、私もまた、この社会の中でそんなに清く正しく生きてはいません。)

「競争の激化と格差の拡大、これが諸悪の根源である。」
この診断は、陳腐な診断である。しかし、冷戦後の資本主義のグローバル化の中で、競争は確かに激化している。これをとりあえずの診断にして、この書庫では、格差に関する、具体的な問題や抽象的な問題に取り組みたい。

「どこに哲学的問題があるのか?」という人は、今しばらくお待ち下さい。
いずれ哲学の問題が登場します。たぶん。

02 定義のつづき

白樺湖のつづきと哲学の定義のつづきです。

■哲学の定義5:哲学とは、社会が直面している最も重要な問題が何であるかを明示し、それに答えることである。
 このような哲学の代表は、ヘーゲルとマルクスである。ヘーゲルは啓蒙主義、悟性主義にその時代の問題をみて、それを歴史主義によって乗り越えようとした。マルクスは、資本主義にその時代の問題を見て、共産主義によって乗り越えようとした。
 これとよく似た定義として、次のものがある。

■哲学の定義6:哲学とは、人にとっての最も重要な問題「人生の意味とは何か」に答えることである。

この定義5と6に対する批判は次のようになる。
 社会問題と人生問題は、我々によって構成される。社会問題に限らず、全ての問題は、我々によって構成されるのである。<事実>は、我々の認識から独立に、実在するのではない。<問題>もまた我々の認識から独立に存在するのではない。事実と意図の矛盾から問題が生じるが、事実認識も、意図も、問に対する答えとして構築される。勿論、問と答えが構築されるとしても、その構築は個人が恣意的におこなえることではない。
 哲学が、通常問題をより深くより広く問うことであるとすれば、これらの問に関して、哲学は、「社会問題や人生問題は、どのように構成されるのか」を問うことになる。確かに定義5と6に示される課題は、哲学の重要課題である、あるいは最重要課題であるかもしれない。なぜなら、より深い問題やより広い問題のほうが、より重要であるとは限らないからである。しかし、それらの課題は、哲学の全てではない。
 そこで、私は定義3を採用することにする。

01 定義の試み

   9月初旬の白樺湖です。27年ぶりに訪れました。
曇りがちの天気でしたが、気持ちの良い朝でした。

哲学の定義を以下に試みてみました。
ご批判をお願いします。

■哲学の定義1:哲学とは、全ての知識の体系ないし、そのような体系の基礎となるそのような体系の基礎的な部分体系(あるいは、このような体系を追究すること)
ギリシア以来の多くの哲学者は、このような哲学体系が可能だと考えており、それを実現しないまでも、求めてきた。おそらくその最後の試みになるが、ドイツ観念論であろう。彼らは、知識が体系となること、哲学がその体系の基礎となる体系であることを主張していた。
しかし、もし知の基礎付けが不可能であれば、このような試みは、不可能な試み、あるいは不合理な試みである。ところで、現代では知の基礎付けは不可能であると考える哲学者がおおい。したがって、このような哲学の定義は、きわめて評判が悪い。
では、「知の基礎付けが可能であるか不可能であるか」について、最終的な決着はついているのだろうか。私は、まだ決着がついていないとおもう。なぜなら、知の基礎付けが不可能になるとしたら、どのような知も採用しない懐疑主義をとるか、ある知を採用するがしかしその可謬性をみとめるという可謬主義かのいずれかになるだろう。そして、この両者に対しては、<それらは、自己自身の主張に適用されるときに自己矛盾するので、自己論駁的である>という批判があるからである。この批判には、反論もあり、最終的な決着はまだついていないのではないかと思う。
もし、「知の基礎付けは、可能か不可能か」という問題に、最終的な決着がついていないとすれば、この問題に決着を付けようとする試みとして、哲学を定義することもできるだろう。

■哲学の定義2:哲学とは「知の基礎付けは、可能か不可能か」という問に答えようとする試みである。

これは、哲学の最も重要な課題であるが、それ以外にも哲学の課題があるとすれば、哲学は、より包括的に次のように定義することが出来るだろう。

■哲学の定義3:哲学とは、問題を立て、その答えを探求することである。哲学とは、最も基礎となる知であろうとそれ以外の知であろうと、(基礎付けが可能であることが確認されない限り)、知や理論のことではない。
この定義において、探求の対象となる「問題」は何でもよいはずはない。それは、主としていわゆる「哲学的問題」である。しかし、哲学の定義の中で、「哲学的」の語の使用を前提すると、循環説明になる。したがって、哲学が探求する問題が、どのような問題であるのかを、定義する必要がある。
日常生活や諸科学の研究において立てられている問題を、今仮に「通常問題」と呼ぶことにしよう。そうすると、「哲学とは、通常問題が前提している命題の根拠を問うこと、または通常問題をより一般化して問うことである」といえるのではないだろうか。日常的な表現をすれば、「哲学とは、様々な事柄について、通常よりも「より深く」「より広く」考えることである」となる。通常問題を、より深く、より広く、考えようとすると、それはいわゆる「哲学的問題」に行き着くのである。

■哲学の定義4:哲学の課題は、哲学的な問題が擬似問題であることを示すことである。
定義3に対しては、ウィトゲンシュタインならば反対して、このように言うだろう。彼は哲学的な問題が擬似問題であり、それを解消することが哲学の課題であると考える。「言葉の使用について明確な展望を持たない」(『探求』§122)から、誤って哲学的問題が生じるのである。哲学は、理論ではなくて、言語批判の活動なのである。「哲学における君の目的は何か。――ハエにハエとり壷から脱出する道を示してやることである。」(『探求』§309)(クリプキもまた、理論というものは常に間違っていると考えていたので、彼にとっても哲学の仕事は、理論を提示することではなくて、言語批判の活動なのだろう。)
では、ウィトゲンシュタインがいう「哲学的問題」とは何だろうか。『論考』では、哲学的問題とは、科学的命題ではない形而上学的命題に関わる問題である。『探求』では、科学的命題と形而上学的命題の区別が無効になるので、哲学的問題についての別の説明が考えられているだろう。
ウィトゲンシュタインが、哲学的問題は擬似問題であるという理由は何なのか?例を挙げて説明しよう。我々の言語の正しい用法は、すべて日常的な使用法である。しかし、日常的な使用法で語られた通常問題の前提について、日常では問わないような問いを問うとき、その問の言語使用は、通常の言語使用にはないような使用になる。たとえば、知の根拠を遡ると根拠付けられていない信念にたどり着くが、その信念については、通常の意味で「真」「偽」を語ることが出来ない、とウィトゲンシュタインはいう(『確実性について』)。それにもかかわらず、どこまでも「真」「偽」を尋ねようとするとき、そこに擬似問題が生じるのであろう。
これに対して、オックスフォード日常言語学派といわれるオースティンやライルは、日常言語の分析が哲学的な問題の解決に役立つと考えていた。「哲学的問題は、有意味な問題であるか、擬似問題であるか」という問題には、決着がついていない。そして、この問題もまた哲学的問題のひとつである。
この問いを、さらに普遍化して言い換えると次のようになる。「ある問をより深くより広く問うとは、どういうことであり、それが可能であるための条件は何か?」
ウィトゲンシュタインが言うように、確かに哲学的問題の中には、擬似問題でしかないものもあるだろう。しかし、全ての哲学的問題が擬似問題であるとはいえないのではないか、少なくともこれは探求されるべき哲学的問題のひとつである。
したがって、私は、定義4を採用せず、定義3を採用しよう。

ご批判をお願いします。

ギリシャ人のように哲学せり

信州、茅野市にある、鈴木照雄先生の墓碑銘です。
先生の墓石の右隣にある石版の写真です。

「ギリシア人のように哲学せり」

と書いてあります。
9月4日にお墓参りをしてきました。まだ晩暑の厳しい時期でしたが、
茅野は幾分涼しく感じられました。

私は、墓碑銘になんと書いてもらいましょうか。