対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避

Passau, die schoenste Stadt, die ich bisher besucht habe.
パッサウ、私が行ったことのある最も美しい町でした。

①「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」

この文が矛盾しているとすれば、それはどのような矛盾でしょうか。
②「このときの白樺湖は、英語では言えない美しさでした」
これは矛盾していません。なぜなら、「英語」は日本語ですが、英語は日本語ではないからです。
つまり、この文章は英語という対象言語に言及しているメタ言語としての日本語で書かれているのです。冒頭の文も、これと同様の仕方で対象言語とメタ言語の区別を導入すると矛盾は生じません。
つまり、次のようになります。
③「このときの白樺湖は、言葉1では言えない美しさでした」
この文が言葉2というメタ言語で書かれていると考えると、「言葉1」は言葉2の表現ですが、言葉1は言葉2ではありません。したがって、②と同様に③には矛盾はありません。
①が矛盾しているとすると、それは①の文の言葉と、①の中に登場する「言葉」が指示する言葉が同一の言葉であるときです。

繰り返しになりますが、もし我々が対象言語とメタ言語区別をしないのならば、①は矛盾します。
したがって、次ぎの文は、矛盾します。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この文では「どんな言葉」の中に、④の文で使用されている言葉も含まれるから、対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避が不可能になります。

しかし、おそらく別の反論があるでしょう。
それは<「言葉では言えない美しさ」というのは、美しさについての言葉による説明ではない>という反論です。
たとえば、「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」というのは、返答になっていないのではないでしょうか。もし「言葉では表現できない花」が、花についての言葉による表現であるなら、⑤は返答になっているはずです。逆にもし⑤が返答になっていないとすると、「言葉では表現できない花」は、花についての言葉による表現ではないことになります。そうすると、⑤は矛盾していないことになります。同様に①も矛盾していないことになります。

「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」と応えることが、
問いの返答になっているのかいないのか、これが問題です。

言葉では言えない美しさ

今年の夏は忙しくて美しい写真がないので、昨年の9月の白樺湖です。

さてこの写真がどれだけ美しいかわかりませんが、このときの白樺湖は、とにかく静かで
言葉ではいえない美しさでした。

さて「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」というのは、日本語の文章です。
この文章を文字通りに理解しようとすると、なんだか少し変な気がします。なぜなら、この文章は、つぎのような文章とは、大きく異なっているからです。
「このときの白樺湖は、写真では表わせない美しさでした」
この文章にはおかしいところはありません。なぜなら、「写真では表せない美しさ」というのは言葉であって、写真ではないからです。
それに対して「言葉では言えない美しさ」というのは、言葉です。
もしこれが 「このときの白樺湖は、私の英語力では表現できない写しさでした」というのならば、問題ありません。「私の英語力では表現できない美しさ」という表現は日本語だからです。
もしこれが"beauty which is not able to be expressed in English"ならば、変です。
どうように、もしこれが「このときの白樺湖は、私の日本語力では表現できない写しさでした」
と言うのならば変です。なぜなら「私の日本語力では表現できない写しさ」というのは、話者の日本語力による表現だからです。
もしこれが「このときの白樺湖は、あなたの日本語力では表現できない美しさでした」というのならば、この表現自体に矛盾はありません。
(しかし、この場合でも、相手の日本語力で、この文章を理解できたとしたら、そして表現できない文は理解できない文でもある、と言えるとしたら、そこには矛盾が生まれるように思います。)

ところで「言葉では言えない美しさ」という表現は、どのような意味で矛盾しているのでしょうか。
まず、これを確認しましょう。

ご無沙汰してしまいました

すっかりご無沙汰してしまいました。
前回の発言は、4月27日でしたので、4ヶ月余りのご無沙汰です。
授業の準備とか、学会発表とか、学内の雑用とか、忙しかったことと、
「一つの脳に一つの心?」という書庫を立ち上げたものの、それを展開することができなかったこと
などもあって、ついついご無沙汰してしまいました。

ぼちぼち再開します。
ところで、民主党が政権をとりました。
オバマがアメリカ大統領になったことは、世界史的な出来事だとおもいますが、
民主党政権の誕生は、日本の政治にとって大変大きな意味を持つことになるだろう思います。
まずは、民主党の主張のとおり、官僚政治を打破して、政治家主導の政治にしてほしいと思います。
そうでなければ、何のための選挙なのかわかりません。
今後しばらくは、マスコミは、
自民党からの政権移譲が適切に行われるかどうか、
民主党が官僚政治を打破できるかどうか、
という二点に絞って、現状を報道してほしいものです。
日本は、経済では、もはや世界もアジアもリードできませんが、
日本は、民主主義では、アジアをリードできる可能性が見えてきたとおもいます。
民主的な政治、民主的な社会の実現は、日本にとって、アジアに貢献できる目標になるのではないでしょうか。

話は、ずいぶん飛びますが、民主党政権にまず取り締まってほしいのは、サービス残業です。
サービス残業がなくなるだけでも、日本はずいぶん住みやすい社会になるだろうと思います。
しかも、それは当たり前の労働者の権利です。

脳の中の組み合わせ問題

Y君のとった写真です。真ん中にリンカーンが座っています。
これってなんという建物でしたか?

1、「意識の境界問題」
「意識の境界問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、「意識の境界問題」とは、「個別化された各意識体験の間の「境界」というのは一体どのようにして決められているのか、という問題」であるそうだ。

2、「組み合わせ問題」
「組み合わせ問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、カナダの哲学者シーガーが、「意識の境界問題」を「組み合わせ問題」として定式化しているそうだ。
「組み合わせ問題」とは「宇宙の基本的な構成要素のひとつひとつが現象的な特性(原意識)を持つような場合に、そういった原意識からいったいどのようにして、私達の体験するような統合された意識が生まれてくるのか」という問題であるらしい。

3、「脳の中の組み合わせ問題」
私はこの「組み合わせ問題」を、「脳の中の組み合わせ問題」として、次のように定式化して考えてみたい。
「脳の中の現象的な特性をもつ一つ一つの要素から、いったいどのようにして、私たちの体験するような統合された意識がうまれてくるのか」

Wikipediaの「意識の境界問題」にはこれについての答えが書かれている。その記事は、唯物論ないし物的一元論をとるならばこの問題は、擬似問題であるという。「私達がある特有の方法でアクセス可能な情報の範囲が統一と呼ばれているものの範囲を決めている」という説明で十分であるという。

(この説明が、どのような問い対する答えとして十分なのか、あるいは問題が、擬似問題であるとはどういうことなのか、というようなことは、私の関心ではありません。念のために、申し上げますが、私は、この記事を書いた人に反論しようとしているのではありません。この記事の関心は、私の関心と少しずれているようにおもうからです。むしろ私はこの記事に非常に多くのことを教えられたことに感謝しています。)

その記事は、唯物論をとるならば、脳の中の現象的な特性を持つ一つ一つの要素は、「私達がある特有の方法でアクセス可能であることによって、統一される」と読める。しかし、「私(ないし私たち)が脳の中の現象的な要素にアクセスする」ということは、理解できない。おそらく<脳の中の諸要素が、ニューロンのネットワークで結合しているので、それらが統一されていても、不思議ではない>といいたいのだろう。しかし、脳の中の現象的特性を持つ諸要素がもし、ニューロンないしその束であるとして、それがニューロンで結合されているとして、そのことによってなぜ統一が生まれるのだろうか。ニューロンで、結合されていることは、意識の統一のための必要条件であるかもしれないが、十分条件ではない。では、それらは単に結合されているのではなくて、どのように結合されなければならないのだろうか。

脳と共有知の関係に向けて

3月までの研究室です。3月末に改修の為に引越しをして、現在は存在していません。
失われた過去です(有意味な発言?)。

一つの脳の中に一つの心しかないのは何故でしょうか?
多重人格者がいるではないか、という批判があるかもしれません。そのとおりです。しかし、多重人格者が非常に少ないのはなぜでしょうか。

もし、心が一つであることの理由が、それが宿る(?)脳が一つであることによるのではないとすれば、複数の脳にまたがる共有知の存在証明に役立つのではないでしょうか。個人を越えた「我々の知」あるいは、個人を超えた「共有知」というものの可能性を考えるときに、すぐに思いつく反論は、<我々は頭で考えるのであり、頭の数だけ心があって、「我々」が一つの頭をもつということはありえないのだから、我々が数的に一つの「知」を持つこともありえない>というものです。

<我々が知の主体であると考えるのはばかげている>という批判の前提には、一人ひとりが知の主体であり、考えるのは一つ一つの頭だ、という信念があるのではないでしょうか。しかし、例えば、私が知の主体であるとは、そもそもどういうことでしょうか。あるいは、どうして私の頭の中には、私しかいないのでしょうか?

<一つの頭に一つの心があって、その心が知の主体である>ということは、それほど自明ないことであるとは思えません。しかし、とりあえずは、確かにそのように言えると思えます。ここでは、その理由を考えて見ましょう。

春を迎えて

京都大原三千院です。苔がとてもきれいでした。

今月は、まったく書き込みをしていなかったので、
とりあえず書き込みました。

最近考えている事の一つは、
「なぜ一つの脳には一つの意識(ないし人格)しかないのか?」
という問題です。もちろん、多重人格者がいるのです(ただし、多重人格者も、そのつどの意識は一つの人格のもののようです)が、大抵は、一つの頭脳に一つの人格が成立しています。

4月からこれについての書庫を立ち上げて、考えてみたいとおもいます。

それでは、みなさま、新しい春を新しい心でお迎えください。

累進税率と経済システムの関係

飯野山からみた瀬戸内海です。

前回の続き

②について
機会の均等がないところ行なわれた自由な競争の結果、格差が生まれたときには、その格差は、個人の努力や才能の違いに基づくだけでなく、機会の不平等に基づくものでもある。そこで、その機会の不平等を是正する必要がある。

収入の格差の原因として何が考えられるだろうか。
①機会の不平等
  貧しくて十分な教育が受けられなかった。
  障害や病気のために十分な教育が受けられなかった。
  障害や病気のために、人並みに働くことが出来ない。
②能力の違い:
  語学が得意だ。計算が不得意だ。パソコンが得意だ、
  交渉が不得意だ。
③運:交通事故にあって商談がながれた。
  取引先の人の機嫌がよくて、仕事がうまくいった。
  たまたま沢山自動車が売れた。たまたま株でもうかった。
④選好や生き方の違い:希望する職業の違い。
  将来のために資格をとるよりも、楽しく過ごしたい。
  収入を増やすためにひたすら努力するのがすきだ。
  

以上の整理はとりあえずのものである。もっと適切な整理が出来るかもしれない。

①については、格差の補償が必要である。
②と③については、おそらく賛否両論あるだろう。
④については、格差の補償は必要ないだろう。

では、この①(あるいは、②と③を含めたもの)による格差を補償するために、累進税率は、どの程度にすべきだろうか。

この基準をどのように決めるべきか、正直なところ考えあぐねている。
しかし、次のことはいえるだろう。
<この累進税率の決定は、当の社会の経済のシステムがどの程度大きな格差を生む傾向をもつのか、ということに依存している。>

実は、収入の格差の原因には、上記のものとは異なる別の要因がある。それは、<当の社会の経済の仕組みが、どの程度大きな格差を生み出す傾向をもつか>という要因である。

例えば、今仮に構成員が100人の社会があるとしよう。もし全員が同じ能力で働き、機会の平等も確保されていると仮定すると、つぎのような配分が期待できる経済システムがあるとしょう。

システムAでは、60人が2万円の収入で、30人が3万円の収入で、10人が7万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

システムBでは、60人が1万円の収入で、30人が2万円の収入で、6人が10万円収入で、4人が25万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

システムCでは、20人が0円の稼ぎで、60人が1万円の収入で、17人が4万円の収入で、2人が30万円の収入で、1人が92万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

累進課税の税率についていうと、システムAよりもB、BよりもCにおいてより高くなるべきだと考えるのが、常識的であろう。

(肝心の累進税率の決定基準について、良いアイデアが思い浮かびません。
よいアイデア、あるいはすでにある議論の情報などがありましたら、教えてください。
 ニュースによると、オバマ大統領は、富裕層への増税をするようですので、
先進諸国が30年前の累進税率に戻すことを期待したいと思います。)

資本主義の原理的な自己矛盾

飯山の頂上からの景色です。

しばらくほかの事を考えていたのと、答えを考えあぐねていたので、
発言が久しぶりになってしまいました。

問題は、こうでした。
「どのような累進税率が適切であるか」

我々は累進課税によって、同率課税の前述の欠点を解消しなければならない。
前回述べた事であるが、次の二点を確認しておきたい。

①資本主義社会での経済活動は、自由競争によって行なわれている。自由競争の結果をそのまま受け入れるべきだ、ということが正当性を持つためには、自由競争に入る者たちのスタートラインが同一であること、つまり機会の均等が保証されていなければならない。

②したがって、機会の均等がない社会で行なわれた競争の結果の格差については、機会の不均等を是正するような再分配、つまり累進課税が必要である。その累進税率は、機会の不均等を是正するのに必要なだけということになる。

今回は、この①について、考えてみよう。

資本主義社会において、機会の均等を保証することは不可能であるようにおもわれる。なぜなら、個人の所有権が認められている限り、個人はその所有物を自由に処分することが出来る。したがって、仮に相続税を非常に高くしたり、相続を禁止したりしても、生前に子供に贈与することができるのだから、親の経済格差が、子供の経済格差となる。これを防止するには、全ての子どもを、親から引き離して、社会全体で育てることになる(プラトンの『国家』のように)。これは、家族を解体するということである。このとき子どもは国家(将来的には、世界共和国?)のために生産され、育てられ、教育されることになるだろう。少なくとも、現在のところ、これは悪夢としてしか考えられない。

上のような選択肢を排除するとき、資本主義の下で、子どもの生まれつきの経済格差は、不可避であり、機会の平等は、原理的には実現不可能である。しかし、他方で、資本主義での自由競争は、機会の平等によってのみ、正当化される。そうだとすると、資本主義は、それ自体において、原理的な矛盾を抱えていることになる。

せめてできることは、子育てと教育への公的な支援である。子どもの経済格差をできるだけ小さくすることは、資本主義社会の正当化のために不可欠である。したがって、育児、教育への公的な支援を行なう必要がある。例えば、現代の日本でいれば、中卒と高卒の生涯賃金の格差は、子どもがおかれた機会の不平等によると考えられるので、高校卒業までは無料の義務教育とすることが公正な社会のためには必要なことである。育児、養育、教育への様々な支援、公立学校の充実なども、公正な社会のために重要である。親の経済力と関係なく、全ての子どもが同じように優れた教育を受けられることが理想である。(親の経済的な格差だけでなく、文化的な資産(ハビトゥス?)の格差という問題もあるが、焦点がぼけるので、別の課題としたい。)

累進税率をいくらにすべきか

讃岐富士に登りました。五合目です。

問題「どのような累進税率が適切であるか」

答えるための一つの基準:

所得税率を全ての人に同率にすることに反対する理由を、前回次のように前回書いた。
「各人が経済活動に参加するときの条件が同じならば、そこから得られた所得に対して、上記の意味で平等な負担を求めることで十分であるが、しかし機会の不平等のもとで生まれた所得の格差に対しては、上記の意味での分配は、平等な再分配であるとはいえない。」

同率課税のこの欠点を解消することが累進税率の基準になるだろう。
資本主義社会での経済活動は、自由競争によって行なわれている。自由競争の結果をそのまま受け入れるべきだ、ということが正当性を持つためには、自由競争に入る者たちのスタートラインが同一であること、つまり機会の均等が保証されていなければならない。
したがって、機会の均等がない社会で行なわれた競争の結果の格差については、機会の不均等を是正するような再分配、つまり累進課税が必要である。その累進税率は、機会の不均等を是正するのに必要なだけということになる。

基準を受け入れたときの次の問題
問題「機会の不均等を是正するのに必要な累進税率が、どれだけのものになるのか、をどのようにして決定したらよいだろうか」

これは哲学の問題というより、厚生経済学の問題でしょうか。

所得税の4つの課税方法

正月に讃岐富士に登りました。

所得税の課税方法としては、次の4つが考えられるでしょう。

1、同額を全ての所得のある人間に要求する。
2、同率を全ての所得のある人間に要求する。
3、累進課税を全ての所得のある人間に要求する。
4、同額の収入になるように全ての人間に納税を要求する。

4を主張する理由:限界効用逓減の法則と功利主義を適用すると、全ての国民の可処分所得が同額になるように国民所得を再分配するのが、国民全体の幸福の総量は最大になる。
4に反対する理由:もしこのような制度にすれば、各人の労働意欲は失われ、国民全体の所得は減少し、結果として、国民全体の幸福の総量は、他の分配方法の場合よりも、小さくなる可能性が高い。

1を主張する理由:各人が、同じ金額の税金を納めることが、平等である。
1に反対する理由:低所得者と高額所得者が、同額の税金を納めることは、平等ではない。なぜなら、高額所得者は、税金によって行なわれる、公共政策の恩恵を、低所得者よりもより多く得ているといえるからである。彼が所得を獲得する生産活動も、彼の消費活動も、低所得者よりはより多く、公共財の恩恵を受けているからである。

2を主張する理由:各人が、生産活動や消費活動において、公共財の恩恵を受けるのが、その金額に比例すると考えると、同率の所得税率にすることが、平等な負担を求めることになる。
2に反対する理由:各人が経済活動に参加するときの条件が同じならば、そこから得られた所得に対して、上記の意味で平等な負担を求めることで十分であるが、しかし機会の不平等のもとで生まれた所得の格差に対しては、上記の意味での分配は、平等な再分配であるとはいえない。

以上の理由で、私は、3が正しい選択だろうと思う。そして、現代の多くの社会では、3の税制が取られている。問題は、どのような累進税率が適切であるか、である。