11 ことばの理解の成り立ち

これはコンサートホールの床です。模様が我々に錯覚を起こすのですが、心のありようもまた、
我々に錯覚を起こすのではないでしょうか。

シミュレーション説による「共同注意」の説明を批判して、代案を提出するには、9か月ころ成立する「共同注意」、11か月ころ成立する「指差し」、そしてその後(?)登場する言葉の使用とその発達、4歳ころまでのこの発達過程についてよく知る必要があります。
(乳児が、自分で指差しを発見して、それを大人の振る舞いに転移して、大人な指差しを理解するとか、乳児が自分で言葉を発見して、それを大人の振る舞いに転移して、大人の言葉を理解する、などと考える人はいないでしょう。それならば、乳児が自分の意図に気づいて、それを他者に転移して、他者が意図をもつ理解する、という説明も同じようにおかしいのではないでしょうか。これは先走った予測です。仮にこの批判が正しいとしても、問題は、代案をどう考えるかです。)

この過程を最初から見て行くのではなくて、逆にすこしづつ遡ってゆきましょう。なぜなら、最初の心の状態を理解することは非常に難しいからです。ともすると、我々の先入見を転移することになるからです。そこで、まずことばの習得についてです。

トマセロは、ことばの理解を次のようにして説明しています。

「子供が、大人が何かに注意を向けさせる意図で音を発しているということを理解したとき、初めて子供にとってその音は言語になる。」(『心とことばの起源を探る』p. 136)
彼は、この理解のためには、次の3つが必要だといいます。
「他者も意図をもつ主体であるということを理解しなければならない。」(p. 136)
「共同注意場面への参加が必要である」(p. 136)
「共同注意場面の中で特定の意図的行為、つまり、伝達意図を表す伝達行為を理解しなければならない。」(p. 136)

トマセロは、自ら行った実験によって、これを説明します。
「チンパンジーと二歳から三歳の子供に、三つの容器のうち、どれにご褒美が入っているかを教えるのに、(a)正しい容器を指さす、(b)正しい容器のうえに小さな木片を印として置く、あるいは(c)正しい容器のレプリカを見せた。子供はすでに指さしを知っていたが、伝達用の符号として印やレプリカを使うことは知らなかった。それにも関わらず、子供はご褒美を見つけるために、そういう新しい符号を非常に効果的に使うことができた。」(p. 137)

サルは、おそらく相手が意図を持つ主体であるということを理解していないから、符合を理解することが出来なかったのだと、トマセロはいう。では、子供は、どうして符号の意味を理解できたのでしょうか。
それを考えて見ましょう。

10 もごもご、言っています

一昨日の日曜日、久しぶりに音楽会に行きました。

昨日の私の批判が正しければ、子供が自分を心を持った主体として理解すること、他者が自分の心とは独立の心を持った主体であると理解することは、同時です。それはシミュレーションによるのではありません。

もし、トマセロのように、コミュニケーションの体験を重視するのではなくて、他者が心を持った主体であることを理解するのは、think,want, believe, などの言葉を使用するようになって、“I think that ..” “I want …” “I believe that ..,”,などを習得した後で、それを他者に転移するのだという説明があるとすると、それについても、同様の批判が可能でしょう。つまり、”I think that …”を使用できるようになるときには、すでに”You think that ..” “He thinks that …”なども使用できるようになっていると思われるからです。(この説明は、不適当かもしれません。なぜなら、こどもが「私」や「あなた」の人称代名詞を何時から使い始めるのか、私には、まだ確認できていないからです。ご存知の方がいたら、文献を教えてください。)

ところで、私の批判は、シミュレーションによる説明の批判にとどまらず、このような変化の前と後の子供の理解の内容についても、トマセロと私の理解は違うかもしれません。
4歳以前の幼児は、自分の理解について他人から異議を唱えたり、自分の言ったことが他人に理解されないということを経験します。また他人の言ったことを自分が異議を唱えるたり、他人の言ったことが判らなくて質問することもあるでしょう。しかし、このことが起きたとき、4歳以前の子供は、理解についての合意が出来たときに、その理解を自分と相手が共有していると考えるでしょう。つまり世界の理解は、私に理解にすぎず、他人と一致することは原理的には確認しようがないのだ、とは考えません。つまり、理解するのは個人なのではなく、世界についての理解は、世界の一部なのです。あるいは、世界の理解と世界は同一なのです。世界の理解が、間違っているときだけ、それは世界と区別されるのです。ちょうど、我々が通常はコップの知覚をコップそのものから区別していないが、それが食い違ったときだけ、錯覚であるとして、コップの知覚をコップそのものと区別するように。
では、4歳以後の子供は自分の心と他人の心をどう理解するのでしょうか。このように基本的に世界の理解は個人のものではなく公的なものでした。4歳以前の子供にとっては、世界の理解は公的なものであって、そのなかで、自分と他者では世界についての理解が異なる場合があること、それは偶然に食い違うのではなくて、自分と他者の世界理解は、それ独自の秩序を持っており、個別の対象についての理解ではなくて、その秩序がことなること、したがって、食い違いについてある予測が可能であるようになります。

なんだか、もごもごと、未整理なままに書いてしまいました。
4歳以後の子供の世界の理解をどのように理解すべきか、ということが「共有知」を考えるときに重要になります。ただし、この書庫では「共同注意と指示」を扱いたいので、これは、別の書庫で扱うことにして、話を少し戻すことにしましょう。

09 批判の開始

昨日はひな祭りでした

トマセロは、幼児が他者を心を持つ主体として理解するようになることを「シミュレーション理論」で説明するのですが、彼によるとHarris, 1991,1996 もまたシミュレーション理論で説明しているそうです。
Harris, P. 1991. The work of the imagination. In A. Whten, ed., Natural theories of mind, 283-304. Oxford, Blackwell.
Harris, P. 1996. Desires, beliefs, and language. In P. Carruthers and P. Smith, eds., Theories of theories of mind, 200-222. Cambridge U. P.

ところで、幼児が、他者を意図を持つ存在として理解するのは、9ヶ月頃なのですが、しかし、他者を心を持つ主体として理解するのは、4歳ころなので、この間に非常に時間がかかるのはなぜなのか、という疑問がわきます。

これに対してトマセロは、シミュレーション説では、子供が「自分自身の思考や信念を新しい仕方で理解するようになることが必要であり」235、そのために時間がかかると説明します。
それには、まず自分の心について言葉で語ることが出来るようになる必要があります。この言葉の習得に時間がかかるのです。とくに、think, want, believe などの言葉の習得が必要なります。そして、これについては、研究(Bartsch and Wellmann, 1995)があるのだそうです。
トマセロは、これに加えて、「言語的なコミュニケーションと言うプロセスそのものも重要である」と考えます。
自分と他者の心的状態の関係を理解する上で重要なコミュニケーションの体験として、
「意見の不一致と誤解」237 と 「コミュニケーションの失敗とその修復」238
を指摘しています。これらの体験を通して、自分が知っていることと他者が知っていることが異なることを子供は知るようになるのです。

トマセロのこの指摘は大変説得力があるようにおもいます。しかし、シミュレーション理論は、納得が行きません。そこで、そろそろ批判に取り掛かりましょう。

まず、4歳ころの子供が、他者を心を持つ主体として理解するようになることを、シミュレーションで説明することへの批判です。もしこれがシミュレーションであるとすると、子供は、自分を心をもつ主体として理解し、そのような自己理解を他者に転移して、他者を理解していることになります(トマセロは「転移」とは言いませんが、そういってもよいでしょう。)。

「誤信念課題」が示していることは、4歳以前の幼児は、自分の知ることと他者の知ることが異なることがありえるとは思っていません。つまり、自分が世界について知っていることは、世界をみれば誰でもわかると思っているのです。青い引き出しにチョコレートがあると私に分かっているのなら、他の人もそのことを当然知っていると思っているのです。(誤信念課題が解けない子供は嘘をつくことが出来ないだろうと思います。)

ところが、子供は、トマセロの指摘するように、「意見の不一致と誤解」237 と 「コミュニケーションの失敗とその修復」238の体験を重ねることによって、自分が知っていることと他者が知っていることは異なるということに気づくのです。つまり、自分が、他者から隔てられた心を持つことの理解と、他者が自分から隔てられた心を持つことの理解は、裏表の事柄として同時に成立するのです。したがって、ここには、自己理解を他者に転移するというような関係はありません。

08 もう一つのシミュレーション

urbeさん、コメントありがとうございました。
読むのが遅れてしまいましたが、昨日私が書いたことが、urbeさんのコメントに対する、応答になるだろうとおもいます。たしかに、赤ちゃんによる自分の意図の理解をどのようなものとして理解するかが、問題です。

代案を提案するまえに、もう少しトマセロの主張を確認しておきたいとおもいます。

幼児の発達心理学では「誤信念問題」というのが有名な事例です。それは、幼児は、自分が知っていることは他者も知っていると間違って信じているということです。この間違いをしなくなるのは、4,5歳なのですが、そのためには、他者が自分とは独立の心をもつ主体であるという理解が必要です。
このりかいについても、トマセロはシミュレーションで説明しようとします。

「生後9ヶ月で乳児が意図をもつ主体として他者を理解するようになることを説明するのにシミュレーションというプロセスを採用したのに続いて、本書では、幼児が他者を心を持つ主体として理解するようになることを説明するためにもシミュレーション説を援用する。」235

このシミュレーションは、「自分自身の思考や信念を新しい仕方で理解するようになること」(235)を前提すると考えられています。

07 指さし

次の3-1は3-2に先行していないという批判に対する、トマセロの反論はあいまいであった。
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」

トマセロの反論は、この時期の赤ちゃんはまだ言語をもたないので、自分の意図の理解といってもあいまいであり、自分の心的状態の概念化や言語化のレベルの話をそのまま適用することは出来ない、ということであろう。

しかし、トマセロの説明は、やはり他者の類推説の一種であるように思える。
それならば、そこでは、次の二つが前提になっているはずである。
①自分の心の状態の理解と、他者の心の状態の理解は、区別される。つまり、自他の区別が前提される。
②自分の心の状態の理解が、他者の心の状態の理解に先行する。

②に対する批判は前回見たとおりである。私は①に対する批判を行いたい。

ただし、トマセロに対する批判を進める前に、もう少しトマセロの理論を確認して起きたい。
(しかし、正確に紹介しようとすると、引用ばかりになり、そうすると著作権を侵害することになりそうで困ります。)

トマセロによると、
■9ヶ月ごろに、共同注意が出来るようになる。
■11ヶ月から12ヶ月にかけて、指差しを行うようになる。
この指差しは、赤ちゃんと他人と対象からなる三項関係的で「宣言的な身振り」(p. 119)である。
子供がどのようにして指差しを学ぶのかは、まだ分かっていないそうだ。しかし、「儀式化」と「模倣学習」という二つの可能性が考えられるそうだ。
(トマセロによれば、チンパンジーの身振りと同様の身振りは、以前から行われている。それは、他人へ向かったり、対象へむかったりするが、それらは「二項関係的」(p.118)であるという。それは、「模倣」によるのではなく、「儀式化」によるものであり、「信号(事柄の実行を実現させるための手続き)」であって「記号(symbol)(経験を共有するための慣習)」ではない(Cf. p.118)そうである。)

■他者を通してみた自分“me”を知る
赤ちゃんが共同注意ができ、他者の意図を認知するようになると、「赤ちゃんは自分のかかわりあっている相手が、意図をもつ主体であり、その人は赤ちゃん自身を知覚し、赤ちゃんに対して何らかの意図を向けているのだということが分かっているのである」122 つまり、他者から自己がどのように理解されているかを理解するようになる。トマセロは、このような自己は、ウィリアム・ジェームズとジョージ・ハーバート・ミードの、“me”に当たるという(Cf. p. 122)。
「自分について他者がどういう感情を抱いているかについてのこのような新しい理解が、はにかみ、自意識、そして自尊感情の発達の可能性を開く(Harter, 1983)。」(p.122)
「一歳の誕生日の頃にはじめて、赤ちゃんが他者の前や鏡の前ではにかみや気恥ずかしさの兆候を見せる(Lewis et al., 1989)。」(p.122)

06 対決

     対決のためのテーブル? 和解のためのテーブル?

トマセロのシミュレーション説は、次の四段階に整理出来る。
1:自分と他者は似ている。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意

これに対する批判は、次のようなものである。
批判:トマセロのシミュレーション説に従うならば、「子供は自分自身の意図の状態を利用して他者の視点をシミュレーションできるようになるのに先立って、まず自分自身の意図の状態を概念化する能力をもたなければない」ということになる。しかし、これは正しくない。
ゴプニクは「子供は他者の心的な状態を概念化するのに先立って自分自身の心的状態を概念化するというわけではない」(p.101)と言う。Gopnik, A. 1993, How we know our minds: The illusion first-person knowledge about intentionality. Behavioral and Brain Science 16, 1-14.
またバルチュとウェルマンは、「他者の心的な状態よりも先に自分自身の心的な状態のことを言葉で語るというわけでもない。」(p. 101.)と言う。Bartsch, K., and Wellmann, H. 1995, Children talk about the mind. New York: Oxford UP.

上の段階でいえばその中の3-1が3-2に先行しなければらならないが、現実にはそのようなことはない。
というのがここでの批判である。

これに対して、トマセロは次のように反論する。
反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

この反論は、次のようなことであろうか。
<子供が大人がボールをとろうとしていることを理解する>のは、
<自分がそのボールをとろうとする意図をもち、それを言葉で理解し、その意図を大人の中に転移して、大人がボールをとろうとしていることを理解する>というのではなくて、
<自分が何かを取ろうと意図することがあるという理解とのアナロジーで、大人が何かを取ろうとしていると理解する>のである。
<自分の特定の意図>を他者の中に転移するのではなくて、<自分のより一般的な意図のタイプ(カテゴリー)>を他者の中に転移する。

この反論が説得力をもつためには、<特定の意図の理解の場合には、自分の意図の理解が、他者の意図の理解に先行することはない>けれども、<より一般的な意図(タイプやカテゴリー)の理解の場合には、自分の意図の理解が、他者の意図の理解に先行する>ということが言えなければならないだろう。
しかし、トマセロは、少なくともそのことをこの本では証明していない。

05 二段階のシミュレーション?

(シュミレーションではなくて、シミュレーションでした。なぜか昔から間違えます。失礼しました。)

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えているといえるだろう。(トマセロは、4段階とは言っていない。これは私の解釈である。二段階のシミュレーションというのも、私の解釈である。)

第一段階:生まれたときから赤ちゃんは他者を「自分に似ている」と理解している。(この指摘自体は、Meltzoff and Gopnik (1993)The role of imitation in understanading persons and developing a theory of mind (コーエン、フラスバーグ、コーエン編『心の理論』田原俊司監訳、八千代出版、下巻、16章)にある。しかし、トマセロは、心の理論に反対のようである(Cf. p. 94)。この点は、いつか問題にするかもしれない。)
「ヒトの赤ちゃんは、個体発生の非常に早い時期から他の人間と同一化するということ、そしてこれはヒトに固有な生物学的遺伝に基礎がある。」99「それが社会的な環境との長期にわたる相互作用を必要とするかどうかについては分かっていない」99

第二段階:(生後七、八ヶ月)赤ちゃんが自分を出来事を起こすことの出来る存在であると理解する。そして(シミュレーションにより?)他者もまたそのような存在だと理解する。「赤ちゃんが自分自身を、なにやらよくわからないやり方で出来事を起こさせる能力をもった有生の存在としてのみ理解している間、つまり生後七、八か月程度の期間は、他者に対してもそのような理解をしている。」(p. 100)

第三段階:自分を意図をもつ存在だと理解する。そして(シミュレーションにより?)他者もそのような存在だと理解する。「赤ちゃんが自分自身を意図をもつ主体と理解し始めると、すなわち自分が目標を持ち、その目標が手段となる行為とははっきり区別されるということを認識し始めると、つまり生後八~九か月になると、他者に対してもそのような理解の仕方をするようになる。」(p. 100)

この第二段階と第三段階の区別は、重要である。
トマセロは、二種類の他者理解を区別する。「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」と、「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」の区別である。前者が、第二段階の他者理解であり、後者が第三段階の他者理解である。

以上をまとめると、次のようになる。

1:自分と他者は似ている。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意

トマセロは、2-1から2-2への移行と、3-1から3-2への移行が、シミュレーションになると考えている。
(3から4への移行は、シミュレーションでは説明できないはずであり、そこの説明が抜けているのだが、いまはまだそれを問わないことにしよう。)

まず問題にしたいのは、もしこのようなシミュレーションが行われるのだとすると、2-1が2-2に先行し、3-1が3-2に先行するはずである、という点である。。この点に対しては、すでに反論があり、その反論にトマセロが答えているようなので、次にそれを確認しよう。

04 シュミレーション説

さて、トマセロは、このような共同注意が始まるのは、赤ちゃんが「他者を自分と同じように意図をもつ主体であると理解し始めるときである」(『心とことばの起源を探る』p. 89)という。

トマセロは、大人がある対象に注意を向けているときに、赤ちゃんがそれに気づいて同じ対象を見るのは、大人が自分と同じように意図をもつ存在だと赤ちゃんが理解することによって可能になる、と考える。

このような共同注意の説明は、「自己とのアナロジー」(p. 92)による説明であるといえるだろう。「われわれは、自己とその働きについては、いかなる種類のいかなる外的なものにとっても利用不可能な情報源を持っている」(p. 92)「外的な存在を「自分に似ている」と理解し、従って自分自身の内面の働きと同じような内面の働きがそれにあると考えることが出来れば、その限りにおいて、それがどのように活動するかについての、特別なタイプの新しい知識を得ることができる」(p. 92)

トマセロは、この説明を「シュミレーション説」(p. 99)とも呼んでいる。もう一箇所そのメカニズムを説明している箇所を引用しておきたい。
「赤ちゃんは、自分自身の意図的な動作についての新たな理解に達したときに、「自分に似ている」とみる捉え方を利用して、他者の行動を自分の行動と同じように理解する」(p. 95)

さて、この説明が正しいとすれば、赤ちゃんが自分で意図的な動作をすることが、他者が意図的な行動をすると理解し始めることよりも先であるはずである。

果たしてそういえるだろうか?もしそう言えないとすれば、シュミレーション説を批判することが出来るのではないだろうか。

03 九ヵ月革命

しばらくは、マイケル・トマセロの『心とことばの起源を探る』(大堀壽夫、中沢恒子、西村義樹、本多啓訳、勁草書房)の説明を検討しながら、共同注意について考えたい。というのも、トマセロの見解は、私が共同注意論から引き出したいと考えている見解と食い違っているように思われるからである(本当にそうか、もし食い違うとしたらどちらが正しいのか、それはまだ即断できない。)

トマセロによれば、共同注意行動とよべる一群の行動が9ヶ月から12ヶ月に発現する。これを彼は「九ヵ月革命」とよぶ。

「生後6ヶ月の赤ちゃんは物体をつかんだり操作したりするが、そのかかわり方は二項関係である。また6ヶ月児はターンテイキングの連鎖で他者と情動を表出しあうやりとりをするが、このかかわりあいも二項的である。[・・・]しかし生後九ヶ月から十二か月になると、一群の新行動が創発してくる。[・・・]子供と大人と、そして両者が注意を向ける物体ないし事象とで構成される指示の三角形である。共同注意という用語は通常、このような社会的なスキルと社会的な相互作用が組み合わさって出来た全体を指してもちいらえることが多い。そして典型的には、赤ちゃんはこの時期にはじめて、柔軟かつ確実に、大人の見ているところを見たり(視線追従(gase following))、物体に媒介された大人との相互作用をそれなりに長い間続けたり(協調行動(joint engagement))、大人を社会的な参照点として利用したり(社会的参照(social referencing))するようにあり、また物体に対して大人がしているのと同じような働きかけをしたり(模倣学習(imitative learning))し始める。」(pp.80-81)

彼は、共同注意のスキルを3種類に分ける
1、大人の注意をチェックする(生後9~12ヶ月)
(協調行動、社会的障害物に対する反応、物の提示)
2、注意に追従する(生後11~14ヶ月)
  (視線追従、指差し追従、指令的な指さし、社会的参照)
3、注意を向けさせる(生後13~15ヶ月)
(模倣学習、宣言的な指差し、指示的な言語)

彼の調べたところでは、80%の赤ちゃんがこの順序で4ヶ月の間にこれら全てを修得したそうである。
(それぞれの用語を説明すべきかもしれないが、またおいおい行いたい。解からなければ、ぜひご質問下さい。)

私にとっての問題は、このような共同注意のメカニズムの説明方法にある。

02 研究の始まりはいつから?

大藪秦『共同注意』(川島書店、2003)によれば、「共同注意」の研究は、David&Appell ‘A Study of nursing care and nurse-infant Interaction’ 1961にはじまり、注目されるようになったのは、Scaife & Bruner ‘The capacity for joint attention in the infant’ in Nature, 233, 265-266, 1975からのようである。「共同注意」(joint attention)という言葉を最初に使ったのが、Scaife & Brunerの上記論文であるかどうか、私はまだわからない。

ただし共同注意ではないが、互いに相手を知覚していることに気づいているという「相互覚知」(mutual awareness)については、Bateson, G. & Ruesch, J.”Communication” Norton Company, 1951 ベイトソン&ロイシュ『コミュニケーション』(思索社)に登場する。

大藪氏のこの本によると、ブルーナーがこの論文で研究した「視覚的共同注意」とは、次のようなものである。幼児と50センチ離れて座った実験者が、乳幼児としっかり目を合わせた後で、乳児の左右に1.5メートル離して置かれた目標物(乳児からは見えない)に対しゆっくり視線を向け、7秒注視する。これを左右1回ずつ行い、乳児が一回でも実験者が向いたのと同じ方向を見れば、「視覚的共同注意が成立した」と評価したそうである。2-4ヶ月児10名のうち3名が実験者の視線を追うように頭を回転させた。11月―14ヶ月までには全員(5名)が実験者の視線を正しく応用になることが報告された。

ちなみに、大藪氏によると、Trevarthenが(Trevarthen. C. & Hubley, P. ‘Secondary intersubjectivity: Confidence, confinding and acts of meaning in the first year. In A. Lock (ed.), “Action, gesture and symbol”, London, Academic Press.)、乳児-人間という二項の間で展開される間主観的状況を「第1次間主観性」(primary intersubjectivity)とよび、乳児-物-人間という三項のコミュニケーション構造が成立したとき「第2次間主観性」(secondary intersubjectivity)と名づけて区別したそうである。

ここでいう、「第1次間主観性」は、ベイトソンのいう「相互覚知」と同じものであろうと思われる。「間主観性」という言葉は、この当時流行した現象学における他者論でもちいられた用語である。Trevarthenの研究には、現象学の影響があるのかもしれない。哲学では、ルイスが(David Lewis “Convention” 1969)「共有知」を論じたのが、最も初期のものかもしれない。

(論文のように硬い文章になってしまいましたが、これは私の準備不足のせいです。)