ロボットにも自然な死と社会的な死

         3年前の今頃のアルゴンキンです。

前回想定したように、私の身体も脳も不治の病になって、私がロボットになったとしましょう。私は確かに、身体や脳を失って機械になってしまったことを悲しむかもしれませんし、ロボットとして差別されることを悔しく思うかもしれません。しかし、悲しんだり、悔しく思っている私は、生きています。

生物としての人間が死ぬときに、自然的な死と社会的な死の区別ができると同様に、ロボットとしての人間が死ぬときにも、自然的な死と社会的な死の区別ができそうです。
ここでいうロボットの自然的な死とは、意識や心や思考の機能の不可逆的な停止、ということでしょう。

つまり、前回のべた理由は、理由にはなりませんでした。

さて、自然な死と社会的な死が、プロセスの進み方に時間差があるにせよ、いずれも一方だけで生じることがないのだとすると、これを分けて、どちらが問題なのか、という問いにどうやって答えればよいのでしょうか。

答えは、前回述べたとおりだろうと思うのです。これは変わりませんが、それをどうやって証明すればよいのか、今思いつきません。

そこで、すこし問いを変えたいとおもいます。ここでは、「自分の死」が問題になっているのですが、「自分の死」とは何を意味しているのでしょうか。

ロボットの死

前回、自然的な死も社会的な死の区別とそれらが共にプロセスであることを説明しました。

さて、問題は、前々回に書いたように、
「「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死ではなく社会的な死ではないでしょうか?」でした。

この問いには、「はい、その通りです」と答えたいと思います。

その理由の一つとして、次の点を考えてみたいとおもいます。
もし、私の身体が不治の病になって、私の脳を他の身体に移植することになったとしましょう。そのとき、私はなおも生きています。もし私の脳も不治の病になって、私の脳の情報を全て、アトムのようなロボットの頭脳であるAIにコピーしたとしましょう。そのとき、私はロボットになってしまっていますが、まだ生きつづけているといえそうです。しかし、私の身体は脳も含めて、もはや生きていません。それゆえに、ここでは「自然的な死」は問題ではないのです。

さて、この説明は、本当に上の答えの理由になっているのでしょうか。
一ヵ月後には地球に大きな彗星がぶつかりそうで、ロボットになった私もそのときには、死んでしまうことになりそうだ、と仮定しましょう。これは私にとっての死の問題です。では、ロボットとしての私の死は、自然的な死ではないのでしょうか。私には、身体の死の場合と本質的な違いがないように思えます。

最初の問題設定が曖昧だったのでしょうか?

<まともな思考>を支える規範

urbeさん、コメントありがとうございました。

私もまた積極的無神論者です。神の存在証明が不可能であることをカントが証明したのちの、哲学からの宗教批判は、認識論的なものではなくて、むしろ道徳的な批判になるのだとおもいます。フォイエルバッハも、マルクスも、ニーチェも、キリスト教を信じることは、不道徳であると批判していました。その後に、ラッセルやドーキンスが続くのかもしれません。もちろん、その理由は、哲学者によって様々です。

さて、コメントの本論についてコメントする前に、復習しておきます。

まず「多文化主義の信念形式」を次のBのように考えてみました。
B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
問題は、「Bが矛盾しているかどうか」でした。

まず、Bよりも、もっと矛盾していそうなDを考えてみました。
D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
もしこのDが矛盾していないならば、Bは矛盾していないということになるでしょう。

なぜなら、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」のに対して、Dの場合には、「pです」と言い切っているので、「私は確信を持ってpを信じている」と解釈することにしました。

なぜ、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」といえるのか、といえるのでしょうか。このBの命題だけからでは、そのような解釈はできません。しかし、この命題を我々は「多文化主義の信念形式」だと考えました。「私」は多文化主義者なのです。もし人がpを確信を持って信じているのならば、その人はpに関して、多文化主義の立場をとることはありません。pに関して多文化主義であるということは、pに関して異なる見解を持つ文化が正しい可能性を認めるということです。従って、彼がpを信じているとしても、彼は確信を持っていないはずだからです。

このDを次のD1のように書き換えてみました。この書き換えによって、D1はDより矛盾の度合いが強くなっても、弱くなる事はないだろうと考えました(あるいは、書き換えても、ここでの議論には影響しないだろうと考えました)。

D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

次にこのD1についての次の二つの解釈を区別することにしました。

D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
D1b「pです。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

私の結論は、「D1aには矛盾はないが、D1bは矛盾している」ということでした。
そして、「D1aが矛盾していないのならば、Bも矛盾していない」と結論付けたのでした。

こうして、復習してみて気づいたのですが、この最後の結論付けの部分がわかりにくかったかもしれませんので、次のように説明を補いたいと思います。

D1をD1aとD1bに分けたのと同様に、Bについても次の二つの理解を区別できます。

Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

D1aが矛盾していないので、Baは矛盾していません。
D1bは矛盾しています。しかし、Bbは矛盾していません。
なぜなら、Bはpを信じているけれど、確信を持ってはいないからです。

さて、urbeさんの最後のコメント <僕の予想はつぎのようなものです.もしBをD1aのように解釈したとします.すると,(ひょっとすると)上のような何らかの道徳的理由から,D1aから「人格を尊重するゆえ,そのひとのもつ信念pを放棄させなければならない」といった主張が導かれるかもしれません.すると,結局,D2の反対が導かれました.> について。

D1aは矛盾していないけれど、D1bは矛盾している、と私は考えますので、D1bからD1bの反対が導出されることは、ありうることだと思います。

<それは「pと信じる人を私は論駁します」というようなものです.この主張は,もはや多文化主義の尊重といえるでしょうか?>

そのとおりです。つまりDは、「pを確信を持って信じている」立場ですので、pに関して、多文化主義をとっていないのだと思います。

最初のコメント<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではなくて>、<何らかの規範的命題を侵犯>することではないか、について

これの後半<何らかの規範的命題を侵犯>するについては、その通りだろうとおもいます。

<pが真であると確信しているのに、他者の¬pという主張を尊重する。>
これは、他者の間違いを訂正しないということで、嘘をつくのと同様に、道徳的な規範に反するように思われます。

しかし、コメントの前半<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではない>については、私には迷いがあります。

D1bの態度は、彼自身の論理的な首尾一貫性にも反するように思われるのです。そして、この首尾一貫性は、有意味に語ることや、論理的に語ることを、可能にするような規則であるような気がします。ただし、この「首尾一貫性」が、<意味論的な規則や論理規則の一種である>といえるかどうかについては、迷いがあります。つまり、urbeさんのコメントが間違っているという確信も持てないでいます。

この首尾一貫性は、それらとは、別種のものかもしれません。しかし、それを破ると、我々が<まともな思考>ができなくなるような規則であるように思われます。

 ここで、私が考えていることは、昨年後期の、自由に関する講義と関連しています。興味のある方は、

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2006WS/2006WS10%20Fichte.html

を参照してくだされば、幸甚です。

二つの死とプロセス

      明石大橋です。

この書庫では、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問題について論じます。
この問題に、哲学がどのように答えることができるか、あるいは哲学は何も答えることができないのか、そのことを突き止めたいとおもいます。
 しかし、その前に、哲学ではよくあることですが、この問題そのものの意味をもっと明確にしておく必要がありますので、まずは、それに取り掛かりましょう。
 
 さて前回、「「私が生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死ではなくて、社会的な死ではないでしょうか?」という問いを立てました。この問いを言い換えると、次のようになります。「人生論や人生観において「死に対してどのような態度をとるべきか」という問題を設定するときに、問題になっているのは、自然的な死ではなくて、社会的な死ですか?」

 この問いを自分で立てておきながら、二つの死を区別することにどんな意味があるのか、よくわかりません。前回の発言から、時間がたちすぎているのかもしれません。そこで、この問いの前に、「自然的な死」と「社会的な死」の区別について考えてみましょう。

「私たちは、この二つの死を区別できるのか、できるとすればどのように区別できるのでしょうか?」

「人間の自然的な死」とは、「生物としての人間の死」のことだと言えるでしょう。曖昧なのは、「社会的な死」の方です。これは「社会的な存在としての人間の死」だと言えるかもしれませんが、しかし、これではまだ曖昧です。

例えば、カントの思想が今も生きているとすると、カントは社会的に死んでいないということになるのでしょうか。しかし、カントは、ケーヒススベルク大学では社会的に死んだはずです。つまり、カントが死んだので、カントは講義をしなくなりました。カントは大学にやってこなくなりました。カントの葬儀が行われました。カントの後任が決められました(その人も今はもういないでしょうが・・・)。このような意味では、カントは社会的な存在としても死んだのです。

 脳死問題を議論するときには、「死はプロセスである」とよく言われるのですが、このことは、「自然的な死」だけでなく「社会的な死」についても言えるのではないでしょうか。

 それは、次のような意味です。人が生物として死ぬとき、一気にすべての生物機能が停止するのではありません。呼吸がとまり、心臓が止まり、瞳孔反射がなくなり、聴覚反応がなくなり、腎臓が機能しなくなり、肝臓が機能しなくなり、というようなことが状況によって、様々な順序でおこるででしょう。そのあとでも、つめが伸び、髪の毛が伸び、などするでしょう。そして、いずれは、すべての細胞が死ぬことでしょう。このようなプロセスのなかで、従来は三兆候が確認されたときをもって「死亡」としていました。人工呼吸器が登場した今日では「全脳の不可逆的な機能停止」をもって「死亡」とすることもできるかもしれません。あるいは、「全脳の器質死」のような別の基準を作ることもできることでしょう。しかし、これらの基準は全て、人間の生物学的な機能のうちのどれを重視するかという価値判断に基づくものであって、自然の中に基準があるのでないとおもいます。その意味で「死の定義」問題で定義される「死」は、人間の「自然的な死」というよりも、「社会的な死」なのだろうとおもいます。これに対して厳密な意味での「自然的な死」というのは、上のような意味でプロセスであり、どこかで線引きできるものではありません。

 ところで、人間の「社会的な死」もまた、プロセスなのではないでしょうか。「死亡の判定」のような死も、社会的な死ですが、葬儀もまた社会的な死であり、埋葬もまた社会的な死であり、四十九日もまた社会的な死であり、死亡記事が掲載されることが、社会的な死であり、後任が決まることが、社会的な死であり、その人の思い出が語られなくなる事が社会的な死であり、その人を覚えている人がいなくなる事が社会的な死である、というように、「社会的な死」は、「自然的な死」以上に長いプロセスであるようにおもわれます。

これで、とりあえず、「自然的な死」と「社会的な死」の意味とその区別がわかったとしましょう。では、人生論において問題になるのは、「社会的な死」だけなのでしょうか。

01世にも奇妙なことなのです

私は最近「共有知」という考えに取り付かれています。
それは自分でいうのもなんですが、非常に奇妙な考えです。
それについて、この書庫で議論したいのですが、どこからどう話したものか、
まだ迷っています。

ということで、いつか書き始めるであろう書庫の予告ですね。
興味を持ってくれ方は、とりあえず私の論文「知を共有するとはどういうことか」をご覧下さい。
 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper200703.html

全くもって、季節はずれの幽霊のような話です。それとも、マルクスの共産主義のような妖怪というべきでしょうか。

完結か?休息か?

urbeさん、コメントありがとうございました。
urbeさんがコメントで考えようとしていたことと、私が考えたことは、だいぶニュアンスが違いますね。urbeさんは、私よりもsachlichに考えようとしているように思います。

多文化主義の信念形式には、問題がないというのが、ここでの結論です。
ご批判、ご質問をお願いします。

ところで、ある文化に特徴的な人生観というものがありうるとおもいます。それを「文化相対的人生観」と呼ぶことにしましょう。この「文化相対的人生観」と哲学的人生論の区別について、しばらくの別の書庫に寄り道して、その後、論じたいと思います。

人格の尊重と意見の尊重

出張で訪れた鳴戸の秋空です。

今日の課題は、次の二つが同義でないこと、またD1からD2が帰結するということもないことを示すことです。

D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」
D2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が偽であることを指摘しません。」

次の二つが、区別されるべきであることを確認しましょう。
「私は、xさんを人格として尊重します」
「私は、xさんの意見pを尊重します」
この二つの区別を念頭に置くとき、次の二つのどちらのケースもありうることがわかります。
「私は、xさんを人格として尊重して、かつxさんの意見pを尊重します」
「私は、xさんを人格として尊重しますが、xさんの意見pを尊重しません」

さて、「私はpと信じています」もまた、大きく分けて二つの場合があります。
「私は、確信を持って、pと信じています。つまり、pが真であることに確信を持っています。」
(これは、「pです」という場合と同じ強さの信念だといえるでしょう。)
「私は、確信はありませんが、pと信じています。つまり、ひょっとするとpが偽である可能性を認めます。」

私が確信を持ってpを信じているのだが、xさんが¬pを信じているとき、私は、xさんを人格として尊重することはできても、xさんの信念¬pを尊重することはできないでしょう。例えば、我々は5+7=12を確信を持って信じていますが、xさんが、5+7=13だといったとすると、彼のその信念を尊重することはできないでしょう。仮にその信念をあえて訂正することをしない場合があるとしても、それはその信念を尊重するからではなくて、他の理由があるからだと思われます。

さてD1を考えて見ましょう。
D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

これは曖昧でした。これは次の二つの意味に理解できます。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
D1b「pです。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

D1aの態度には、問題はないと思います。しかし、D1bの態度は、矛盾しているように思われます。

ところで、D1bとD2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が偽であることを指摘しません。」は同じ意味になりそうです。
しかし、D1aとD2は同じ意味ではありません。

さて、xさんの人格を尊重することからは、xさんの信念を尊重することは論理的に帰結しないのだから、D1aからは、D1bもD2も帰結しません。

さて、これで今日の課題は、解決しました。

前回の話に戻りましょう。

以前に、次の三つの命題を考えようとしました。
C「pです。しかし私はpを信じません」
D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

Cはムーアのパラドクスです。これは、矛盾(?)しています。
Bを多文化主義の信念形式と名づけました。
DとBは多義的であったので、今日の分析を受けて、次のように言い換えようと思います。

D″「私は確信を持ってpを信じています。しかし、私は、pを信じない他の人を尊重します。しかし、私は他の人の信念¬pを尊重しません」
B″「私は、確信はありませんが、pを信じています。しかし、私は、pを信じない他の人の尊重します。また、私は他の人の信念¬pを尊重します。」

このように変更すれば、D″もB″も整合的な態度だとわかります。
多文化主義の信念形式BやB″は、整合的な態度だといえそうです。

多文化主義についてもう一度

以前に、「多文化主義の信念形式」と名づけたのは、次のような形式の信念でした。
   B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重し
     ます。」
次のように表現することもできるでしょう。

  「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。ほかの社
   会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」

しかし、ここではとりあえず、最初の命題について考えてみましょう。
問題は、この信念形式が内的に矛盾していないかどうかでした。

さてここに少し異なる3つの命題が考えられます。
  C「pです。しかし私はpを信じません」
  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
  B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重し
    ます。」

この3つについて、以前に、次のように書きました。
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Cは、「ムーア」のパラドクスで矛盾(?)した発話だと考えられています(その理由の説明の仕方については議論があります。)
Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度のように私には思えます。
Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。Bには、問題がないのでしょうか?
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今考えてみると、Dについての判断は再検討の必要があると思われます。もしDが矛盾していないとすると、B(多文化主義の信念形式)も矛盾していないといえるでしょう。ですから、Dが本当に矛盾した態度なのかどうかを、ここで検討しましょう。

 以前にDが間違った態度であると考えた理由は、

「他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。」

ということでした。

この指摘には、次の二つ問題点があります。
(1)この指摘は、次の二つを区別していません。

  D 「pです。しかし私は他の人がpを信じないことを尊重します」
  D'「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

ただし、今の文脈でこの区別が重要になるかどうかわからないので、とりあえずは、我々も区別しないでおきます。後で、この点を検討しましょう。

(2)この指摘は、次の二つを混同しています。あるいは、D1からD2が帰結すると考えています。
  D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」
  D2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が
    偽であることを指摘しません。」

しかし、この二つは同義ではありません。
またD1からD2が帰結するということもないと思います。
そのことを次に説明しましょう。

花と月

2007年9月25日の月です。
    日本人にとって、季節の変化や花は、儚さの象徴だと思うのですが、
    月は何の象徴なのでしょうか?変わらないもの?

もし、<答えられる問題と答えられない問題>に区別するのならば、たしかに、前回述べたように、<ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題>に区別するが、役立ちそうです。そのときには、どんな信念体系を前提するのがよいかを考えたくなります。

しかし、ある信念を前提するとしても、ある問題が答えられるかどうかは、問題を解いてみなければ判断できません。ある時点で解けないとしても、原理的に解けない問題なのか、いずれ解けるのか、の判断ができないことが多いだろうとおもわれます。

<問題解決を進めることのできる問題と問題解決を進めることのできない問題>に区別するのはどうでしょうか。しかし、これもまた実際にやってみなければ、判断できないように思います。

しかし、前々回の提案は、<人生に関する問題が(哲学的に)議論されている限りで、その議論ないしその一部を哲学的人生論といい、人生に関する話題(命題)(疑問文ないし問題を含む)について会話されている限りで、その会話ないしその一部を人生観と呼ぶ>
ということでした。これだと、問題解決を進めることができるかどうか、事前に判断する必要はありません。

この区別をもう少し明確にしようとしたのですが、結局もとに戻ってしまいました。

では、次に、この区別を使って、以前の考察を振り返ってみましょう。
この書庫の初めのほうで、私的な人生観の二つの形式を分けてみました。
 「私は、私の人生について・・・であると考える」
 「私は、人生というものについて一般的に・・・であると考える」
<後者も前者も、他者からの批判を受ける可能性があり、批判を受けたときにそれに答えようとすると、それは哲学的な人生論になってしまう>と書きました。

今回の区別によるならば、<後者や前者が批判を受けて、その批判に答えて、さらに議論が続くとしたとき、それは、議論であると同時に、二人の会話でもある。つまり、それは哲学的人生論であると同時に、人生観でもある>ということになるでしょう。

もちろん、自分の人生観について批判を受けた人が、「私はこれについて他の人と議論するつもりはありません」といって、それを前提にして話そうとしたり、別の話題に移ろうとするとき、議論は行われませんが、会話は行われ、彼が主張した人生についての考えは、彼の人生観だと言えることになります。

では、多文化主義の信念形式について、この議論と会話の区別を適用するとどうなるでしょうか?

ちょっと行き詰まっていますね

ここまでの議論が間違っているとは思いませんが、これではまだ区別が曖昧ですね。
議論と会話の違いをもっと明確にする必要があるようです。

区別の最も重要な論点は、理性的に議論できることと、できないことを、明確に区別できるかどうかと言うことだと思います。

しかし、このような区別の立て方が曖昧なのだとおもいます。議論できることとは、議論できる問題です。ある命題が議論できるとは、「ある命題pが真であるかどうか」という問題を議論できるということです。議論できる問題であっても、答えられる問題とは限らないし、議論できない問題であっても、まったく議論できないとは限りません。

議論できる問題と議論できない問題の区別は、正確に言うと、どこまで議論できるかの違いなのです。もし、最後まで議論できるかどうか、つまり理性的な議論で答えにたどり着くかどうか、を基準にするならば、すべての問題は、最後まで議論できない問題になるでしょう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマによるならば、どのような命題も、究極的な根拠付けはできないはずだからです。たとえば、「ある命題pが真であるかどうか」について、「それは真である。なぜなら、qならばpであり、かつqであるから」と答えたとすると、次には「qは真であるのか」と問われることになるでしょう。そのようにして、問いは際限なく繰り返されうるので、pが真であることを保証することはできません。

では、他に区別の基準を提案できないでしょうか。
問いの前提の正しさを前提したときに、答えられる問題と答えられない問題を分けるという基準はどうでしょうか。
「xさんは離婚したのか」という問いは、xさんが結婚していたことを前提しています。もしこの前提が間違っているのならば、この問いは、無効です。この問題を議論しているときには、この前提の正しさを認めています。もちろん、議論することによって、問いの前提がおかしいことに気づくことはありえます。そのときには、問いを修正して、議論をやり直すか、問いを無効だとして議論をやめるか、どちらかです。いずれにせよ、問題は変化するので、これまでの議論は中止になります。究極的に根拠付けられた答えをえるとは、このような問いの前提についても、その正しさを根拠付けることを要求しています。我々は、問いの前提の正しさを前提したときに答えられる問題と答えられない問題を分けることができます。しかし、この場合にも、根拠を尋ね続ける作業は、問いの前提を問うことを避けるとしても、際限なく続けることができるのではないでしょうか。そうすると、この区別もまた、役に立ちません。

では、他の区別の提案はないものでしょうか。
ある論理体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
この区別は、問題によっては有効かもしれませんが、人生に関する問題の場合には、おそらくあまり有効ではないでしょう。

ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
これは役立ちそうです。ではどのような信念体系を、前提するのが適切でしょうか。