エントロピーは言語に依存する!?

森田さん、ご返答ありがとうございました。

プライスの論文の要約と序論しか読んでいないのですが、彼は、熱力学の第二法則「エントロピー増大の法則」についての、ボルツマンの統計力学による証明は、不十分である。統計学的な議論だけではエントロピーが常に増大しつづけることを説明できない、という批判ですね。
この批判自体は、目新しくないのだと思うのですが、「将来の熱力学的振る舞いに関する我々の合理的な期待は、過去についての我々が知っていることに依存しているに違いない」(Abstract)という指摘が、彼の論点なのだろうとおもいました。

(この問題に関心がある方は、Huw Price、’ Boltzmann’s Time Bomb’ をGoogleで検索してくだされば、論文本文を読むことができます。)

ひょっとして、時間の非対称性についての議論のときには、BelnapさんのBranching Space-Time Theory が説明に使えるかもしれないと思いました。もっとも、プライスは、時間そのものが非対称だと考えず、時間の中の物理過程だけが非対称だと考えるのでしょうが、Belnapさんの理論では、時間そのものが非対称性をもつことになるように思います。

以上2点は、ただの感想です。

さて、ご確認(?)の件ですが
ご指摘の通り、
「エントロピーという概念そのものが人間の恣意的な言語体系に依存するものだ」
この主張の可能性を追究してみようとおもっています (正しいという確信はありませんが、間違っているという核心もありません)。
ただし、「恣意的な言語体系」というときに、「自然には無関係に選ばれた言語体系」といういみならば、その通りですが、「個々人が恣意的に選択できる言語体系」という意味ならば、それは狭すぎるかもしれません。「日本語や英語は、人間にとって恣意的な言語体系である」というのと同じような意味で、「人間にとって恣意的な言語体系」という意味です。

もし、私のスタンスが正しいとすると、そのような錯誤の原因が次に問題になると思います。
そのときには、
「生理学的な問題から人間はエントロピーが増大する方向に時間の向きを感じるのだ」
という生理学的な説明の仕方になるかもしれません。
しかし、もっと、社会構成主義的な説明になりそうな気もします。
これについては、今はまだなんともいえません。

人生論と人生観の区別再説

前回述べた<議論と会話の対比>によるならば、xさんとyさんの二人がおこなう議論は、常に二人の会話として理解することもできます。(しかし、逆はいえません。二人の会話は常に、二人の議論として理解できるわけではありません。)
では、議論が、会話の一種なのかといえば、そうではありません。xさんとyさんの議論は、それ以外の人によっても継続可能です。しかし、xさんとyさんの会話の継続ではありません。(もちろん、xとyが議論しているときに、zさんが途中から議論に参加するというときには、xとyの会話が継続しているということができますが、参加者が完全に入れ替わるときや、時間的な中断がある時には、そうはいきません。)

さて、哲学的人生論と人生観の区別を次のように考えてみるのはどうでしょうか。
<哲学的人生論は、人生に関するある問題についての議論(ないしその一部)である>
<人生観は、人生に関するある事柄(話題)についての会話(ないしその一部)である>

「人生観」については、これまで常に「私的な人生観」と表現してきましたが、会話の中で話されたときには、それは他者と共有されるので、単に「人生観」と表現することにします。

xとyが、人生に関するある問題を議論しているとするとき、それはまたxとyの間の会話として理解することもできます。すると、xの哲学的人生論は、つねにxの人生観でもある、ということになります。逆に、xの人生観は、つねにxの哲学的人生論であるということになるとは限りません。

さて、このような区別で、十分でしょうか?
どなたでも、ご質問ご批判をお願いします。

すっかり秋ですね

         すっかり秋ですね。

森田さん、コメントありがとうございました。

私のここでのスタンスは,
「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」
ということです。

森田さんは、熱力学においてエントロピー増大の法則が成り立つことは、ボルツマンが統計力学で証明したのであり、状態数(状態数=エントロピーでしたか?)というのは、自然的な物理量であって、この法則は「人間的な原理ではない」ということを主張していたのだと思います。つまり、私のスタンスへの批判でした(ご批判、大歓迎です。批判がなくては、進歩はありませんから。)。

ところで、今回のコメントで言及されている、プライスは、「エントロピー増大の法則」に対してどのようなスタンスなのでしょか。
森田さんは、プライスにたいして、ボルツマンを擁護しようとしているのでしょうか?
プライスの議論は、私のスタンスにとって、有利なのでしょうか?

問題と話題

 一昨日の続きです。
 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

<問題を共有する>とは、ある疑問文に対する答えを見つけることが重要であるという認識を共有することです。もう少し細かく言うと、(問題が、現実認識と意図の矛盾として構成されているとすると)問題を構成している現実認識と意図を共有し、その矛盾を解決することが重要であるという認識を共有していることです。その問題の解決に共同して取り組もうとするかどうかは、問題の共有とは、論理的には別のことがらです。しかし、実際には、共同して取り組むことが不可能でない限り、共同して取り組もうとすることを妨げるものはないでしょう。(共同して取り組むことが不可能な問題があるだろうか? これは後で考えましょう。)

では、<話題を共有する>とは、どういうことでしょうか。話題を共有するとは、ある対象や事柄に関する興味、関心を共有するということでしょう。ところで、パンダに関心をもつ動物学者と国際政治学者は、同じ対象に関心を持っていても、彼らが関心を共有しているとは言えないでしょう。動物学者は、動物としてのパンダに関心をもっており、国政政治学者は、中国の外交政策に利用されている贈り物としてパンダに関心を持っているからです。つまり、同じ対象が関心の対象になっているというだけでは、話題を共有していると言うには不十分です。話題を共有するとは、同じ事柄に対する関心を共有することです。そして、事柄は命題で表現されるので、話題を共有するとは、ある命題に対する関心を共有することです。ある事柄(ないし命題)に関して、二人がそれぞれ言いたいことや、知りたいことをもっているとき、彼らは話題を共有していると言えるでしょう。

 とりあえず、議論と会話の区別を確認しておきましょう。

<議論と会話の対比>
議論は、記録して、再開できる。
そのときに、参加者は変化しても、議論は一つである。
議論は問題中心である。
問題が変われば、それは別の議論である。
問題の変化もまた、別の問題になりうるが、その別の問題を扱うのは、別の議論である。

会話は、記録して、再開できない。
会話は、参加者が変化すると、別の会話である。
会話は、参加者中心である。
話題が変わっても、会話は継続する。
話題の変化もまた、話題となりうる。そのときも、会話は継続する。

議論と会話

昨日の続きです。
<議論できる>ためには、<問題を共有する>に加えて、何が必要なのでしょうか。

<議論を開始する>ためには、<問題を共有する>ことが必要でした。しかし、開始してもその議論が行き詰まると、議論を継続することができなくなります。
<議論を継続する>ためには、議論の進展が必要です。議論が進展するとは、問題解決に近づくということでしょう。<問題解決に近づく>とは、ある問題を解決するための方法がわかる、解決の方法についての合意ができる、ある問題を解決するために解決すべき下位の問題が解決するか、下位の問題の解決に近づく、などです。他にも、いろいろな事柄が考えられそうです。
議論を継続できなくなったとしても、それまでの議論が無効になるわけではありません。議論は、記録して保存することが可能で、(よいアイデアを思いついたり、状況が変化したりして)いつか再開する可能性があります。

さて、話題をもとに戻しましょう。
  人生についての議論できることが、<哲学的な人生論>であり、
  人生についての議論できないけれども語りたいことが<私的な人生観>である。
と言うようなことを昨日述べました。

 人生について議論するには、<問題を共有する>必要があります。そして、それに加えて、議論したいと思っている必要があります。その場合には、とりあえず、<哲学的人生論>が成立します。

 それに対して、<私的な主観的な人生観>の場合には、議論できないけれど語りたい、と言う場合もあるでしょう。そのとき、その人は一方的に語りたいのでしょうか。説教したい人は、一方的に語りたいのかもしれませんが、しかし説教したい人は、その説教の内容が、私的な主観的な人生観であるとは思っていないでしょう。そのように考えると、私的な人生観を語る人は、会話したいのだとおもいます。(議論したいけれどできないので次善の事柄として会話を希望する、という場合と、議論できるとできないにかかわりなく、議論はしたくなくて、ただ会話がしたい、という場合に分けることができるかもしれません。)

 では、会話するために必要な条件は何でしょうか。昨日述べたように、会話するときには、<問題を共有する>必要はありません。会話に必要なのは、<話題を共有する>ことです。

 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

もう一度最初から

最初からもう一度やりなおしましょう。

この書庫「哲学的人生論(2)」のテーマは、私的な人生観をではなくて、私的な人生観というものについてメタレベルで考えてみることでした。まず、第一に問題になるのは、「私的な人生観とは、何か」ということです。

私は、私的な人生観と、哲学的な人生論の区別について、それがほぼ自明であるかのように述べて、議論を始めました。そこに問題があったように思いますので、初めから考え直してみたいとおもいます。

私的な人生観とは、何でしょうか?

<私的な人生観とは、人生についての私的な主観的な考えであり、論拠がはっきりしているとは限らないし、それについて他者と議論する意図もないし、またうまく議論することもできないかもしれないようなものである>と考えていました。

「私的な人生観」を「哲学的な人生論」との対比において理解していたのですが、その対比とは、<人生についての私的な主観的な考え>と<人生についての哲学的な議論>という対比でした。言い換えると、「人生についての」<私的な主観的な考え>と<哲学的な議論>の対比でした。
 
<哲学的な議論>に対比されるのは、通常は<科学的な議論>とか<経験的な議論>です。人生について、科学的に語れることがあるかどうか、解かりません。少なくとも、人生の意味について、科学的に語れることはないでしょう。また人生の意味について、経験的に語れることがあるとも思えません。たとえば、ある人物の人生についてならば、経験的に語れるかもしれません、しかし、その人物の人生の意味について、経験的に語ることはできないでしょう。したがって、人生の意味について議論できるとすれば、それは哲学的な議論になるでしょう。

つまり、人生について、議論できるとすれば、それは<哲学的な議論>であり、議論できないけれども語りたいことがあるとすれば、それは<私的な主観的な考え>である、と考えてよいのではないでしょうか。

では、<議論できる>と<議論できない>の区別は、どのようなことでしょうか?

人生について科学的に語ることはできないのですから、科学と非科学の区別(これも、実はうまく区別できないのですが)に用いられてきた、検証可能か否か、反証可能か否か、というような区別はここでは使えません。

<議論できる>ために必要なことの一つは、<問題を共有する>ということです。
議論が成り立つためには、問題を共有するということが不可欠です。ある問題が共有されたならば、その答えや答えの求め方や、その問題を解くために解かなければならない別の問題設定などについての、合意がすぐに得られないとしても、とりあえず議論は可能であり、議論を開始することができます。(これに対して、会話は探求すべき問題の共有がなくても可能です。)

しかし、問題の共有は、<議論できる>ための必要条件ですが、十分条件ではありません。つまり問題が共有されても、議論が成り立つとはかぎりませせん。たしかに、問題を共有すると、その問題の解決を求めて議論を開始することができます。しかしその過程で意見の対立がどうしても解消できず、議論が一向に進展なくなり、それ以上議論しても不毛であると感じられることがあります。この様な場合には、問題の共有があっても、これ以上の議論は成立しなくなっているといえます。(これに対して、このような場合にも会話を続けることは可能です。なぜなら、会話は合意を目指しているのではないからです。)

では、<議論できる>ためには、<問題を共有する>に加えて、何が必要なのでしょうか。

復習と行き詰まりと・・・

      つかの間の山の中の思索でした。

久しぶりなので、前回の復習からはじめます。

 「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式である
   ①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
の場合でも、このpの内容が他者から批判されることはありえます。
 
 これが批判されたときの答えは、次の二つに一つです。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
   間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
   正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じてい
   ます。」
 
私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりません。2の返答か可能かどうかは、pの内容に依存するように思われます。そこで、問題は、

  「2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、一
   般的に定義するとどうなるでしょうか」

ということでした。

以上が、前回の復習です。

 他者に危害を加えるかどうかが、判別基準でしょうか。

 自分の人生について、他者に危害を加えない方針を主張することが、私的な人生観で、自分の人生について、他者に危害を加える方針は、私的な人生観ではないのでしょうか。
 もし「ひとに認めて欲しかったのに、誰も認めてくれないから、私は社会に復讐するのだ」と考えている人がいるとしたら、それは他者に危害を加える方針なので、批判されてしかるべきです。「社会の誰も君のことを認めてくれないとしても、それを理由に社会に復讐するというのは、飛躍し過ぎではないですか」と批判されて、その人が「私の考え方がおかしいとしても、その責任は社会にあるのだから、いまさら社会からとやかく言われたくない。」と開き直ったらどうしたらよいでしょうか。つまり、彼のとの議論が、理論的な議論にならないとしたらどうでしょうか。そのとき、彼のその主張は、議論可能な哲学的人生論であるとは、いえないだろうとおもいます。それは彼の私的な人生観だ、と言う方があっているような気がします。
 つまり、他者に危害を加えるかどうかで、哲学的な人生論か、私的な人生観か、を分けることには無理があるようです。

 どこか変ですね。どこかで、議論が間違っているのでしょう。
 
 もう一度やり直しましょう。

 哲学では、何度でも最初からやり直すことが必要です。
 (変な話かもしれませんが、<行き詰まっても、何度でも最初からやり直すことができる>ということも、哲学の楽しさの一つかもしれません。それは、楽しさでなく、気楽さ、と言うべきかもしれません。最初からやり直しても、誰にも迷惑をかけません。哲学は、我々を身軽にするのです。)

 ということで、久しぶりなのに、今日はここまでです。

個人的な人生に関する私的な人生観は可能

     剣山山頂から続く尾根の景色です。よい天気でした。

①「私は、私の人生について、pと考えて、生きたい」
このような「個人的な人生に関する私的な人生観」の信念形式には、問題はないのでしょうか。

 実は、問題があります。以前にも述べたことですが、もしこのpの内容が道徳や法律に反するときには、pは他者から批判されるでしょう。その批判が正しいかどうかを別にして、個人的な人生に関する私的な人生観であるとしても、他者から批判されることはありえます。
 では、そのとき批判された人(Xさんとします)は、どのように答えることになるでしょうか。Xさんに可能な態度は、②についての考えたときと同じく、次の二つに一つです。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてではなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」

私的な人生観①の表明が可能であるためには、この2の返答が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。

 これは整合的な態度ではない、というのが、人生観②について考察したときの結論でした。では、人生観①の場合にはどうでしょうか。答えは、pの内容に依存するようにおもわれます。
例えば、もしpの内容が道徳や法律に反するものだと批判されとすると、その場合には、上の2の態度をとることはできません。1の態度をとり、pが道徳や法律に反しないことを弁明する必要があります。
 しかし、例えば、もしpの内容が、「画家としてすばらしい作品を描くことが私の生きる意味だ」というものであるとするとき、「他者が、画家で成功する人はまれなのだから、あなたの才能なら、やめたほうがよい」、とか「あなたは、画家より、数学の才能方法があるとおもうので、数学者になったほうがよい」とかの批判であるとすると、それに対しては、Xさんが2の態度で答えたとしても、そこには不都合はないとおもわれます。

 2の返答が可能である場合と不可能である場合のpの内容の違いを、上のような事例で示すのでなく、一般的に定義できるとよいのですが、・・・
うか。

二種類の私的な人生観

     今年の夏に登った剣山山頂です。

 前回予告した分析を延期して、話を少し戻します。

以前に述べましたが、私的な人生観には、二つのタイプが考えられます。
  ①「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」
  ②「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
前回、私的な人生観が不可能であると結論付けることになったのは、②の方です。つまり、前回の議論を認めたとしても、①の私的な人生観はとりあえず、問題ないように思えます。①は、個人的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。②は、一般的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。

 文化に対する態度についても、これと類似した二つの態度を区別することができます。
  Ba「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。
    他の社会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」
  Bb「我々は、人類社会は、pという規範を守るべきだとおもいます。
    しかし、他の人々がその規範を尊重しないとしても、我々はそれを尊重します。」

「多文化主義」は、Baのタイプの主張をすることに成ります。Bbは、「多文化主義」にはなりません。Bbを主張する者は、他の人々がpを批判したときには、それを受けて議論しなければなりません。もしそうでなければ、それは合理的な態度とは考えられません。しかし、もしそうだとすると、この態度は、多文化主義ではありません。それはひとつの普遍的な文化を探求する態度です。もちろん、<そのような合意を求めるけれども、しかしそれが得られるまでは、相手の立場を尊重して、議論しようとするし、また、そのような合意が必ず得られるはずであるとも考えていない>という態度もありえます。しかし、そのような態度であるとしても、それを「多文化主義」とは呼べないでしょう。

 さて、人生観の話に戻ります。②の一般的な人生に関する私的な人生観は、合理的な態度としては考えられないと述べました。しかし、このような人生観を述べる人がいますし、このような人生観をもっている人もいます。現実には、②を維持することが可能になっています。それは、次の二つの場合であろうとおもいます。

 Xさんにとって、pが私的な人生観であるとは、Xさんが、pを他者に証明しようと意図していない、と言うことでした。このような態度がうまく維持できなくなるのは、他の人からXさんがpについて批判されたときです。しかし、
(1)もし、Xさんが他者から批判されないとすると、その限りで、Xさんは、pを私的な人生観としてもち続けることができます。(実際の生活では、他人の人生観を聞くことがあっても、それをことさら批判しようとしたり、それについて議論しようとしないことが多いとおもいます。話題が拡散しすぎるので、その理由についてはここでは考えません。)また、
(2)他の人から批判されても、「確かにそうかもしれませんね。考えてみます。」などとその場をしのいで、そのうち、忘れてしまう、という態度が可能です。(まるで自分のことのようです。)

 さて、現実には、このようにして②が維持されることもあるのですが、②は合理的で整合的な態度とはいえないでしょう。
 では、①の「個人的な人生に関する私的な人生観」は、本当に問題ないのでしょうか。これを検討してみましょう。

私的な人生観は不可能?

さて、前回次のようにのべました。

  「信じる」には確実性の度合いがあって、信じる理由が弱いときには、
  「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」

 しかし、究極的に根拠付けられた命題は存在しません。(これについては、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を調べてみてください。)そうだとしたら、

  「私は、pと信じる。そして、pでない可能性はない。」

といえるような場合は、存在しないことになります。つまり、「信じる」の確実性の度合いは常に弱い、ということになります。「信じる」の確実性の度合いを、前回のように区別するのは、ほとんど役に立たないということになります。(仮に、究極的に根拠付けられた命題が存在するとしても、それはごく僅かの限られた命題でしょうかから、つぎの主張は、だとうするでしょう。)

 そうすると、哲学的な人生論と個人的主観的な人生観の違いはなくなります。つまり、哲学的な人生論の主張といえども、究極的に根拠付けられているわけではなくて、間違いの可能性があることになります。
 このとき、哲学的人生論は、「私は、人は・・・という仕方で生きるべきだと信じるが、他の人がそのように考えないとしても、それを尊重する」というタイプの人生観の表明と、何の違いがあるのでしょうか。
 哲学的人生論と私的な人生観の間に、確実性についての明確な違いがないのだとすると、両者の区別は可能なのでしょうか。

 両者の違いは、<他者に同意を求め、他者が同意しないときには反論を求める>という説得ないし議論への意思があるか、ないかの違いではないでしょうか。
 たとえば、Xさんが「pは私の私的な人生観です。つまり、私は、pを他者に説得しようとか、これについて他者と議論しようという意図はありません。」と考えているとしましょう。
 ところで、Xさんに説得の意思も、議論の意思もないのだとしたら、そもそもXさんはなぜ私的な人生観を語ろうとするのでしょうか。つぎのいずれかではないでしょうか。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
   しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立つ
   かもしれないので、発表する。

 さてこのとき、YさんがXさんに、「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」と問うたとしましょう。
このとき、XさんはYさんにどう答えでしょうか。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
   間違っていると思うので、答えましょう。」

このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてでなく、人生論として扱っていることになります。

2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

私的な人生観の表明が可能であるためには、この2の態度が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。
 Xさんが、Yさんからpへの反論とその理由を示されたときに、自分でその反論を吟味してみようとしないとすると、その態度は、合理的な態度だとはいえないでしょう。
 Xさんのpに対する信念が、堅固なものであり、pを信じる理由が十分に確実なものであるときには、次のように考えるでしょう。

  「私はpだと信じている、言い換えると、「pでない」を偽であると信じ
   ている。ゆえに、qでないといわれても、それを吟味しようとはおもわ
   ない。」

しかし、もし究極的な根拠付けが存在しないということを、受け入れている人であれば、どんな信念も可謬的であるのですから、その人は反論を吟味しようとすべきでしょう。Xさんがpの真偽を知ることを求めているのだとすると、pに対する反論qが示されたときに、その反論を吟味しないという、態度は矛盾しています。

 まとめです。

 上に述べましたが、Xさんが、私的な人生観を語る理由としては、つぎの二つが考えられます。

  ①、他者に問われて答える場合。
  ②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
    しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立
    つかもしれないので、発表する。

①の場合に、もしYさんに問われて、Xさんが、「私の私的な人生観はpです」と答えたとしましょう。このとき、Yさんが上のように「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」といったとしましょう。
このとき、Xさんには、上に述べたようにつぎの二つの態度が考えられました。

1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
  間違っていると思うので、答えましょう。」
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
  正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
  す。」

1は、pを私的な人生観ではく、哲学的な人生論としてあつかうことでした。
2は、上に見たように、矛盾した態度でした。

 以上からすると、私的な人生観は、成り立たないことになります。
(この議論に、何か見落としはないでしょうか?)

 では、多文化主義の信念形式B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」もまた成り立たないのでしょうか。

 前回の予告だった、つぎの発言の分析が必要なようです。
「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」