エントロピーについての疑問

 秋吉台の夏の景色です。緑が綺麗で、ヨーロッパのような景色でした。先日二泊三日で山口に行ってきました。

 この書庫「思いつき」では、時々の哲学に関する思い付きを断片的に書くことにします。

 先日山口で参加した研究会で思いついたこと。
 それは、「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」ということです。これは、次のような意味です。買ったばかりの新しいトランプをシャッフルすると、次第に無秩序な並びになります(研究会でAさんの挙げた例です)。それが、エントロピー増大の法則の例だと見なされています。しかし、それは我々が番号順に並んでいる最初の状態を秩序があると考えるためであって、もしたまたま数字と同じ形の文字をもつけれど、全く異なる意味でそれを理解する言語があるとすると、その言語の使用者にとっては、そのトランプの並びは、最初からずっと無秩序なままであったということになるでしょう。そこには、とくにエントロビーの増大はなかったということになるでしょう。
 我々が、秩序正しく並んでいたトランプをシャッフルするとき、一回のシャフルのたびにカードの並びを記録したとしましょう。その記録を見て、その順番が次第に整理されていき、最後の状態で最もよく整理された順番になっている、というようにトランプの数字をよむ読み方もありえます。そして、別の言語の人にとっては、たまたまそのような順番になっていることもありえます。このとき、エントロピーは縮小していったことになります。したがって、トランプの例での、エントロピー増大の法則は、数字をどのように読むかに依存していると思われます。(違うかもしれませんが・・・)

 これと同様で、ビッグバンのときに、エントロピーが最小で、その後次第に増大しているのが宇宙である、と我々は考えていますが、ビッグバンのときがエントロピーが最小であるというのは、我々の自然に対する一つの解釈であって、別の解釈もありえるのではないでしょうか。そして、自然はそのような解釈に関係なく、実はつねに同じエントロピーのままである、という可能性があるのではないでしょうか。
 あるいは、エントロピーという概念は、つねに一定の「秩序」の解釈を前提しますが、そのような「秩序」そのものが人間的な概念なのではないでしょうか。

 エントロピーに詳しい方のご批判をおまちしております。

「今日もビールを飲みたい」

       「今日も、ビールを飲みたい」
 
 「生きたい」という自然的な欲求は、何らかの身体的ないし心的状態の記述です。たとえば「この犬は生きたいのだ」とか「カブトムシも生きたいのだ」というのは、このような記述であり、真理値をもちます。
 これに対して、「生きたい」という社会的な欲望は、記述ではなく意図表明の発話です。約束や宣言の発話が真理値をもたないのと同様に、この発話も真理値をもちません。

 これが前回の復習です。「今日もビールを飲みたい」は自然的な欲求でしょうか、社会的な欲望でしょうか。おそらくこの二つが混じっているでしょう。この二つを内省によって分離することは非常に困難です。(その理由は、いずれ機会があれば述べましょう。)

 さて、話をもどしましょう。
 自然的な欲求の場合、我々は、「この犬は水を飲みたいのだ」から、「この犬は生きたいのだ」を推論できます。前者が真であるためには、後者が真でなければならないからです。
 xさんが「私はカヌーやりたい。そしていつかアルゴンキンをカヌーで旅したい」と言うとき、これはxさんの社会的欲望の発話であり、真理値をもちません。しかし、その発話を聞いた私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」と言うとき、これはxさんの欲望についての記述です。これは「xさんは『私はカヌーをやりたい』と発話した」という記述とほぼ同じ意味の記述であり、同じ真理値をもちます。私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」だから「xさんは生きたいのだ」と推論するとき、「xさんは生きたいのだ」もまたxさんがある社会的欲望を持つことについての記述であり、真理値をもつことになります。この二つの発話は真理値をもち、しかもそれらの真理値の間には、もし「xさんはカヌーをやりたい」が真ならば、「xさんは生きたい」も真である、という関係が成り立ちます。この真理値間の関係は、経験的な関係でなく、<発話の意味にもとづく>関係です。
 ところで、xさんにとって、「カヌーをやりたい」という発話も「生きたい」という発話も真理値を持たちません。しかし、この二つの発話の間にも、もし「私がカヌーをやりたい」という欲望があるのなら、「私は生きたい」という欲望もある、という関係があります。つまり、「私はカヌーをやりたい」と発話する者は、「生きたいですか」と問われたならば、「生きたい」です、と答えるはずです。(誤解のないようにコメントしておくと、質問には、二種類在り、事実を尋ねる質問に対する返答は、事実についての記述であり、真理値をもつが、意図を尋ねる質問に対する返答は、意図表明であり、真理値をもちません。ここでの「生きたいですか」は後者の質問です)

この関係もまた、<発話の意味にもとづく>関係です。これについて考えてみましょう。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
これらは、どちらも真理値をもちません。しかし、bの欲望は、aの欲望を含意しているので、bが成り立つなら、aが成り立つという関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
cは、aとbの真理値の関係ではありませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。