カナダのアルゴンキンです。
無数の湖が水路でつながっています。
ここで一週間くらいカヌー旅行したいものです。
前回次の二つの欲望の関係を考えて見ました。
a「私は、カヌーをやりたい」
b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
このaとbの間には、次の関係があります。
c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
aとbは真理値をもちませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。
この例は、目的と手段の関係で、ある目的を欲望する者は、その手段の一つを欲望する、と言う関係でした。(手段が複数あるときには、その手段の中の特定ものだけを欲望するということがあるかもしれません。)
しかし、ここでとりあえず考えたいのは、次の関係です。
d「私はカヌーをやりたい」
e「私は生きたい」
このdとeは目的と手段の関係ではありません。かりに、「カヌーが私の生きがいで、それが出来ないのならば、生きる意味がない」というxさんがいたとしましょう。このxさんにとっては、dは目的ですが、eはその手段ではありません。
このdとeの関係は、次の関係に似ています。
f「私はトランプをしたい」
g「私は遊びたい」
とか、
h「私は黒ビールが飲みたい」
i「私はビールが飲みたい」
これらは、特殊と普遍の関係です。
では、「ビールを飲みたい」とか「カヌーをしたい」とか「旅行したい」とか「本を読みたい」とかの欲望をもつひとは、「生きたい」と考えるでしょうが、そのような特殊な欲望がない場合に、ただ「生きたい」と考えるということがあるでしょうか?
あります。それは、「死にたくない」と考えるときです。我々は、突然余命を宣告されたとき、「死にたくない」「生きたい」と考えるでしょう。
ここでもう一度、問題を設定しなおしましょう。(これはurbeさんの質問と同じものだろうと思います。)
心的な状態ないし身体的な状態の記述としての自然的な欲求でなく、真理値をもたない欲望としての「生きたい」や「死にたくない」や「カヌーをしたい」は、どのようにして成立するのでしょうか。それが理由の空間の中で社会的に構成されるのだとしても、より具体的には、それはどのようにして構成されるのでしょうか?