さて、前回次のようにのべました。
「信じる」には確実性の度合いがあって、信じる理由が弱いときには、
「私は、pと信じるけれども、pではない可能性もある」
しかし、究極的に根拠付けられた命題は存在しません。(これについては、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を調べてみてください。)そうだとしたら、
「私は、pと信じる。そして、pでない可能性はない。」
といえるような場合は、存在しないことになります。つまり、「信じる」の確実性の度合いは常に弱い、ということになります。「信じる」の確実性の度合いを、前回のように区別するのは、ほとんど役に立たないということになります。(仮に、究極的に根拠付けられた命題が存在するとしても、それはごく僅かの限られた命題でしょうかから、つぎの主張は、だとうするでしょう。)
そうすると、哲学的な人生論と個人的主観的な人生観の違いはなくなります。つまり、哲学的な人生論の主張といえども、究極的に根拠付けられているわけではなくて、間違いの可能性があることになります。
このとき、哲学的人生論は、「私は、人は・・・という仕方で生きるべきだと信じるが、他の人がそのように考えないとしても、それを尊重する」というタイプの人生観の表明と、何の違いがあるのでしょうか。
哲学的人生論と私的な人生観の間に、確実性についての明確な違いがないのだとすると、両者の区別は可能なのでしょうか。
両者の違いは、<他者に同意を求め、他者が同意しないときには反論を求める>という説得ないし議論への意思があるか、ないかの違いではないでしょうか。
たとえば、Xさんが「pは私の私的な人生観です。つまり、私は、pを他者に説得しようとか、これについて他者と議論しようという意図はありません。」と考えているとしましょう。
ところで、Xさんに説得の意思も、議論の意思もないのだとしたら、そもそもXさんはなぜ私的な人生観を語ろうとするのでしょうか。つぎのいずれかではないでしょうか。
①、他者に問われて答える場合。
②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立つ
かもしれないので、発表する。
さてこのとき、YさんがXさんに、「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」と問うたとしましょう。
このとき、XさんはYさんにどう答えでしょうか。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」
このように答えるならば、Xさんは、pを私的な人生観としてでなく、人生論として扱っていることになります。
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」
私的な人生観の表明が可能であるためには、この2の態度が可能でなければなりませんが、これは整合的な態度でしょうか。
Xさんが、Yさんからpへの反論とその理由を示されたときに、自分でその反論を吟味してみようとしないとすると、その態度は、合理的な態度だとはいえないでしょう。
Xさんのpに対する信念が、堅固なものであり、pを信じる理由が十分に確実なものであるときには、次のように考えるでしょう。
「私はpだと信じている、言い換えると、「pでない」を偽であると信じ
ている。ゆえに、qでないといわれても、それを吟味しようとはおもわ
ない。」
しかし、もし究極的な根拠付けが存在しないということを、受け入れている人であれば、どんな信念も可謬的であるのですから、その人は反論を吟味しようとすべきでしょう。Xさんがpの真偽を知ることを求めているのだとすると、pに対する反論qが示されたときに、その反論を吟味しないという、態度は矛盾しています。
まとめです。
上に述べましたが、Xさんが、私的な人生観を語る理由としては、つぎの二つが考えられます。
①、他者に問われて答える場合。
②、他者を説得しようという意図はないが、私的な人生観を発表して、も
しこれに賛同してくれる人がいればうれしいし、これが誰かの役に立
つかもしれないので、発表する。
①の場合に、もしYさんに問われて、Xさんが、「私の私的な人生観はpです」と答えたとしましょう。このとき、Yさんが上のように「私は、pは間違いだと考えます。その理由は、・・・ですが、Xさんは、これに同意しますか」といったとしましょう。
このとき、Xさんには、上に述べたようにつぎの二つの態度が考えられました。
1、「私は、pについて議論するつもりはなかったのですが、あなたの反論は
間違っていると思うので、答えましょう。」
2、「私は、pについて議論するつもりはありません。たとえあなたの反論が
正しいかどうかを自分で吟味しようとも思いません。私はpを信じていま
す。」
1は、pを私的な人生観ではく、哲学的な人生論としてあつかうことでした。
2は、上に見たように、矛盾した態度でした。
以上からすると、私的な人生観は、成り立たないことになります。
(この議論に、何か見落としはないでしょうか?)
では、多文化主義の信念形式B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」もまた成り立たないのでしょうか。
前回の予告だった、つぎの発言の分析が必要なようです。
「私は、pであるか、pでないか、確実に言うことはできない。私には、ある理由でpであるように思われる。しかし、他の人は別の理由でpでないと考えるかもしれない。もし、その人が、確実にpでない、と論証できるのならば、それを教えてほしいものだ。もしその人もまた私と同じように、pであるかないかを確実にいうことはできず、ある理由でpでないと考えるのならば、とりあえず、私の理由と彼の理由をそれぞれ吟味してみるのがよいだろう。」
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