二種類の私的な人生観

     今年の夏に登った剣山山頂です。

 前回予告した分析を延期して、話を少し戻します。

以前に述べましたが、私的な人生観には、二つのタイプが考えられます。
  ①「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」
  ②「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
前回、私的な人生観が不可能であると結論付けることになったのは、②の方です。つまり、前回の議論を認めたとしても、①の私的な人生観はとりあえず、問題ないように思えます。①は、個人的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。②は、一般的な人生に関する私的な人生観だといえるでしょう。

 文化に対する態度についても、これと類似した二つの態度を区別することができます。
  Ba「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。
    他の社会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」
  Bb「我々は、人類社会は、pという規範を守るべきだとおもいます。
    しかし、他の人々がその規範を尊重しないとしても、我々はそれを尊重します。」

「多文化主義」は、Baのタイプの主張をすることに成ります。Bbは、「多文化主義」にはなりません。Bbを主張する者は、他の人々がpを批判したときには、それを受けて議論しなければなりません。もしそうでなければ、それは合理的な態度とは考えられません。しかし、もしそうだとすると、この態度は、多文化主義ではありません。それはひとつの普遍的な文化を探求する態度です。もちろん、<そのような合意を求めるけれども、しかしそれが得られるまでは、相手の立場を尊重して、議論しようとするし、また、そのような合意が必ず得られるはずであるとも考えていない>という態度もありえます。しかし、そのような態度であるとしても、それを「多文化主義」とは呼べないでしょう。

 さて、人生観の話に戻ります。②の一般的な人生に関する私的な人生観は、合理的な態度としては考えられないと述べました。しかし、このような人生観を述べる人がいますし、このような人生観をもっている人もいます。現実には、②を維持することが可能になっています。それは、次の二つの場合であろうとおもいます。

 Xさんにとって、pが私的な人生観であるとは、Xさんが、pを他者に証明しようと意図していない、と言うことでした。このような態度がうまく維持できなくなるのは、他の人からXさんがpについて批判されたときです。しかし、
(1)もし、Xさんが他者から批判されないとすると、その限りで、Xさんは、pを私的な人生観としてもち続けることができます。(実際の生活では、他人の人生観を聞くことがあっても、それをことさら批判しようとしたり、それについて議論しようとしないことが多いとおもいます。話題が拡散しすぎるので、その理由についてはここでは考えません。)また、
(2)他の人から批判されても、「確かにそうかもしれませんね。考えてみます。」などとその場をしのいで、そのうち、忘れてしまう、という態度が可能です。(まるで自分のことのようです。)

 さて、現実には、このようにして②が維持されることもあるのですが、②は合理的で整合的な態度とはいえないでしょう。
 では、①の「個人的な人生に関する私的な人生観」は、本当に問題ないのでしょうか。これを検討してみましょう。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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