最初からもう一度やりなおしましょう。
この書庫「哲学的人生論(2)」のテーマは、私的な人生観をではなくて、私的な人生観というものについてメタレベルで考えてみることでした。まず、第一に問題になるのは、「私的な人生観とは、何か」ということです。
私は、私的な人生観と、哲学的な人生論の区別について、それがほぼ自明であるかのように述べて、議論を始めました。そこに問題があったように思いますので、初めから考え直してみたいとおもいます。
私的な人生観とは、何でしょうか?
<私的な人生観とは、人生についての私的な主観的な考えであり、論拠がはっきりしているとは限らないし、それについて他者と議論する意図もないし、またうまく議論することもできないかもしれないようなものである>と考えていました。
「私的な人生観」を「哲学的な人生論」との対比において理解していたのですが、その対比とは、<人生についての私的な主観的な考え>と<人生についての哲学的な議論>という対比でした。言い換えると、「人生についての」<私的な主観的な考え>と<哲学的な議論>の対比でした。
<哲学的な議論>に対比されるのは、通常は<科学的な議論>とか<経験的な議論>です。人生について、科学的に語れることがあるかどうか、解かりません。少なくとも、人生の意味について、科学的に語れることはないでしょう。また人生の意味について、経験的に語れることがあるとも思えません。たとえば、ある人物の人生についてならば、経験的に語れるかもしれません、しかし、その人物の人生の意味について、経験的に語ることはできないでしょう。したがって、人生の意味について議論できるとすれば、それは哲学的な議論になるでしょう。
つまり、人生について、議論できるとすれば、それは<哲学的な議論>であり、議論できないけれども語りたいことがあるとすれば、それは<私的な主観的な考え>である、と考えてよいのではないでしょうか。
では、<議論できる>と<議論できない>の区別は、どのようなことでしょうか?
人生について科学的に語ることはできないのですから、科学と非科学の区別(これも、実はうまく区別できないのですが)に用いられてきた、検証可能か否か、反証可能か否か、というような区別はここでは使えません。
<議論できる>ために必要なことの一つは、<問題を共有する>ということです。
議論が成り立つためには、問題を共有するということが不可欠です。ある問題が共有されたならば、その答えや答えの求め方や、その問題を解くために解かなければならない別の問題設定などについての、合意がすぐに得られないとしても、とりあえず議論は可能であり、議論を開始することができます。(これに対して、会話は探求すべき問題の共有がなくても可能です。)
しかし、問題の共有は、<議論できる>ための必要条件ですが、十分条件ではありません。つまり問題が共有されても、議論が成り立つとはかぎりませせん。たしかに、問題を共有すると、その問題の解決を求めて議論を開始することができます。しかしその過程で意見の対立がどうしても解消できず、議論が一向に進展なくなり、それ以上議論しても不毛であると感じられることがあります。この様な場合には、問題の共有があっても、これ以上の議論は成立しなくなっているといえます。(これに対して、このような場合にも会話を続けることは可能です。なぜなら、会話は合意を目指しているのではないからです。)
では、<議論できる>ためには、<問題を共有する>に加えて、何が必要なのでしょうか。