善意と悪意の非対称

2月9日奈良にも雪が積もりました。あまりの寒さで風邪を引いていました。

「恩返し」と「仕返し」、「恩送り」と「八つ当たり」、「情けは人のためならず」と「罰当たり」などの関係は、対称的である。しかし、善意と悪意には重要な非対称性がある。
 Aに不当な不利益を与えられたBが、Aに対して怒るのは正当であるが、それに仕返しすることが悪いことになってしまう。言い換えると、BのAに対する怒りは社会と共有できる怒りであるに対して、BのAに対する仕返しは、社会と共有できない行為である。したがって「仕返し」しようとするものは、それを公言することはできない。それを公言すると、Aがそれに対して用心するので「仕返し」ができなくなるからだ。たとえば、「これは嘘です」と公言しては、嘘にならない。「悪意」は人間を孤立化させるだろう。彼はばれないように密かに計画を練り準備し実行しなければならない。(ちなみに、人間関係が希薄な社会では、密かに悪意をはぐくむことは容易になる。)これに対して「よいこと」は、公言できる。また「よくもわるくもないこと」も公言できる。

ところで、公言できないことがすべて悪いことであるのではない。例えば、ある発明を思いついた人がその特許をとろうとするとしよう。彼は特許をとるためには、その発明を公言できない。もちろん、発明の具体的な内容ではなくて、特許をとるつもりであることは公言できる。私的な利益の追求のときには、その経営戦略を公表できない。プライバシーは公表できないというよりも、公表したくない事柄である。それを公表したくないのは、利益のためではない(では、何のため?)。我々は、プライベイトな事柄を公表しない権利をもつ。経営戦略やプライバシーは秘密であっても、秘密を持っていることは公的に認められている。

それにたいして、悪意の場合には、それが秘密であるだけでなく、秘密の悪意を持っていること自体も秘密にしなければならない。なぜなら、それをばらすと、そこから犯罪の計画がばれてしまうからである。
このような秘密を守るにはかなりの努力が必要である。それを容易にするためには、孤独になる事である。秘密があれば孤独になる。そして秘密を守ろうとすれば、さらに孤独になる。犯罪者は、実行の前も実行の後も孤独である。(人間関係が希薄な社会では、秘密をも守ることが容易になっているのかもしれない。)現代社会では、犯罪者でなくても、みんな孤独である。

(話の焦点が、定まらなくてすみません。)