積もった雪をふるい落として、もう一度最初から考え直しましょう。
これまで、以下のようなことを論じた。
・敵意と悪意の区別
・「恩返し」と「仕返し」「恩おくり」と「八つ当たり」、「情けは人のためならず」と「罰当たり」の対称性
・人間関係が希薄で、価値が一元的な社会では、悪意のエスカレーションが起こりやすいこと
・善意と悪意の非対称性
・孤独な社会では、犯罪者が孤独を保ちやすいこと
悪意の起源として、これまでの議論で指摘しできたのは、「仕返し」しようとすることだった。
このメカニズムを分析する必要がある。
とりあえず独断的な断言でしかないのだが、別の書庫で考えた「いきたい」と言う欲望も、この書庫での「悪意」も社会的に構成される。これらが社会的に構成されるためには、「私」や「私の欲望」や「私のお金」などを社会的に指示しなければならない。その社会的な指示ないし公的な指示は、共同指示として共有知論の書庫で考える予定である。
以下では「悪意」ないし「仕返し」をもっと素朴に別の角度から考え直してみたい。それは「承認」という観点である。ここで「承認」というのは、(哲学の用語としては、おそらくフィヒテが最初に使い始めた言葉であり)他者の存在や尊厳や価値などを認めるという意味である。当然のことだが「社会的に構成されること」と「社会的に承認されること」は異なる。例えば、「悪意」は社会的に構成されるが、社会的に承認されない。
ところで、次の指摘はありふれた人間知であろう。
「承認を求めて得られないときに、それは敵意に変わる。」
「愛を求めて得られないときに、それは憎しみに変わる。」
では、なぜそうなるのだろうか。(個人的な想像だが、「特異な悪意」の原因として承認願望の挫折があるような気がするので、これを考えてみたい。)
これは次のように考えると「仕返し」の一種として説明できるだろう。
<AがBを愛する。そしてBがAを愛し返すことを求める。しかし、BはAを愛さない。そのとき、恩を仇で返されたとAは考える。そこで、AはBの仇に対して、仇を返す。つまり仕返しだ。>
しかし、この「仕返し」にはどこかに考え間違いがあるのではないだろうか。
AがBを愛して、BがAを愛し返すことをAがBに求めるのだが、BはAを愛さない。このようなとき、AはBに対して怒る。「AはBを承認したのに、BがAに承認を返さないのは失礼だ」とAは考えるのだろう。しかし、Bは、Aのこの怒りを正当なものとは考えないだろう。なぜなら、Aに承認してもらうことをBはAに求めていなかったからだ。確かに、求めていないものを与えられて、その返礼を勝手に求めえられてもそれに応じる義務はないだろう。
承認を求めて得られないというのは、つらいことである。Aのプライドは傷つけられる。そのとき、Aがただ悲しんだり落胆するだけでなく、相手に対して憎しみを持ち始めるとすれは、それは、そのときAが、「不当にプライドを傷つけられた」と考えるからだろう。では、この「不当性」の判断は、どのようにして成立するのだろうか。
それは、たとえば、次のようかもしれない。
<Aは求めて得られなかったBの承認を、求めるに値しないもの(「すっぱいブドウ」)と考えるかもしれない。本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていたと考えるかもしれない。そこでAは、「Bにだまされていた、Bは詐欺師である、Bは悪いひとだ、Bは不当に私のプライドを傷つけた」などと考えるようになる。>
では、この「不当性」の判断の間違いは、どこにあるのだろうか。