さて、トマセロは、このような共同注意が始まるのは、赤ちゃんが「他者を自分と同じように意図をもつ主体であると理解し始めるときである」(『心とことばの起源を探る』p. 89)という。
トマセロは、大人がある対象に注意を向けているときに、赤ちゃんがそれに気づいて同じ対象を見るのは、大人が自分と同じように意図をもつ存在だと赤ちゃんが理解することによって可能になる、と考える。
このような共同注意の説明は、「自己とのアナロジー」(p. 92)による説明であるといえるだろう。「われわれは、自己とその働きについては、いかなる種類のいかなる外的なものにとっても利用不可能な情報源を持っている」(p. 92)「外的な存在を「自分に似ている」と理解し、従って自分自身の内面の働きと同じような内面の働きがそれにあると考えることが出来れば、その限りにおいて、それがどのように活動するかについての、特別なタイプの新しい知識を得ることができる」(p. 92)
トマセロは、この説明を「シュミレーション説」(p. 99)とも呼んでいる。もう一箇所そのメカニズムを説明している箇所を引用しておきたい。
「赤ちゃんは、自分自身の意図的な動作についての新たな理解に達したときに、「自分に似ている」とみる捉え方を利用して、他者の行動を自分の行動と同じように理解する」(p. 95)
さて、この説明が正しいとすれば、赤ちゃんが自分で意図的な動作をすることが、他者が意図的な行動をすると理解し始めることよりも先であるはずである。
果たしてそういえるだろうか?もしそう言えないとすれば、シュミレーション説を批判することが出来るのではないだろうか。