哲学が嫌われる理由

ドレスデンのFrauen Kirche 聖母教会です。
3年前には、まだ修復が完了していませんでしたが、今回は中に入ることが出来ました。
この教会は、聖母教会なのですが、ルター派の教会です。宗教改革の後、ルター派が古い教会をのっとったのですね。日本の神社にもよくあることです。

これは最近、Hさんに教えられたことです。
普通の人々から哲学が嫌われるのは、「哲学が、知の基礎付けがないとか、善悪の判断には根拠が無いとか言って、人々を不安にさせる」と言うことにあるということでした。

おそらくそのとおりでしょう。人々は、さまざまな常識を信じて生活しています。哲学は、その常識に疑いを向けるのだから、人々は彼らの生活の前提を疑われる、あるいは否定されるかのように感じるのです。生活してゆくためには、「常識の検討」を括弧に入れなければなりません。

哲学好きの人間は、「常識の検討」が好きなのですが、しかし彼が日常生活も適当に行なっているとすれば「常識の検討」を括弧に入れるのが、上手なのか、あるいはそれに慣れてしまっているのでしょう。

そのような括弧入れになれていない人間が、「常識の検討」に取り組んだときの方が、すごい哲学できるかもしれません。括弧入れになれてしまった人間は、真剣に「常識の検討」を行なっていないのかもしれません。しかし、真剣に行なえば、哲学者=奇人・変人になってしまう虞もあります。

 「常識の検討」は哲学の魅力でもありますが、嫌われる原因でもあって、この二つはおなじことなのかもしれません。あるとき、ある人には、それが魅力となり、また別のとき別の人には、敬遠のもとになる、ということのようです。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「哲学が嫌われる理由」への6件のフィードバック

  1. SECRET: 0
    PASS:
    常識というのは
    ある特定の時期の
    ある特定のエリアでの
    暗黙の了解です。

    そんなもの「疑い」がなくてどうしますか。

    アラブの常識と
    日本の常識
    まるで違います。

    論点はそんなところに
    ないのです。

  2. SECRET: 0
    PASS:
    「アラブの常識と日本の常識まるで違う」
    というのも或る一つの常識に依った主張であり、その常識を括弧に入れるなら「アラブの常識と日本の常識まったく同じ」というのもあり、になります。
    論点はいろんな所にあります。
    どこにあるのかの判断にも常識がかかわります。
    哲学者はその判断に関して、知らずして、あるいは意識的に、〔普通の人にとっては)非常識に振舞いがちで、このことも嫌われる一因ではないでしょうか。

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  4. こんにちは.ブログのカテゴリーの項目のすべては閲覧できていません.まずは試みに,(こちらの気ままに,というかまともなコメントができそうなカテゴリーの項目を選びつつ)散発的にコメント書かせてもらいます.よろしくお願いいたします.
     私の考えでは,おそらく「常識を検討する」ことは,哲学という学問の研究領域(これは「哲学の定義」にも関わってきますね,おそらく)からの論理的な帰結ですが,そのことは哲学が「嫌われる原因」なのではなくてむしろ,哲学(者)が誠実に「常識を検討した」結果(期せずして?)「知の基礎付けがないとか、善悪の判断には根拠が無い」ということが真相(真実)であることが判明した(その蓋然性が高いことが判明した)ので,偶然の結果として嫌われることになってしまった,ということではないでしょうか?
     まとめると,「常識を検討する」ことは,哲学という学問の本質からの論理的な帰結であり,その研究の結果,多くの人々から偶然嫌われることになってしまった,ということになります.いかがでしょう?

    1. Kさん、コメントありがとうございました。
      「常識を検討する」ことが、哲学研究の論理的な帰結であるということに賛成します。私は、哲学とは、通常よりもより深くより広く考えることだと捉えていますので、この定義からしても、常識を検討することは、哲学の論理的な帰結です。しかし、他方で、それが、一部の人から哲学が嫌われる原因になっているということもあるとおもいます。この二つのことは、両立するとおもいます。
      Kさんのまとめ「「常識を検討する」ことは,哲学という学問の本質からの論理的な帰結であり,その研究の結果,多くの人々から偶然嫌われることになってしまった,ということになります.いかがでしょう?」に賛成します。
      「反知性主義」の原因の一つは、常識を批判されることによる不安、にあるのだろうとおもいます。

  5. ご回答ありがとうございます.期せずして(?)私の回答に同意していただきそれが確認できただけで,私の哲学も一歩前進できました.
     また,最後に提示されている「「反知性主義」の原因の一つは、常識を批判されることによる不安、にある」という仮説に,基本的には私も同意します.ただし,私の見解では,「反知性主義」の原因・根拠には,論理的(あるいは(この用語を用いてよいならば)「ア・プリオリ?」)なものと,経験的(あるいは,現在の状況,現在の文脈によるもの)なものがあります.これについてはまたこのブログの別のトピックに関連して議論させていただきたいと思います.

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