30 知覚に関する問答と探索の関係 (20210309)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

言語的な信念と同じく、知覚もまた問い(または非言語的な探索)に対する答えとして成立すると仮定してみましょう。では、その問いはどのようなものになるでしょうか。例えば「その車は何色ですが?」の答えは「それは黄色です」となります。ただし、この答えは、知覚報告であって、知覚そのものではありません。知覚そのものは、この問いへの答えではなく、問いに答えるための手がかりです。知覚は、この問いを問う者が<問い合わせるもの(Befragtes)>であって、<問いも求められるもの(Erfragtes)>ではありません。

 では、「この車は黄色い」が「この車は何色ですか?」や「この車は黄色ですか?」への答えとして成立するとき、何が起こっているのでしょうか。

 サールは、発話行為の誠実性条件が、志向性の心的内容になることを述べていました。たとえば、「r」を主張することが誠実であるための条件は、rを信じるという志向性が成立する事であり、rを命令することが誠実であるための条件は、rの実現を願望しているという志向性が成立することでした。これに倣って言えば、「この車は何色か?」という問いの発話の誠実性条件は、この車の色を探索しようとする心的状態、あるいはこの車の色を知りたいという願望(心的状態)であるでしょう。この探索に対する答えとして知覚ないし視覚経験があると考えられます。

「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件は、<この車は黄色い>という信念(心的状態)をもつことです。ここでの一連の問答はつぎのようになります。

<「この車は何色か」という言語的問い → 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)>

 「この車は何色ですか?」という問いに答えるには、この問いを理解していなければならず、そのためには、次の二つが必要です。

  ①「黄色」が色を表示していることを理解していること、

  ②「黄色」が表示する色がどのようなものであるかを理解していること、

さらに、この問いを理解した上で、「この車は黄色だ」と答えうるためには、「この車は青色だ」と他の誰かが答えた時に、「いいや、この車は青色ではない」と言える必要があります。つまり、「黄色」を「青色」(また「赤色」や「白色」や「銀色」など)から区別できる必要があります。そして、「この車は青色だ」が偽であると分かるためには、「この車は青色である」という知覚報告を理解し、またそれに対応する視覚経験を想像できることが必要です。

 つまり、「これは黄色い」を認識できるためには、「黄色」の視覚経験をもつだけでなく、「青い」の視覚経験を想像できることが必要です。そして、「これは青くない、これは黄色だ」とおもう(信じる)ことが必要です。つまり、「これは黄色い」という知覚的信念の志向性が成立するには、知覚だけでなく、想像と信念の志向性も同時に必要です。これは「複合的志向性」だといえるでしょう。

 ある視覚経験を「黄色」の視覚経験として持つことは、「複合的志向性」として成立します。ここには、推論関係も働いています。「黄色」の視覚経験であることを理解しているとき、それが「青色」や「赤色」や「白色」や「黒色」の視覚経験ではないことの理解を伴っています。さらに、そのような消極的な関係の理解だけでなく、積極的な関係の理解、つまり、その車が黄色いという事実からその「黄色」の視覚経験が生じているという理解を伴っています。

 より一般的に言うと、ある知覚経験が、言語的に分節化された(あるいは、概念的な内容を持つ)知覚経験であるためには、知覚だけでなく、想像、信念、などの志向性から複合されている必要があり、他の志向性と推論関係にある必要があります。

 次回は、上記の知覚の考察が、サールの「志向的因果性」の概念とどう関係するかを、考えたいとおもいます。