[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
記憶は、何かについての記憶であり、「ついて」性をもつので志向性の定義にあてはまります。たとえば「3.11の津波」の記憶のように、多くの記憶は知覚の記憶です(私の場合TVの映像の知覚ですが)。しかし記憶には、知覚の記憶だけでなく、出来事の記憶や、名前の記憶や規則の記憶や語の意味の記憶などもあります。そしてこれらすべての記憶には真偽があります。つまり、記憶は事実と一致する必要があります。したがって、記憶は、知覚と同じ「適合の方向」、つまり心的状態を世界に一致させるという「適合の方向」を持ちます。
記憶がサールの言うように「志向的自己言及性」をもつならば、記憶の充足条件は次のようなものになるでしょう。
①2011年3月.11日に大津波があった。
②2011年3月.11日に大津波があったことが、その記憶を引き起こしている。
津波の記憶が記憶であるためには、①を意識しているだけでなく②を意識していることがひつようです。
サールは、「志向性の原始的な形式」は知覚と意図的行為(行為内意図)であり、「これより一段階上の水準」に、記憶と先行意図があり、さらに「それより一段階上の水準」に信念と願望があるといいます(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。これらのすべてについて順番に説明しますが、ここでは、記憶が知覚より一段階上である理由を確認したいと思います。
サールによれば、知覚においては、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、環境が原因となって動物の内部に知覚が生じます。これに対して、記憶においては、「知覚を充足条件に含む表象であり」「因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない」、記憶が表象するのは過去である、とされる。例えば、「3.11の津波」の記憶は、3.11に津波があったという事実を充足条件としますが、しかし記憶はその事実と直接の関係を持つのではなく、TV映像の知覚を介している。3.11の津波は、過去の事実であり、その記憶は現在のものであり、時間的に隔たりがあります。
『志向性』では、知覚は「提示」(presentation)であるが、記憶は「表象」(representation)であるという違いも指摘されています(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房133)。知覚は知覚対象の提示ですが、記憶は記憶対象(出来事)を直接に提示するのではなく、その知覚像を介して記憶対象を表象するということでしょう。
ただし、記憶は知覚の記憶であるとは限りません。たとえば、漢字の書き順の記憶のようなものは、どうでしょうか。漢字の書き順は、出来事や対象のように、時空間上に座標を持ちませんし、過去、現在、未來に妥当するいわば無時間的なものです。この場合でも、この記憶は規則の「表象」だと言えるかもしれませんし、また記憶は、充足条件(規則の存在)と直接にコンタクトするのではないと言えるかもしれません。しかし、記憶は、長期記憶と短期記憶の区別などもあり、とにかく多様です。通常の記憶ですら、超短期の記憶の働きを必要としている可能性があります。知覚と記憶の関係は、サールが考えているよりも、錯綜している可能性があります。
次回は、その問題と、記憶もまた問いに対する答えとして成立することについて、考察することにします。