36 行為内意図と実践的知識は同一か? (20210319)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 前々回(34)に、「実践的知識」と「行為内意図」の違いを説明しました。前者は記述であり真理値を持つのに対して、後者は意図表明であり真理値を持ちません。「何をしているのですか?」と問われて、観察によらずに即座に「コーヒーを飲んでいます」と答える時の答えが「実践的知識」です。その時のコーヒーを飲む行為に内在する「行為内意図」は、「コーヒーを飲もう」となると説明しました。

 しかし今回サールがこの二つを同一視していることに気づきました(私は以前にその個所に傍線を引いて読んでいたのに、不思議なことにその内容を忘れてしまっていたのです)。サールは次のように言います。

「われわれは次の事実がいみするところに強く印象づけられるのを認めざるをえない。すなわち意識生活のいかなる場合においても人は「君はいま何をしているのか」という問いに対する答えを観察によらずに知っているという事実である。多くの哲学者がこの事実に気づいていたが、私の知る限り誰もその事実が志向性にとって意味するところを追求しては来なかった。自分がしたことに結果について誤解している場合でさえも、人は自分が何をしようとしているか知っている。」127(強調と下線は入江の付加)

実践的知識は「自分が何をしているのか」への答えであり、行為内意図は、「自分が何をしようとしているのか」への答えである。行為内意図の表明が答えとなる問いは次のようなものになるでしょう。

  「君は何をしようとしているのか」

  「私はいま何をしようとしているのか」

しかし、サールは、ここでそれらを区別していません。つまり、アンスコムの言う実践的知識を行為内意図の表現であると考えています。そのように考える時、彼は次の二つを区別しないことになります。

  「コーヒーを飲んでいる」

  「コーヒーを飲もうとしている」

ところで、サールは、先行意図の言語形式を

      “I will do A”「私はAしよう」ないし

   ”I am going to do A”.「私はAするつもりだ」

行為内意図の言語形式を

   ”I am doing A”「私はAしている」

と説明しています。行為内意図のこの言語形式は、実践的知識の表現形式にもなるものです。

 もし「私はAしている」を実践的知識の表現であり同時に行為内意図の表現でもあると考えると、この発話の適合の方向は両方向になるでしょう。これは宣言型発話の一種であることになります。この場合には、行為内意図の表明が答えとなる先述の問い

  「君は何をしようとしているのか?」

  「私はいま何をしようとしているのか?」

これらはともに、宣言を答えとする問いであることになります。

(行為内意図と実践的知識を区別するべきかどうかについて、私はいま決定することができません。ここではペンディングとします。これまでは、いろいろなところでこの二つを区別して論じてきましたので、あるいは修正の必要があるかもしれません。)

いずれにせよ、先行意図と行為内意図がともに(暗黙的な問いであれ)ある問いに対する答えとなること、そして、それらの意図が明確に意識されるのは、それらが、意識的な問いへの答えとなるときあることを主張したいと思います。(以上が、まだ十分な論証と言えるものになっていないことは認めます。)

 次に、志向性としての「信念」の考察に移りたいところですが、その前にサールによる「表象」と「提示」の区別について検討したいと思います。