[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
今回は、信念と願望が、問いに対する答えとして成立することを説明したいと思います。
私たちが、信じているものは非常にたくさんあります。例えば、私は地球が回っていると信じているし、地震がいつ起こるかもしれないと信じているし、コロナが終息していないと信じています。しかし、常にこのようなことをすべて意識しているのではありません。このような信念を「広義の信念」と呼ぶことにします。では、どうして、これらは信念と呼ばれるのでしょうか。それは、「地球は回っていますか」と問われたら、即座に観察によらずに、「はい、回っています」と答えるからです。「広義の信念」は次の同値性文で定義できるでしょう。
「Xさんはpを信じている」⟷「もしXさんが「pですか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pです」と答える」
この場合、暗黙的であった信念「p」を明示化しているのですが、これは想起の一種、つまり記憶の一種なのでしょうか。もしそうならば、因果的自己言及性を持つことになります。しかし、明示化された信念は、その充足条件の中に、その信念が暗黙的であったことを意識することを含んでいないので、因果的自己言及性を持ちません。つまり、記憶の一種ではありません。
他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある信念を意識していることがあります。このような仕方で信念を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「なぜ、太陽や月や星は、東から出て西に沈むのだろうか」と問うて、「地球が西から東に回っているからだ」と答える場合です。この答えを得る時には、ほとんどの場合、何らかの推論が行われます。他の場合はないのではないでしょうか(今のところ私には、思いつきません)。
願望についてはどうでしょうか。願望についても、信念と同じく、人は意識していない多くの願望を持っています。たとえば、「死にたくない」という願望を常に意識しているわけではありませんが、意識していないときにもその願望を持っているといえるでしょう。例えば、ステーキを食べたいとか、ケーキを食べたいという願望をもっていても、常に意識しているわけではありません。それでも、もし私が「死にたくないですか」と問われたら、即座に観察に寄らず「はい、死にたくありません」と答えます。したがって、信念と同じように、この「広義の願望」をもつことは、次のようなことです。
「Xさんはpを望んでいる」⟷「もしXさんが「pを望みますか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pを望みます」と答える。
このような暗黙的な願望を意識帰する場合にも、その「意識された願望」は、因果的志向性をもたないでしょう。では、このような多くの「広義の願望」の中で、ある願望を意識するとすれば、それはどのような場合でしょうか。一つは、上のような問いに答える場合です。
他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある願望を意識していることがあります。このような仕方で願望を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「宝くじに当たったら、何がしたいですか」と問われて、「とりあえず貯金したいです」と答えるような場合です。
以上のように、サールのいう6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)はすべて、問いに対する答えとして成立します。
ところで「信念」や「願望」と似たものに「想像」があります。ただし、サールによれば、「想像」は適合の方向を持ちません。「想像」とは何か、それを志向性と言えるかどうか、想像もまた問いに対する答えとして成立するのか、を次に検討したいと思います。