[カテゴリー:問答の観点からの認識]
前回述べたように、次の「錯覚論証」におけるaからbは帰結しません。
a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。
b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)
c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)
d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)
bを否定して、知覚と錯覚・幻覚が、異種であるかもしれないというだけでなく、それらが異種であることを主張しようとするには、別途追加の根拠が必要であり、それを検討したいと、前回予告しました。
しかし、aからbが帰結しないのならば、それだけで錯覚論証を批判するには十分です。もちろん、まだ知覚と錯覚・幻覚が同じ種類の経験である可能性はのこっていますが、それを証明できていないのですから、錯覚論証の批判としてはこれで十分です。(以前に、錯覚論証についてのいくつかの批判を検討すると予告しました。錯覚論証については、aについても、cについても、批判が可能かもしれませんが、それらの検討は行わないことにします。もし必要になれば、言及することにします)。
こうして、錯覚論証が失敗したとすると、それが否定しようとしていた素朴実在論を改めて取り上げて、検討する必要が生じます。
素朴実在論とは、私たちが知覚しているのは、対象そのものであると考える立場です。とりあえず、次の二つの問題を考えたいとおもいます。
1、素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか。
2,素朴実在論は、錯覚や幻覚のように私たちが知覚しているものが、対象そのものではない場合をどう説明するのでしょうか。