13 生物進化と素朴実在論の親和性(20210527)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

私が机の上のマグカップを見て手に取る時、それは私の頭の前方にあります。私がマグカップを見ているとき、同時に机も、パソコンも、私の手も見えていますが、眼を閉じるとそれは見えません。しかしそれは見ていたところに存在し続けているでしょう。そのことは、手でマグカップを持ち続けていること、私の腕の位置の感覚、体の姿勢の感覚がかわらないことと整合的です。

 眼を開けると、また机の上が見えます。対象からの光が眼に入り、網膜で視神経を刺激し、そのニューロン発火が脳につながり、そこで他のニューロンを発火させ、それらが視覚を生じさせるのです。そうすると、その視覚は頭の中に生じるのでしょうか。しかし、動物が生存のために視覚を獲得したことを考えると、マグカップがあるところに、つまり頭の前方にマグカップを見ることが必要です。もし別のところにマグカップをみたり、実際にあるのとは別様にマグカップをみたりしたら、それは生存の役に立たないだけでなく、かえって危険です。以上から、やはり次の二つは真であると思われます。

  ①脳内のニューロン発火で視覚が生じること

  ②見えている対象は、頭の前方にあること

しかし、一見するとこの二つは矛盾するようにみえるのです。どう考えればよいのでしょうか。

ある事例を考えてみましょう。それは「逆さ眼鏡」の事例です。「逆さ眼鏡」とは、ゴーグルのような外見の眼鏡で、内部のプリズムによって左右反転の像(や上下反転)の像が見えるようになっているものです。これをかけると視野前提が左右反転(や上下反転)して見えます。したがって、見えている物の位置と眼を閉じて手で触るものの位置がずれます。しかし、それをつけて一週間ほど過ごせば、正常に見ることができるようになるそうです。ただし、一週間その眼鏡で生活して慣れた後に、眼鏡をはずすと、視界が反転して見えるそうです。

ところで、この逆さ眼鏡の実験は、見えている通りに物があるのではない、ということを示しているのではありません。なぜなら、たしかに当初は左右反転(ないし上下反転)して見えます、つまり実際のあり方とは、違っているように見えますが、しかし、一週間すると見えている通りに物があると感じられるようになるのですから、逆さ眼鏡をしても、慣れれば、見えている通りに物があると言えるからです。

ここで、次の例を考えましょう。三人の人A、B、Cがいて、Aは左右逆さ眼鏡をかけ、Bは上下逆さ眼鏡をかけ、Cはなにもかけていないとしましょう。AとBが逆さ眼鏡をかけて一週間たったとき、AとBとCはそれぞれ、対象が見えている通りにあると思っています。彼らにマグカップを指さすように言えば、同じ対象を正しく指さすでしょう。AさんとBさんは、視覚空間と触覚空間のずれを、一週間かけて調整し終えているからです。

この場合は、触覚空間が基礎になり、逆さ眼鏡の場合も含めて、視覚空間はそれに一致するように調整されると考えると、Aさん、Bさん、Cさんが世界そのもの、対象そのものを見ていると考えることを、うまく説明できそうです。

触覚は視覚よりも基礎的な感覚であるように思われるのですが、触覚の場合でも上記の二つに似たことが成り立ちます。

  ①脳内のニューロン発火で触覚が生じること

  ②触っている対象は、頭の前方にあること

指や手の触覚は、指や手の運動、腕の運動、体の運動と結合しており、手をどう動かせば、どのようなに感じるかを、記憶し、予測できるようになります。手は腕の先にあり、腕は胴体から伸びており、胴体の上に頭があります。そうしたことも、触覚や視覚でわかります。脳内のニューロン発火で触覚が生じるはずですが、触覚は物に触っている指や手の表面で生じます。また鉛筆を持って、眼を閉じて机の上のものを触ってみれば、鉛筆の先で対象を感じることができます。この場合も、その触覚は大脳の内部のニューロンの発火によって生じるはずです。私たちは、脳のどの部分が発火しているかを感じることはできません。そのような感覚器官がないからです。私たちは、その触覚情報をどこかに位置付けなければなりません。大脳の中のあるニューロン・クラスターの発火が、ある触覚を生じさせます。そのとき、例えば対象の表面がザラザラしていることが分かるとします。ザラザラしたその対象の表面は、鉛筆の先で触っているところであり、頭の前方にあります。これもまた、視覚の場合と同様に、矛盾するように思われます。

もっと原初的な例を挙げます。指先に棘が刺さって痛いとき、痛みは指先にあります。それを感じるのは大脳です。ここで、他者との間に次のような問答を考えることができます。「どこが痛いですか?」「指先です。」しかし自問自答の場合には、「どこが痛いのだろうか?」「指先が痛い」という問答はありえません。なぜなら、痛みの感じには、つねに場所の特定が伴うからです。したがって、痛みについての自問自答は、次のようになります。「どこか痛いだろうか?」「指先が痛い。」ただし、痛みの場所の特定については、その特定が大まかで曖昧な場合があります。例えば、歯が痛い場合には、鏡を見ながら歯や歯茎を触ってみなければ、どの歯が痛いのかを特定できないということがあります。それでも、とにかく痛みの感覚には、痛みの場所の理解が伴うと言えます。(おそらく、全ての感覚について、場所の特定がともなうと言えそうです。)

 痛みの場所が分かることは、指を挟まれて痛いとき、足を踏まれて痛いときなどに、おもわずそれらを引っ込めるという無条件反射が成立するために必要なことです。その他の無条件反射の場合も同様でしょう。対象そのものを見ること、つまり見ている通りに対象があること、対象そのものに触れていること、つまり触れているところに対象があること、これらがもし実現されていないのならば、生物は生存のために感覚器官をもつ必要がないでしょう。素朴実在論は、生物の感覚器官の進化の説明と一致すると思います。

以上は、上に述べた①と②が共に成立していることの必要性を示しただけであり、その二つの結合の仕方についての説明としてはまだ不十分です。次回は、「投射」による説明を検討したいと思います。