09素朴実在論と脳科学を結合するとクラインの壺になる(20210519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚や思考は、脳内のニューロンの発火パターンに付随するものだとしましょう。そうすると、その知覚と思考は、脳の内部にあることになります。たとえば、私が、机の上のマグカップを手でつかんでいるのを見る時、その視覚像は、私の脳の内部にあることになります。ところで、私の脳は、眼の奥にあり、カップと手は眼の前方40センチくらいのところに見えます。この視覚像が、私の脳の内部にあるのだとすると、私の眼と頭も、私の脳の内部にあることになります。

この説明は矛盾しているように感じられますが、本当に矛盾しているでしょうか。両手で頭をさわるとき、頭は両手の間にあり、脳はその頭の内部にあるはずです。他方、私が触っている頭も両手も、脳の内部に成立しています。脳の外部に出て手やマグカップにたどり着いたと思ったら、脳の内部に入っていたという次第です。まるでクラインの壺のようです。しかし、クラインの壺には、論理的な矛盾はありません。それを作ることもできます。

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クラインの壺に矛盾がないように、上記の説明には矛盾はないかもしれません。しかし、ここには次のような説明の循環が生じます。脳科学ないし神経科学の成果が、大脳のニューロンの発火に付随する外界の認識が発生することを説明したとしましょう。これによって、外界についての私の認識の発生は説明され、この認識の一部として科学ないし神経科学の成果が得られたとするとき、脳科学の成果が、脳科学の成果の正しさを証明することになります。つまり、説明の循環が生じます。

このようにある主張を証明できないときに、私たちにとれる戦術は、一般に次の二つです。

一つは、その主張を批判する主張ないしその主張と矛盾する主張を反駁することです。

もう一つは、その主張から(広い意味で)有用な主張が帰結することを説明することです。

(さてどちらから取り掛かりましょうか。それとも整合性についての説明がまだ不足しているでしょうか。もし不整合に気づかれたら、コメントをお願いします。)