07 素朴実在論は脳科学と両立するのか(2)(20210513)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 私は脳科学の知見と素朴実在論は両立可能であろうと推測します。もし、両立しないところがあれば、修正すべきは素朴実在論の方だろうと思います。なぜなら、脳科学の知見は経験的にテストされているからです(もちろん、科学方法論の検討は別途行わなければなりません)。

 他方、脳科学の知見に基づくある種の哲学説と素朴実在論が両立しないときには、脳科学の知見にもとづく哲学説の修正も考える必要があります。なぜなら、この場合には、哲学説同士の論争になるからです。

 素朴実在論は、知覚において対象そのものを捉えていると考えます。しかし、日常生活で、私たちは、対象についての次のように考えています。

   ・眼を閉じたときに対象がなくなるとは考えない

   ・眼鏡を動かして、視覚像が揺れる時、世界が揺れているとは考えない

   ・眼鏡をはずして世界がぼやけて見える時、世界そのものが変化しているとは考えない。

つまり日常生活でも私たちは、見えている通りに世界があるとは考えていません。したがってその意味では、見えと世界そのものや対象そのものを区別していると言えます。(本がぼやけて見える時、それは、完全な知覚とは言えませんが、錯覚や幻覚ではないと思います。つまり、知覚についての二分法(真正な知覚と、錯覚・幻覚)は、無理がありそうです。)これらを考慮すると、「素朴実在論」の理解を少し修正する必要があります。 

 私は「素朴実在論」を<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>と定義しましたが、この「対象を直接に捉える」の部分を緩めて理解してほしいと思います。眼鏡をはずして本を見た時、文字がぼやけたとしても、ぼやけた文字が存在しており、それをそのままとらえているとは考えません。私たちの日常生活での知覚は、錯覚・幻覚ではないけれども、ぼやけて、曖昧で、不安定なものです。明確な知覚イメージを持つということはほとんど不可能です。それはエナクティヴィズムのノエが主張しているとおりです。エナクティヴズムの知覚理解や、ギブソンのアフォーダンス論の知覚理解が、素朴実在論で想定するときの「知覚」にふさわしいだろうと考えています。私たちは、眼鏡をはずして、本をぼんやりとみている場合にも、「本そのものを見ている」と言うでしょう。日常生活での「物を見ている」の用法は、明確な知覚イメージを介するものには限らないのです。

私たちは、眼鏡を動かして、部屋が揺れて見える時、部屋そのものは揺れておらず、そのあたりにそのままあると考えますし、揺れていない部屋を見ていると考えています。眼鏡をはずして、本がぼやけて見える時でも、本に眼を近づければ文字ははっきりと読めるようになります。眼を戻せば、文字はまたぼやけて見えますが、印刷された文字そのものはそこにぼやけずあると考えます。眼がわるい人間は、ぼやけて見える時はいつも「何と書いてあるのだろうか」と問い、より鮮明に見ようとします。その答えとして、より鮮明な知覚を得ます。知覚するときは、どんな形、どんな大きさ、どんな色、どんな味、どんな音、どんな暖かさ、どんな感じ、等を問いながら知覚します。私たちは、知覚像を見るのではなく、知覚を介して、対象そのものをみようとしています。

さて、このような素朴実在論と脳科学の知見の関係は、どうなるでしょうか。例えば、机の上のマグカップにあたった光が反射して目に入り、網膜像を形成し、神経を発火させそれが脳まで伝わります。これを調べている脳科学者にとっては、これらのことは、直接眼でみたり、計測機器で確認できることです。机の上のマグカップは、脳科学による説明では、知覚の原因ですが、その原因から惹き起こされる知覚の対象でもあります。したがって、次のように言いたくなります。

「そこのマグカップで反射した光が、眼に入って、網膜像を形成し、それが視神経を発火させ、その発火が大脳に伝わり、そこで生じるあるニューロン・クラスターの発火が、いま見ているマグカップの像を作っている。」

この説明を整合的に理解するためにはどのように解釈したらよいでしょうか。この説明に登場する二つの「マグカップ」は、同一の対象を指示していると理解することは、整合的でしょうか。一つ目の表現「そこのマグカップ」が指示するのは、言い換えると「そこに見えているマグカップ」が指示するものです。そのマグカップそのものと、それの見えは、私の視力やその他の状況のために(位置や形や色や模様が)多少ずれていてもかまわないとします。それでもおおよそそこに見えているようなマグカップが存在すると考えるからです。

 次に、二つ目の表現「いま見ているマグカップの像」は、「<いま見ているマグカップ>の像」を意味しています。ここでの「マグカップ」は、最初の「マグカップ」と同一の対象を指示しています。

(この個所を「いま見ている<マグカップの像>」と解釈することはできません。なぜなら、わたしたちが見ることができるのは、ある物であり、その「知覚や知覚像」ではないからです。私たちは、マグカップを見ることができるし、マグカップの絵や写真などを見ることができます。しかし、マグカップの知覚像を見ることはできません。なぜなら、マグカップの知覚は、一定の視点から一定のゲシュタルトでマグカップを見ることですが、そのような一回的な知覚(写真のように一瞬の見えを固定したものを)想像することはできても、見ることはできないからです。ライルやオースティンの議論をまとめることは難しいのですが、かれらも同じようなことを考えていただろうと思います。)

このように解釈するときこの命題が整合的であるとすれば、脳科学による知覚の説明と素朴実在論による知覚の説明は両立するでしょう。次回は、これをもう少し詳しく考えてみます。