[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]
ある人の人生の目的は、その人の「私は何のために生きるのか」という自問への答えです。この答えが、「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」であったとしましょう。しかし、また他方で、その人は「私は、私の子どもの幸せのために生きる」と答えるとしましょう。そして、仮にこれらの目的の皿により上位の目的を遡ることができるとしても、その2つの系列が交わることがないということがありうるでしょう。このような系列は、2つ以上あるかもしれません。
平野啓一郎の「分人主義」を想定するならば、「私は何のために生きるのか」という問いに対する答えが、複数あることになります。あるグループにおけるその人の最終目的と、別のグループにおけるその人の最終目的は別のものであり、しかもそれらのより上位の目的を遡っていったとしても、それらが一つの目的に収斂することはないということになるでしょう。「私は何のために生きるのか?」という問いを、分人のおのおのが独立してとうことになります。
(「分人主義」については、カテゴリー「戦後日本の自我論」の2~8を御覧ください。)
それで? と問われそうですが、考えたのは今のところここまでです。