27 多くの経験判断は知覚報告に還元されない (20210627)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

多くの経験判断は、最終的には何らかの知覚報告に基づいています。しかし、知覚報告だけに基づいているのではありません。言い換えると、多くの場合、経験判断を知覚報告と推論だけから構成することはできません。経験判断を知覚報告と推論だけから構成することを、「経験判断を知覚報告に還元する」と言うならば、多くの経験判断は、知覚報告に還元されません。これに関して、いくつかの例を挙げ、分類し、その原因を説明し、そのような経験判断が成立する理由を説明し、その正当性を検討したいとおもいます。ただし今はまだ満足のできる仕方でそれを分類できないので、とりあえずいくつかの例を挙げることから始めます。

・全称判断は知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は単称判断だからです。よく挙げられる例「すべてのカラスは黒い」は知覚報告から証明することはできません。なぜなら、これを証明しようとするとき依拠できる知覚報告は「このカラスは黒い」という単称命題になるからです。

・傾性判断は、知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は現在形の判断だからです。よく挙げられる例には「水溶性」「壊れやすい」などがあります。「塩は水溶性である」とは、「もし塩を水に入れたら、塩は水に溶ける」という意味ですがが、これを知覚報告から証明することはできません。一つには、これが全称命題だと言ことがあります。これが全称命題であるので、単称にする必要がありますが。単称にすると次のようになります。「この塩を水に入れたら、この塩は水に溶ける」。しかし、これもまた知覚報告ではありません。これを水に入れたときには、「この塩は水に溶けている」と知覚報告できますが、この塩を水に入れていない段階では、それが水溶性であるかどうかを語ることはできません。つまり、「この塩は水溶性である」を知覚報告に還元することはできません。

 重要なことは、<ほとんどの性質を表現する語は、ほとんどの場合傾性語として使用されている>ということです。例えば、ひとが「これは青い」というとき、一分後もそれが青いままであることを含意していることがほとんどでしょう。この意味で使用されるとき、「青い」は、「或る程度時間がたっても青いままである」という傾性語であり、その意味で「それは青い」が語られるとき、それを知覚報告だけから証明することはできません。知覚報告だけで証明できるのは、「今これは青い」とか「今これが青く見えている」だけです。

 傾性判断が知覚報告に還元されないのは、知覚報告が現在形の文だからです。傾性判断は、条件法をもちいて、その後件で知覚報告をもちいて表現されますが、知覚報告は直接法現在形の文であるので、傾性判断を知覚報告に還元することはできないのです。

・経験的否定判断は、知覚報告を超えています。「財布がない」という判断は、知覚報告には還元できません。「机の上に財布がない」「ズボンの中に財布がない」仮にこれらを知覚報告と呼ぶことにしたとしても、これらの報告を(経験的に)網羅することはできません(なぜなら、大抵は予期しないところが、財布が見つかるからです)。このような意味で「財布がない」は知覚報告に還元できません。(このケースをどのように分類すべきは、ペンディングにしておきます。)

・種述定判断は、知覚報告を超えています。ここに「種述定判断」というのは、ある対象が属する種を特定する判断です。例えば、「これはリンゴです」がそれです。これは、例えば「これはリンゴですか」という問いに対する答えになりますが、これに答える時、

  「これはどんな色か」

  「これはどんな形か」

  「これはどんな大きさか」

  「これはどんな味か」

  「これはどんな香りか」

などの多くの問いを自問自答して「これはリンゴです」と答えることになるでしょう。しかし、これらの種々の問いのへ答え(知覚報告)から導かれる答えは、論理的には「リンゴ」以外にもありえます。それはリンゴによく似た別の果物かもしれないからです。したがって、種述定判断は、知覚報告には還元されません。「リンゴ」という語(対象)を学習する過程は、「あかい」という語(性質)を学習する過程と同じようなものであり、「これは赤い」が知覚報告であるならば、「これはリンゴである」もまた知覚報告である、という反論があるかもしれません。この反論を認めるとすると、「それ自身が知覚報告ではない種述定判断は、知覚報告に還元できない」ということになります。

知覚報告に還元されない経験判断には、他にどのようなものがあるでしょうか。

このことから何が帰結するのでしょうか。

26 知覚報告の特徴(現在形) (20210627)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回最後に一つの問いと一つの気がかりを述べました。

まず問いについては、次のように答えたいと思います。

①「<肯定的と否定的の区別は、事実の区別ではなく、事実についての記述の区別だ>と言えるとすると、知覚についても同様に<肯定的と否定的の区別は、知覚の区別ではなく、知覚についての記述の区別だ>と言えるでしょうか。しかし、危険な山道のような、ネガティヴなアフォーダンスがあります。これをどう考えたらよいでしょうか。」

確かに、危険な山道のようなネガティヴなアフォーダンスがありますが、正確に言うならば、アフォーダンスそのものには肯定的と否定的の区別はなく、アフォーダンスの記述に肯定的と否定的の区別があるのだと考えたいとおもいます。

 次に気がかりのほうですが、これについては次回以後に考えることにして、今回は知覚報告の第三の特徴(現在形)について考えたいと思います。

 知覚は、つねに現在の状態や出来事の知覚ですが、それは何故でしょうか。言い換えると、私たちには、過去の状態や出来事を知覚することはできませんし、未来の状態や出来事を知覚することもできません。それは何故でしょうか。それは、私が知覚している状態や出来事を、「現在の(あるいは「今」の)状態や出来事として定義するからだと思います。私たちは、知覚している世界を、「現在の(あるいは「今」の)」世界として定義しているのです。

 ところで、私たちが知覚している状態や出来事は、一瞬のものではなく、多くの場合一定の時間経過を含んでおり、その内部の要素間に前と後の区別があります。そしてそれらを知覚すること自体も、瞬間としての現在において成立しているものではありません。たいていの場合、知覚の成立には、ある程度の時間持続が必要です。一瞬だけ物を見ても、それが何であるか、それが何色であるか、それがどんな形であるか、などを知覚することはできません(状態の知覚)。滝の知覚、波の知覚、鳥の鳴き声の知覚、クマがこちらに近づいて来ることの知覚など、運動や動作の知覚は、ある時間経過の知覚です(運動や行動の知覚)。ところで、時間経過する出来事の知覚自体も時間経過を必要とするはずです。また、イヌが何かを食べていることを知覚するには、単に口が動いていることを知覚するとき以上に、より長い時間がかかります。

 時間経過の知覚は、変化そのものを知覚しているのでしょうか。それとも知覚の変化の記憶に基づいて時間経過を判断しているのでしょうか。夜が明ける、日が暮れる、という判断は、長い時間を必要とするとので後者であるかもしれません。日の出から日没までの変化については、確実に後者になります。この二つの間の境界は曖昧であり、明確に区別できないでしょう。短いメロディーでなく、長い一曲になるのと、その変化は、記憶によってとらえられるものになるでしょう(小林秀雄によれば、モーツァルトは、一曲を丸ごと知覚できたそうです。その場合、モーツァルトは、一曲全体を「今の」出来事として知覚したでしょう。)。

 物の状態を知覚するのにも時間経過が必要ですし、時間経過をもつ運動や動作の知覚にも時間経過が必要です。それらの時間は「現在」あるいは「今」として理解されます。

 <私が知覚している状態や出来事が、「今の」状態や出来事である>と「今」を定義するとき、想起された知覚は「以前の」あるいは「過去の」知覚であり、<想起された状態や出来事は「以前の」あるいは「過去の」出来事である>と定義されます。逆に言うと、<「過去の」状態や出来事とは、想起された状態や出来事です>。

 私たちが知覚するのは、現在の状態や出来事であるので、知覚報告は、現在の状態や出来事の報告となり、その文は「それは青い」のような現在形となります。過去の知覚についての想起にもとづく報告ならば、「それは青かった」のように過去形になります。これはもちろん知覚報告ではありません。

 (私たちが日常的に使用する、3分待つとか、2時間前です、一週間後とかの時間意識は、数概念や数の体系を用いています。それは単なる知覚報告ではなく、発達した概念枠組みの中で可能になる時間意識です。私たちは、訓練すればそのような時間経過を知覚できるようになるでしょう。10秒という時間経過や一時間という時間経過を知覚できるようになるかもしれません。「それは青い」という知覚報告が、色名の体系の学習を前提するように、「10秒経ちました」という知覚報告も、時間の概念体系の学習を前提します。このような報告を知覚報告に入れるかどうか、そもそも知覚報告とその他の経験的報告をどう区別するか、これらは今後の検討課題です。)

 次回からは、知覚報告を含めた経験判断一般、あるいは経験的認識を考察します。経験的認識の基礎となるのは、知覚報告であると思われるので、知覚報告とその他の経験判断との関係を考察したいと思います。

25 発言の修正:事実に肯定的と否定的の区別はない (20210624)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回「肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」と述べ、最後に次の二つの問いを立てました。

①「「それは青くない」は、例えば、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」と言う仕方で他の肯定的知覚報告からの推論によって、主張される場合があります。その場合には、他の記述(他の肯定的知覚報告)からの推論による記述だといえるでしょう。では、この場合の「それは青くない」に対応する否定的事実があるのでしょうか?」

②「否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?」

まず①の問いについて。もし、<「それは赤い」という肯定的知覚報告から、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」という推論によって「それは青くない」と主張する場合には、この否定判断が否定的事実を記述しており、「それは青いですか?」という問いに「いいえ、それは青くない」と答える場合には、否定的事実を記述していない>のだとすれば、すこし奇妙です。なぜなら、否定的事実があって、知覚報告を介した推論ではそれに到達できるが、直接的な知覚報告ではそれに到達できない、ということになるからです。したがって、①の問いには「いいえ」と答えるのがよいでしょう。

 ところで、<「それは赤い」という事実の記述と、「赤いものは青くない」から、「それは青くない」と推論するとき、この結論が事実を記述している>と言えるとすると、結論の「それは青くない」は事実の記述ではあるが、否定的事実の記述ではなく、事実の否定的な記述であると語るべきなのでしょう。

 そうすると、<「それは赤い」という肯定的知覚報告もまた、肯定的事実の記述ではなく、事実の肯定的な記述である>と語るべきではないでしょうか。

私の説明を修正したいとおもいます。

前々回の最後の問いは、こうでした。

「知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか?」

これに対する前回述べた答えはこうでした。

「肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」

しかし、この答えを次のように修正したいと思います。

「肯定的知覚報告は肯定的事実の記述ではなく、事実の肯定的記述であり、否定的知覚報告は否定的事実の記述ではなく、事実の否定的記述である」

一般的に、「事実には肯定的事実と否定的事実の区別はなく、事実の記述に肯定的記述と否定的記述の区別があるだけだ」と考えたいと思います。このように考える時、問い②「否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?」にも「いいえ」と答えることになります。

さて、知覚報告の第二の特徴(肯定判断)についての当初の提案(知覚報告は大抵は肯定判断になる)について、どう修正すべきでしょうか。

<肯定的と否定的の区別は、事実の区別ではなく、事実についての記述の区別だ>と言えるとすると、知覚についても同様に<肯定的と否定的の区別は、知覚の区別ではなく、知覚についての記述の区別だ>と言えるでしょうか。しかし、危険な山道のような、ネガティヴなアフォーダンスがあります。これをどう考えたらよいでしょうか。

もう一つの気がかりは、前回の次の説明です。

「「それは青いですか?」という問いに対して、「はい、それは青いです」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を受け入れていますが、「いいえ、それは青くありません」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を拒否しています。つまり、前者は記述を受け入れ、後者は記述を拒否しています。したがって、前者は記述ですが、後者は記述ではありません。」

仮にこの説明を撤回して、肯定の答えも否定の答えも、知覚(ないし事実)の記述であると見なすとしても、ここで指摘している差異をどのように考えるべきか、迷っています。

24 肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない (20210620)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

否定的知覚報告が事実の記述であるとすると、それが記述する「否定的事実」を認めることになりますが、それは不都合なので、否定的知覚報告は事実の記述ではないとします(この場合、否定的知覚報告を、他の知覚報告からの推論によって成立するものとみなすのが、通例です。ただし、以下に述べるように私は別の説明をとります)。そして、「肯定的知覚は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」と主張したいと思います。

 この主張に対しては、次の批判があるでしょう。これは語の学習プロセスからの批判です。語「リンゴ」を学習するときには、ある対象について、「これはリンゴですか」と問われたら、「はい、リンゴです」あるいは「いいえ、それはリンゴではありません」と答えることを学習し、それを重ねた後で、未知の対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、「はい」ないし「いいえ」を正しく答えられるようになるのです。つまり語「リンゴ」を学習するとは、「それはリンゴです」や「それはリンゴではありません」という知覚報告ができるようになることです。このとき「それはリンゴです」と「それはリンゴではありません」との間に、知覚との関係において差異はないように見えます。(前回述べたラッセルによる冒頭の主張に対する批判も、この批判に似たものです。)

 さて、ここからが本日の眼目です。

 確かに、この二つの知覚報告の間には、知覚との関係において差異がないように見えます。しかし、この二つの知覚報告は、同時に、問いに対する返答でもあります。そして、問いに対する関係においては、この二つの知覚報告の間には、次のような差異があります。「それは青いですか?」という問いに対して、「はい、それは青いです」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を受け入れていますが、「いいえ、それは青くありません」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を拒否しています。つまり、前者は記述を受け入れ、後者は記述を拒否しています。したがって、前者は記述ですが、後者は記述ではありません。

 知覚報告の特徴として、それは肯定判断であり、否定判断にはならないとのべて、前々回と前回の考察をしてきました。しかし、今回の説明では、肯定的知覚報告と否定的知覚報告があること、どちらも知覚との関係は似ているが、問いとの関係は異なること、したがって、肯定的知覚報告は肯定的事実の記述であるが、否定的知覚報告は否定的事実の記述ではないということを述べました。

 「それは青くない」は、例えば、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」と言う仕方で他の肯定的知覚報告からの推論によって、主張される場合があります。その場合には、他の記述(他の肯定的知覚報告)からの推論による記述だといえるでしょう。では、この場合の「それは青くない」に対応する否定的事実があるのでしょうか? 否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?

 これを次に考えたいと思います。

23 知覚報告の特徴(肯定判断) (20210618)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 知覚報告は肯定判断の形式をとり、否定判断にはならない、と考えるのが一般的だろうと思われます。この場合、例えば、「これは青くない」という判断について、知覚を記述した知覚報告だとは考えません。「これは青くない」という知覚報告なされるのではなく、例えば「これは赤い」という知覚報告が真であることから、「これは赤い、赤いものは青くない、ゆえにこれは青くない」という推論によって、「これは青くない」という命題が真とされるのです。

 しかし、ラッセルはこのようには考えませんでした。なぜなら、「これは青い」と「これは青くない」は、どちらが知られる場合にせよ、同じような仕方で、知覚現象から直接に得られるように思われるからです。それゆえに、ラッセルは「これは青い」に対応する事実が存在するように、「これは青くない」に対応する「否定的事実」が存在すると考えました(参照、ラッセル『論理的原子論の哲学』高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、70-76)。

 確かに、「これは青い」も「これは青くない」も知覚から同じように直接に得られるように思われます。この点でラッセルは正しかったでしょう。しかし彼が間違えたのは、「これは青くない」が真の時、対応する事実があると考えたことです。つまり「否定的事実」の存在を主張した点です。

 私が提案したいのは、次のようなことです。「これは青いですか?」という問いが与えられたとき、知覚現象に基づいて、「これは青い」や「これは青くない」という答えが帰結する場合に、これらの判断は、知覚現象に基づいていますが、知覚現象に内容的に対応すると考える必要はないだろうということです。なぜなら、答えの命題内容を、決定するのは、知覚現象だけでなく、問いもそれに関わっているからです。問いにおいて、答えはすでに半分与えられており、知覚現象から残りの半分が与えられると考えられるからです。

 赤いリンゴを見ているときに、「それ白いですか」と問われたら「それは白くないです」と答え、「それは青いですか」と問われたら「それは青くないです」と答え、「これは黄色いですか」と問われたら、「それは黄色くありません」と答えるでしょう。このとき、「それは白くない」「それは青くない」「それは黄色くない」が対応する3つの否定的事実(ないし否定的知覚性質)を記述しているのだと考える必要はありません。

 さてしかし、知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか。

22 知覚報告の特徴(単称判断) (20210615)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告は、相関質問への答えであり、その相関質問の主語が単数であることが多いことが、知覚報告が単数形になることが多くなる理由だといえるでしょう。

知覚報告が知覚の記述であり、知覚の対象が個物であることが多いからだと言えるかもしれません。

#では、知覚の対象はなぜ個物であることが多いのでしょうか?

知覚は常にゲシュタルトをもちますが、言い換えると、ゲシュタルトが知覚の対象である言えます。ゲシュタルト(形態)は、一つの統一、あるいはまとまりをもつ一つの全体であるので、知覚は、常に一つのまとまりをもつ対象の知覚だと言えます。確かに私たちは大抵の場合、多くのものを同時に知覚しています。しかし、その多くのものは、明確なゲシュタルトを持つものとして知覚されているのではありません。それら多くのものはいわば知覚可能なものとして意識されているのです。たとえば、私が階段を降りる時、一段一段を明確に知覚しているのではありません。私は、なんとなく各段を知覚しているにすぎません。そのため、階段を下りた後で、私にはその一段一段を想起することができません。しかし、知覚報告するときの知覚は、意識的な知覚、明確な知覚、明確なゲシュタルトをもつ知覚です。そのため、知覚報告の主語は単数になることが多いのです。

 では、知覚のゲシュタルトは、なぜ一つの統一されたまとまりになるのでしょうか。それは知覚がノエのいう「行為の仕方」であることによるのです。動物の知覚は探索行為と不可分であり、探索行為を導くものだと言えるでしょう。ところで動物や人間などの行為主体は、一度に一つの方向にしか移動できません、つまり基本的に一度に一つの行為しかすることができないのです。その行為の要素となる細かな行為については、同時に複数の行為をしていることがあります。例えば、あるものをつかもうとするとき、そちらに腕を伸ばすと同時に掌を広げて掴む準備をします。しかし、それは、あるものをつかむという一つの行為をすることであり、そのとき同時に、別の物をつかむことはできません。知覚は行為を助けるものであり、行為は一度に一つの行為しかできないので、行為の対象は一つであり、行為を助ける知覚は、一つの対象の状態や運動などを知覚することに向かうのです。

 このように知覚は行為と深く結びついているので、探索(行為)と発見(知覚)は不可分です。探索発見は不可分に結合しており、例えば、餌を探索するときに、仮に餌が見つからなくても、何も発見(知覚)が行われないのではなく、探索の結果として(言葉にすれば)「ここに餌はない」という発見(知覚)が成立しているのです。このように探索と発見は常に不可分に結びついています。

 これに対して問答は、分離しています。元来は、問答は、他者に質問し、他者がそれに答える。あるいは他者から質問され、それに答える、と言う仕方で発生します。従って、問うことは、答えが得られなくても成立しうるし、答えることは、元来の他者の質問に答えることなので、問うことから相対的に独立して成立します。一人で行う自問自答の問答も、このような対話における問答が内面化されて成立することなので、問答は分離しています(もちろん、問いと答えは、意味論的には結合しています)。

 知覚報告の主語は、すでに相関質問の中に登場するはずです。したがって、知覚報告の主語が多くの場合単数になることは、知覚の対象が一つの統一を持つまとまりであるためではありません。むしろ順序は逆なのです。つまり、知覚報告の主語が単数なのは、相関質問の主語が単数であり、一つの個物についての知覚報告を求めているからこそ、その質問に答えるための探求は個物へ向かうのです。

 では、この相関質問はどのようにして発生するのでしょうか。それはより上位の問いに答えるためであると思われます。より上位の問いに答えるために、知覚報告が必要であるとき、それを得るための問いとして、ある個物についての問いが設定されるのです。

 次に知覚報告が肯定判断になるという特性について、検討したいと思います。

21 知覚報告の特徴 (20210613)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(知覚報告とその他の経験判断の関係について説明したいと考え、いろいろと考えてみたのですが、多様な論点があり思った以上に複雑で難しく、スッキリと説明できません。複雑に絡み合った論点を成立するためにも、知覚報告についてもう少し分析しておきたいとおもいます。)

#知覚報告の特徴

 多くの場合、知覚報告は、単称判断であり肯定判断であり現在形です。

 では、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか。私たちは常に多くの対象を知覚しているにもかかわらず、その中から一つの対象を選択してそれについての報告するのは何故でしょうか?それは、知覚報告が、問いに答えるための知覚的な探索の結果である知覚を記述するものであり、問いがすでに一つの対象を選択しているからではないでしょうか。以前にも書きましたが、知覚報告には、一般的につぎのような問答と探索発見の入れ子型の関係があります。

   Q1→探索→発見(知覚)→A1(知覚報告)。

Q1が「これは何色か?」であれば、これの色を探索し、これの色を知覚し、A1「これは白い」と答えることになるので、主語が単数形になるのです。多くの場合、問いにおいて既に主語が与えられています。問いが対象を指示し、答えが述定を与えます。こうして問答によって、指示と述定の結合、主語述語文の知覚報告が出来上がります。

 ただし、問いの主語が複数のこともあり得えます。例えば、「この二つのお皿は似ていますか」に対して、肯定で答えるとき、類似性の知覚報告は、複数形になります。

 「多くの場合、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか?」という問いに対する答えは、「知覚報告の相関質問の主語が、多くの場合単数だからである」となります。知覚報告の相関質問は、知覚に依拠して答えられるような問いです。このよう問いの主語が単数になることが多いのは何故でしょうか。

私たちが知覚できるのは個物だ、という回答では、不十分です。なぜなら、私たちは、複数の対象を知覚できるからです。

 この問題を考えてみます。

20 原-概念は暗黙的な概念である (20210609)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回「知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできない。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなさない。」と述べました。まずこれに補足したいと思います。

知覚(原-概念)は、知覚報告を正当化します。ただしこれは、通常の証明、つまりある命題の真理性から他の命題の真理性を証明することとは、次の二点で異なります。

第一に、知覚には構造がありますが、それが原-概念的構造です。この原-概念と概念の関係は、通常の概念同士の関係ではありません。<白い>ものを見ることが、「それは白い」と語ることを正当化します。それは<白いもの>と「白いもの」の定義に基づいています。この正当化は、定義とその記憶に基づいています。(これは、クリプキがアプリオリで偶然的な真理の例として挙げた「メートル原器は1メートルの長さです」が真であるのと同じ意味で、定義により真です。ただし、ここで知覚を知覚報告で表現することは、定義に加えて、定義の記憶に基づいています。)

第二に、知覚は、原概念ですが、正当化された原-概念ではないということです。知覚は、正当化されません。後で錯覚だと分かる時には、知覚は訂正され、否定されますが、錯覚や幻覚だと分からないとき、その知覚が正当化されているということではありません。なぜなら、知覚は、知覚報告を正当化するが、知覚は、知覚報告によって正当化されることないし、また他の知覚によって正当化されることもないからです。

 ただし、知覚の報告が、他の知覚の報告によって修正されることがあります。これは、知覚が後から錯覚や幻覚であると分かる場合です。

#原概念は暗黙的な概念である。

世界は、多様な仕方で知覚されることが可能であり、そこでは多様な原-概念が可能である。世界が現実にある仕方で知覚されるとき、原-概念が成立する。知覚において、態度や行為をアフォードする(促す)のは、対象や媒質や環境ですが、それらはある主体に対してアフォードするのです。つまり、知覚やアフォーダンスは、対象などと主体との関係として成立するのです。特定の対象と主体とのあいだにも、多様なアフォーダンスが可能ですが、ある対象は、様々な主体との関係において、様々なアフォーダンスを持ちえます。  

 その中である対象がある主体との間に、ある時点であるアフォーダンス(原-概念)が生じているとすれば、それを決定しているのには多くの要因があります。主体の側でいえば、その主な要因は、主体の探索だと言えるでしょう(例えば、ふいに物音がしたときに、動物が何だろうと注意することは、「探索反射」とよばれるようです)。

 このような知覚の記述が知覚報告です。知覚報告は、知覚を変化させないとおもわれます。「それは白い」という知覚報告も知覚を変化させないのです。それゆえにその時の知覚は<白さ>の知覚と考えられています。「それはリンゴだ」という知覚報告も、知覚を変化させず、素朴実在論が正しければ、知覚は事実そのものを知覚しているので、そのものなので、それに対応する事実が成立していることになります。そうすると、知覚報告に使用される概念が、知覚ないし事実そのもの中にも暗黙的に存在することになります。したがって、原-概念は、暗黙的な概念だと考えられます。

 次のように言えそうです。

 <原概念は、暗黙的な概念、あるいは概念化可能な性質であり、それが知覚報告で明示化されるとき、概念になる。原-概念は、動物が世界を知覚するときに成立するものである。アフォーダンスは、言語化すれば「…したい」「…した方がよい」「…できる」「…できない」などの規範的な原概念になる。>

 このような説明で問題がないかどうかまだ確信が持てませんが、このような説明のチェックのためにも、次から、知覚報告とその他の経験判断の関係について考えたいと思います。

20 原-概念について  (20210607)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

動物の知覚にもゲシュタルトがあると思われます。たとえば、光に向かう走性をもつ動物は、光の方向を知覚しています。光の方向は、ゲシュタルトであり、その動物にたいして、光ないし環境は、光源の方向に向かうことをアフォードしています。光の有無やや光の方向を知覚するとき、光の有無や光の方向という区別(原概念、分節化)が環境に内在しています。これは、物理現象であり、物理的な状態、性質、出来事である。カエルには、ハエを見たときに発火するニューロン・クラスタ-があることが知られています。それが発火した時、カエルは、無条件反射で舌を伸ばしてハエを捕まえます。カエルはハエをみたとき、その視覚刺激をハエのパターンとして認識しているのです。そしてそのハエの存在は、カエルに対して舌を伸ばすことをアフォードします。ところで、このような動物の走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動は、物理的現象に反応していると言えるでしょう。

#このような物理現象は、言語が発生する前から存在しますし、それらのゲシュタルトやアフォーダンスの知覚もまた、言語の発生する前から存在するでしょう。そして、物理現象(光、ハエ、など)の定義は、語「光」「ハエ」の定義と同時に成立します。多様な物理現象のなかで、どの物理現象が定義されるのかは、それに対応する語の定義の有用性に依存するでしょう。

ノエは、知覚は原-概念的であるといいます。ノエによれば、知覚は、感覚運動的技能であり、「私が提案したいのは、感覚-運動的技能を、それ自身概念的、あるいは「原-概念的」な技能として考えるべきだということです(アルヴァ・ノエ『知覚の中の行為』門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、299)。

「例えば、感覚-運動的な「概念」とは、明らかに、言語を持たない動物や幼児も所有しうるような種類の技能なのであって、そうだとすれば、動物からの議論〔つまり、動物が知覚はしているが、概念を持っていないという議論〕は支持を得られないだろう。」(同訳299)

知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできません。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなしません。

 t0時のある知覚1がp1「これは白い」を正当化し、その後t1時の知覚2がp2「これは青い」を正当化するとき、p2は、p1とは両立しないので、p2から¬p1が帰結します。p1が否定されることによって知覚1が否定さます。つまり、p1は錯覚ないし幻覚であったことになります。

 とりあえず、物理現象がもつ原-概念と知覚判断の概念の関係をこのように説明できるのではないかと考えました。まだあいまいな部分が残っていますので、それを詰めながら、このような理解でよいのかどうか、検討したいと思います。

19 アフォーダンスの知覚と発話の下流推論 (20210605)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ギブソンは、行為や態度のアフォーダンスは客観的に実在し、それを直接に知覚すると考える(参照、ギブソン『生態学的視覚論』サイエンス社、152)ので、彼の知覚論は素朴実在論と親和的です。今回は、アフォーダンス論をもとに、動物の知覚と人間の知覚の関係、人間におけるアフォーダンスの知覚と発話の下流推論関係との類似性、について説明したいとおもいます。(アフォーダンスの説明については、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の19回~22回の記述を参照してください。)

 動物の場合のアフォーダンスの例は次のようなものです。ミミズは、棲家である穴の中の乾燥を防ぐために穴の入り口に松葉を詰めますが、そのときに、針のようになった先の部分が穴から出ていくときに突き刺さらないように、松葉の元の部分から穴の中に引き込んでいきます。松葉は、ミミズに対して、中から引きこむことをアフォードしています。

 人間の場合の例は次のようなものです。郵便ポストは手紙を入れることをアフォードします。もちろんこれは、郵便ポストがどういうものであるかを知っている人間に対してのアフォーダンスです。

 このようなアフォーダンスは、知覚に続いて一定の行為が続くことを促しています。例えば、熊が渓流をみれば、鮭を捕まえるようにアフォードされます。熊が鮭を探すとき、鮭のいそうな渓流は、そこで鮭を探すことをアフォードします。そしてそこに見つからなければ、他の渓流が、鮭を探すようにアフォードするでしょう。それを繰り返して、鮭を見つけることになります。このとき、この一連の行為は、鮭の発見をゴールとする一つの探索行為を構成するということもできます。他方で、これは沢山の探索と(鮭がいないことの)発見の繰り返しでからなります。鮭が見つかるまでの沢山の探索の連鎖は、互いに対して目的手段関係にはなっていません。しかし、その一連の行為を一つの探索行為とみて、次のような欲求と行為の連鎖の中に位置づける時、それは目的手段関係を構成することになります。

  <鮭を食べたい→鮭を捕まえたい→鮭を見つけたい(探索)→鮭を見つける(発見)→鮭を捕まえる→鮭を食べる>

ところで、熊は、このような目的手段関係を意識していません。熊の行動は、(おそらく)刺激と反射行動の連鎖で出来ています。それらの行動は目的手段関係の連鎖になっており、その目的手段関係の連鎖は客観的に成立しているのですが、しかしそれは熊が理解していることではありません。しかし、人間はそれを理解できます。人間の場合には、鮭を見つけることは、様々な目的と結合しうるし、鮭を捕まえることも、様々な目的と結合しうるし、鮭を食べることも、様々な目的と結合することが可能です。人間の場合には、これらの行動を選択し、目的手段の関係において結合しなければ、この連鎖は成立しないのです。したがって、目的手段関係を意識していることが必要です。これに対して、熊の場合には、鮭を見つけるのは、捕まえるためであり、捕まえるのは食べるためであり、食べるのは生存のためです。そこには行為の選択の余地はありません。それらを意識的に結合する必要はないのです。

人間がこのように複数の行為を目的手段関係で結合することは、それぞれの知覚や行為に伴っている問答もまた結合しているということです。その結合の基本となるのは、二重問答関係です。人間の場合の知覚をめぐる問答は、単独の問答ではなくて、より上位の問いに答えるために行われ、二重問答関係を構成します。この二重問答関係は、時間的な(全体と部分の)入れ子構造になりますが、他方では論理的な(目的と手段の)入れ子構造になります。例えば、つぎのような二重問答関係になります。

  <Q2「どこで鮭を捕まえようか」→Q1「鮭はどこにいるのか」→探索→(鮭の)知覚→A1(知覚報告「ここに鮭がいる」)→A2「ここで鮭を捕まえよう」>

  <Q2「手紙を送るにはどうすればよいのか」→Q1「どこかにポストがないだろうか」→探索→(ポストの)知覚→A1「ここにポストがある」→A2「手紙をこのポストにいれるのがよい」>

動物の知覚も人間の知覚もアフォーダンスの知覚であり、(一定の条件がそろえば)一定の態度や行為が続くことになります。動物の場合には、その態度や行為は、走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動、などであり、いわば自動的に連鎖していくのです。それに対して人間の場合には、それらの知覚や態度や行為は、それぞれ探索や問いに対する答えとして成立し、二重問答関係を構成します。二重問答関係(Q2→Q1→A1→A2)におけるA1からA2への推論はA1の下流推論ですので、アフォーダンスは、下流推論を促していると言えます。

次に、動物と人間の知覚や行為における概念について考えてみたいと思います。