[カテゴリー:問答の観点からの認識]
このカテゴリーの01回から03回は、認識についての問答の区別を論じました。04回から16回は、錯覚論証の検討に始まり、脳科学と素朴実在論の結合(これを「結合説」と呼ぶことにします)を提案しました。「結合説」の説明および証明にはまだほど遠いのですが、そのためにも、ここからしばらく知覚と知覚報告について考察したいと思います。
#知覚と知覚報告と問い
日常の最もありふれた認識は、知覚報告です。「これは白い」「これは汚れている」などです。このような知覚報告はどのようにして生じ、それが真であることを保証するものは何でしょうか。
「これは白い」という知覚報告の真理性を保証するのは、知覚ですが、その知覚はたとえば「どれが白いですか」という問いに答えようとして、注意してみることによって成立します。「どれが白いですか」という問いを受けて、目の前にあるいくつかの対象をみて、それぞれが白いかどうか、に注意します。
この問いを理解する者は、「白い」を理解しています。「白い」の理解は、この語の意味を学習によります。その学習は、いくつかの対象について、問い「これは白いか」に対する正しい答え「はい」ないし「いいえ」を学習する、という仕方で行われます。この学習に基づいて、新しい対象について「これは白いか」という問いに正しく答えられるようになる時、学習が終了したことになります。
このようにして「白い」を学習している人が、「どれが白いですか」と問われて、目の前の対象を知覚するとき、それが「白い」と言えるかどうかを自問しながら、その色に、あるいは「白さ」に注目して、知覚します。このときの知覚行為はどのように行われるのでしょうか。ここに次のような問答と探索発見の二重の関係を見つけることできるでしょう。
「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」
対象が白いかどうかに注意して見ることは、探求の一種です。問答は、言語による探求ですが、言語によらない知覚的な探求をとりあえず「探索」と呼びたいと思います。言語をもたない動物も探索を行います。
ただし、ここでの探索は、対象について「それは白い」と言えるかどうかの弁別であり、そのための知覚です。したがって、この知覚は、言語的な世界の中を動いており、この知覚は、言語的な世界の中での「行為の仕方」(ノエ)であり、言語的な世界の中での「行為のアフォーダンス」(ギブソン)です(これらについては、後述します)。その意味で「言語的な知覚」だと言えるかもしれません。
ところで、動物の知覚は、非言語的な知覚です。これは人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのでしょうか。