56  朱喜哲さんへの回答(7)「合成性」ではなく「回帰性」(20211207)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(最初のupのあと「考案性」を「考案可能性」に修正しました。)

(おそくなってすみません。田舎(丸亀)から奈良に戻ってきました。)

ここから最後のご指摘に応答したいとおもいます。

(5)朱さんは、脚注8で、「推論主義ならば扱わなくてよい課題」の典型が「合成性の説明」であると指摘する。その理由は、ブランダムがBrandom(2010), p.336.で述べているという。

この指摘もまた私にとって非常に啓発的でした。確かに私は『問答の言語哲学』の2.1.3.2で、命題の意味の「合成性」を証明しようとしました。そして、それはブランダムが採用する「意味の全体論」では、不適切な問題設定となるように思われます。そうすると、問答主義と推論主義は異質であるということになるかもしれません。

 まずは、ブランダムが「合成性」について、どう考えているのかを確認したいとおもいます。朱さんが言及しているブランダムのFodorとLeporeに対する応答の文章(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Foder and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.))を読んでみました。

 それによると、Fodor とLeporeは、<言語の考案可能性(projectibility、これはおそらく、無限の文を考案できることだとおもいます。「考案可能性」がよい訳語だとは思わないのですが、他に思いつかないのでこうしました。すでに何らかの定訳があるかもしれません)、体系性、学習可能性は、合成性を前提し、合成性は意味論的原子論を要求する>と考えます。これに対して、ブランダムは、考案可能性、体系性、学習可能性を説明するのに、「合成性」は不要であり、「回帰性」で説明できると指摘します。

 ここでの議論の中心部分は、ブランダムがBSD(『語ることと成すことの間』)の第5章(特に第6節)が語っていることでした。彼は、ここで、「回帰的であるけれども全体論的な意味論」(BSD, xiix)を提案します。この第6節のタイトルはまさに「意味論的全体論:合成性のない回帰的な考案可能性(recursive projectibility without compositionality)」です。

 彼はまず、「両立不可能性」という概念を用いて、「伴立(意味論的帰結)」と「否定」を次のように定義します。

・qと両立不可能なもの全てがpと両立不可能であるときに限り、pを、qを両立不可能性-伴立するものとして定義すること、

pの否定を推論的に最もよわい両立不可能なものとして、つまり、pと両立不可能なすべてのものによって、両立不可能性-伴立されているものとして理解すること」(BSD, 133)

さらにpの「可能性」や「必然性」もまた「両立不可能性」を用いて定義します(cf. BSD, 134)。

 

ここからブランダム、<これらの論理結合子を適用して作られる複雑な論理式の意味は、その部分論理式の意味からは合成されない>といいます。

「これらの結合子のための両立不可能性意味論は、合成的ではない。それは、[…] 全体論的意味論である。」(同所)なぜなら、「そこにおいてnot-p ないしnecessarily-p ないしpossibly-pと両立不可能であるものは、他の命題qと両立不可能であるものに依存している」(同所)からです。

このようにブランダムも言語の考案可能性、体系性、学習可能性を認めます。これらは意味の全体論を批判するときによく挙げられる論点です。これらは文の意味の「合成性」で説明されることが多いのですが、ブランダムは、文の意味を部分の意味から合成しません。ここでは、「両立不可能」という概念を回帰的に反復して使用することによって、しかも全体論的に、文の意味を説明します。

私の議論がこれとどう関係するのか、それについて、次回に説明したいとおもいます。