[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
まず三木さんの質問1(A)「「コミットメント」とは?」に答えたいと思います。三木さんは、コミットメントに関連して、次の3つの問いを上げています。
「なぜコミットメントを説明責任に局限するのか」
「コミットメント概念をほかの仕方でなくこの仕方で解釈すべき理由や解釈したい理由があるなら伺ってみたい」
「なぜ遂行責任を含むような幅広いコミットメント概念ではなく、説明責任へと限定した形でこの概念を用いるのだろうか?」
合評会でも述べましたが、何かにコミットすることとは、常に、何かを選択することであると考えます。(ただし、動物も選択すると言えるでしょうから、これの逆は言えません。つまり何かを選択することが直ちに、何かにコミットすることではありません。)さらに、何かにコミットすることは、単に何かを選択することではなく、その選択に責任が伴うような選択をすることであると考えます(尤も、人間が行う選択は、つねにその選択に責任が伴うような選択であるかもしれません)。この場合、選択に伴っている責任とは、何でしょうか。
第一に、「なぜそれを選択したのか」についての説明責任です。第二に、その選択からある義務が帰結するのならば、その義務を引受ける責任があると思います。例えば、その選択からある履行の義務が生じるとすれば、その履行義務を引受けることが選択に伴う責任に含まれると思います。
一般的に、履行義務(履行責任)があるとは、履行した場合もしない場合も、それについての説明責任があるということだといえるでしょう。なぜなら、「責任(responsibility)」とは、かつて大庭健が強調したように、応答可能性であり、応答の責任、つまり説明責任だからです。(たとえば、政治家が、或ることについて自分に責任があると言ったならば、それについての、またその結果についての説明責任が生じます。)
発話へのコミットメントに話しを限るとき、ある発話へコミットするとは、その発話の上級問答推論と下流問答推論にコミットすることです。そして、それはこれらの問答推論についての説明責任を引受けることだと考えます。
以上の説明が、上記の3つの問いに対する答えになるだろうと思います(個別に答えようとすると、重複が多くなってしまうので、このような答え方になりました)。上記の説明をさらに短く次のようにまとめられると思います。
<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>
三木さんは「説明責任」に関連して、次の質問もしていました。
「あるひとがある主張をする。そのひとはしかし、その主張の根拠を問われても、答えることはできない。そのひとはただ「自分はそれが正しいと信じている」、「ただそうすべきだと思うのだ」といったことを言うだけなのだ。だがそのひとは確かに、自分が主張していることに従った行動をし続けている。こうした場合に、このひとは自身の発言にコミットしているのだろうか、していないのだろうか?」
私は、人が何かを信じるならば、明示的に根拠を語ることができないとしても、何らかの根拠があると考えます。したがって、そのような場合にも何らかの上流推論があるだろうと考えます。しかし、それを本人が明示できないことはあるでしょう。そのような場合でも、人は発話にコミットしており、発話に対しての責任が生じると思います。つまりその発話から帰結する下流推論の結論にコミットする責任があると考えます。
三木さんは「説明責任」に関連して次のような危惧を述べています。
「社会的マイノリティが被る害や不都合に理由を訊ね、正当化を求めるという実践は、しばしば足を退けるのを後回しにするための言い訳として機能している」また「社会的マイノリティが経験する差別やさまざまなマイクロアグレッションについては、しばしばそれが害や不都合をもたらしていることはわかるが、それをマジョリティにわかる仕方で説明することが困難である」。
これらの危惧を、<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>、また<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>とまとめておきます。この危惧にもとづいて、三木さんは次のような危険性を指摘します。
「もしも(1) コミットメントを伴う発話こそが誠実な発話であると想定し、かつ(2) コミットメントとは説明責任であるとしたならば、社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになるのではないか。」
つまり、この(1)と(2)の前提に、上記の危惧<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>という前提が加われば、「社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになる」ということが帰結するということです。
この懸念は重要ですが、そのとき重要になるのは、前提の(1)(2)の見直しというよりも、追加される前提<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>ということが成り立たないようにすることであり、そのためにはその状況について問答を重ねるしかないだろうとおもいます。ここでは、社会の中でのコミュニケーションのメカニズムの分析が重要になります。『問答の言語哲学』では、第三章で差別発言について少し考察しましたが、社会関係の中でコミュニケーションの分析には、立ち入っていません。(それについてはいつか『問答の社会哲学』(仮題)で論じたいと思います。)