[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
次のご質問「1(B): 語句へのコミットメントとは何か?」に答えたいと思います。
『問答の言語哲学』では、三木さんが言うように、コミットメント概念が文未満表現の使用に関する説明にも用いています。「これ」や「Xさんの車」や「赤い」による対象の指示や性質の表示を、コミットメント概念をもちいて説明しています。これについて、三木さんは次のように質問します。
「入江さんは文レベルの発話へのコミットメントは1(A) で述べたような説明を与えているものの、語句レベルのコミットメントについての説明は特にしていなかったように思う。そこで仮にこれらが同じ意味合いで用いられていると仮定しよう。すると「「これ」を使用したならば、「これ」である対象を指示するということについて、その根拠を説明する用意がある、ということになるだろう。」「しかし、一般的に言って、そのような用意を私たちは会話において持っているだろうか?」
私は、暗黙的には、その根拠を説明する用意があると思います。朱さんの質問への回答に書きましたように、文未満表現の理解と使用も、文の理解と使用も、ともに問答推論関係において成立し、明示化されると考えますので、文未満表現の使用へのコミットメントも文の使用へのコミットメントも、問答推論へのコミットメントによって説明されるものであり、その限りで同種のものだと考えています。より具体的には次のようになります。
発話の意味を理解するとは、上流と下流の問答推論の正しものと正しくないものを判別できる能力を持つことであるのと同様に、語句の意味(使用法)を理解するとは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。また、実際にその語句を使用すること(つまりその語句によって現実の文脈において対象や性質や関係を指示ないし表示すること)にコミットすることは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。このことは、文未満表現についても、(暗黙的には)使用の根拠を説明する用意がある、ということだと考えます。
これに関連して、三木さんから次の質問がありました。
「ところで、語句レベルのコミットメントとして、「指示するということへのコミットメント」といった語り
かたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」
指示するということは、ある語である対象を指示するという関係ですが、これが成り立つためには、例えば、「語Xでどの対象を指示しているのか」と問われたときに、「XでYを指示しています」と言うように答えられる必要があります。このとき、「X」と「Y」は同一対象を指示する異なる表現です。このような「Y」がなければ、「X」で特定の対象を指示することは出来ません。ある語句である対象を指示するためには、指示対象が同じで意味が異なる二つの表現が必要なのです。また必要に応じてこのような問答ができることが必要なのです。語による対象の指示は、語と対象の二項関係ですが、この二項関係が成立するには、他の語や、それらの語を使用した問答が成立しなければなりません。ある対象を指示したり、それについて何かを述定したりすることは、このような問答関係の中で成立します。このように考える時、素朴な表象主義が考えている二項関係(たとえば、パトナムが揶揄しているように、指示光線のようなもの)を有意味な仕方で理解することは困難です。
ある語句である対象を指示するということを、語句の概念内容(心的内容)を対象そのものや対象についての心的表象と結合するとして説明することできません。なぜなら、それが理解不可能だからです。オースティンが言ったように、語「リンゴ」の定義と対象<リンゴ>の定義は、同時にしかできないからです。これは一般名の場合ですが、指さし行為をともなう「これ」である対象を指示することがありますが、そのときに「これ」で指示されている対象を世界の中から取り出すことは、「これ」による指示の前には不可能です。もしそれができているとすれば、その対象は、その前に、別の言語表現を用いて取り出されているのだとおもいます。
現代の有力な知覚論であるギブソンのアフォーダンス論、ノエのエナクティヴズムでも、知覚表象というものを認めません(これについてはカテゴリー「問答の観点からの認識」(17~20回)で説明しました)。したがって、対象について「それはハエだ」とか「それは赤い」と知覚報告をするときにも、それを、知覚表象について報告、あるいは知覚表象を介する報告として説明することは困難です。(ただし、私はローティによる近代の表象主義的認識論への批判には賛成しますが、反表象主義的な認識論の可能性が残っていると考えています。認識を、事実に対応した命題を獲得することと考えずに、問答として考えます。事実については、問いを入力とし、答えを出力とする関数として考えています。)