[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
三木さんは、語用論的矛盾について次のように質問していました。
「一般的に言えば、ある文が意味論的に矛盾しているというのは、その文がそこに現れる語の意味ゆえに真であり得ないということだろう。語用論的矛盾は「発話行為(音声行為、用語行為)とその命題内容があるいは発語内行為とその命題内容が」衝突することだとされる(208 頁)。ここで入江さんはいくつかの語用論的矛盾を挙げているが、肝心の「矛盾」の意味があまり明示的でなく、「整合的ではないと感じられる」とだけ語られている(209 頁)。」
「整合的ではないと感じられる」理由については、一応次のように説明していました。
「なぜなら、語用論的矛盾(A)では、発話行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾し、語用論的矛盾(B)では、発語内行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾しているからである。」
これをより具体的に言うと次のようになります。
語用論的矛盾(A)の例を説明すると、「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と「ここでは静かにしてください」という二つの命題内容が論理的に矛盾する、と言うことになります。
語用論的矛盾(B)の例を説明すると、「私は「私は存在しない」と主張する」と「私は存在しない」という二つの命題内容が論理的に矛盾する。
三木さんが言うように、これではまだ曖昧かもしれません。
まず、簡単な方の、語用論的矛盾(B)の例で考えてみます。「私は存在しない」という発話の発語内行為を話し手が記述した命題の内容「私は「私は存在しない」と主張する」と発話の命題内容「私は存在しない」は矛盾します。「Xが主張するならば、Xは存在する」という前提を加えるならば、それと前者から、「私は存在する」が帰結し、これと後者「私は存在しない」が論理的に矛盾します。
説明が難しいのは、語用論的矛盾(A)の例です。「ここでは静かにしてください」という発話の発話行為を話し手が記述した命題の内容「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と発話の命題内容「ここでは静かにしてください」は、厳密にいうならば、何処が矛盾しているのでしょうか。「大きな声でいう」ことと、「静かにしてください」という依頼内容は、pと¬pというような論理的矛盾にはなっていません。
後者「静かにしてください」は依頼の発話であり、その依頼内容が実現した状態「教室が静かである」と、前者の「私が大きな声で言う」という状態が両立不可能であり矛盾するといえるかもしれません。しかし、依頼内容が実現した状態は、未来の状態であるのたいして、「私が大きな声で言う」は現在の状態ですので、これも厳密に言うと両立不可能ではありません。
「静かにしてください」(と大声で言う)ことのおかしさを、どう考えたものでしょうか。この難しさは、依頼の発話ゆえに生じる難しさだと思われます。依頼の発話でなければ、発話行為と命題内容の語用論的矛盾の説明は簡単です。例えば、
「私は静かに話している!」(と大声を出している)
この場合には、この発話行為の話し手による記述「私は「私は静かに話している」と大声を出している」と、命題内容「私は静かに話している」は、論理的に矛盾します。
依頼の発話行為と命題内容の矛盾についての考察は、次回に回させてください。ここでは『問答の言語哲学』で抜け落ちていた語用論的矛盾の別のタイプを追加しておきたいと思います。
#語用論的矛盾の新しいタイプの追加
前提承認要求と命題内容が矛盾する場合を、語用論的矛盾(C)として追加したいと思います。(この語用論的矛盾や問答論的矛盾については、ずいぶん前から本書に書いたように考えてきました。他方「前提承認要求」を想定するようになったのは、近年のことなので、その考察が抜けたままになっていたのです。これは全く私のミスです。)
語用論的矛盾(C)の例は、次のようなものです(差別用語を例に使って説明しますが、それはこのような例が重要だと思うからで、差別的な意図はありません。)
「私はジャップを差別しません」
これは、「ジャップ」という語の使用が日本人にたいする差別的な判断を前提しており、その語が含まれる文を発話することは、その前提(その語の妥当性、有用性)を承認することを要求することになります。したがって、この前提承認要求と、命題内容が矛盾します。