68三木さんへの回答(9) 依頼や命令の語用論的矛盾について(20211227)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#前回の考察の中で、発語行為と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(A)のなかで、発話が依頼や命令である場合には、それがどのような矛盾になっているのかを説明することが難しいことが分かりました。

  「静かにしてください」(と大きな声で言う)

の場合、前回次のように述べました。

「後者「静かにしてください」は依頼の発話であり、その依頼内容が実現した状態「教室が静かである」と、前者の「私が大きな声で言う」という状態が両立不可能であり矛盾するといえるかもしれません。しかし、依頼内容が実現した状態は、未来の状態であるのたいして、「私が大きな声で言う」は現在の状態ですので、これも厳密に言うと両立不可能ではありません。」

ここで語用論的矛盾を説明することが難しいのは、<依頼や命令の発話は真理値を持たないので、発語行為の記述(これは真理値を持ちます)との間に、「p∧¬p」という形式の矛盾が成立しない>ことにあるのだと思います。

ただし、この発話の場合でも、(真理値の両立不可能性を示すことは出来ないとしても)、コミットメントの両立不可能性を示すことは出来そうです。つまり、「静かにしてください」という依頼にコミットすることと、「私が「…」と大きな声でいう」ことにコミットすることは、両立不可能だと思います。何故でしょうか。

<コミットメント一般>については、前の発言(60回)で次のように説明しました。

<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>

<発話へのコミットメント>については、以前の発言(54 朱喜哲さんへの回答(5))での説明「結論pの真理性にコミットすることは、前提の問いQとpの問答関係Q-pにコミットするということです」を踏まえて、次のように言うことができます。

<命題pの(真理性/適切性)にコミットすることは、(相関質問Qとpの)問答関係Q-pにコミットするということです。> さらに言えば、<問答関係Q-pにコミットすることは、Qの答えとしてpを責任をもって選択することです。>

「静かにしてください」という依頼発話の適切性にコミットすることは、それの下流推論の結論として、自分もまた静かにすることの適切性にコミットすることが帰結するでしょう。この適切性は、「私が「…」と大きな声でいう」という行為の適切性にコミットすることと両立不可能だと言えるのではないでしょうか。

依頼や命令の発話の命題内容にコミットすることは、(真理性ではなく)適切性にコミットすることであり、他方、発語行為にコミットすることもまた、行為の適切性にコミットすることであるから、コミットメントのレベルで、両立不可能性が成立するのです。

以上の説明は、依頼や命令の発話が引き起こす語用論的矛盾はタイプ(A)の場合だけでなく、(B)(C)の場合にも妥当します。それを見ておきたいとおもいます。

#発語内行為と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(B)でも、発話が依頼や命令である場合には、その矛盾を説明することは同様の難しさを持ちます。

  「私の命令に従うな」(と命令する)

この場合、命令という発語内行為の適切性にコミットすることは、「私の命令に従うな」という命題内容の適切性にコミットすることと両立不可能です。

#前提承認要求と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(C)でも、発話が依頼や命令である場合には、その矛盾を説明することは同様の難しさを持ちます。

  「ジャップを差別するな」(と命令する)

この場合、「ジャップを差別するな」という命題内容の適切性にコミットすることは、この前提承認要求を話し手が記述したときの内容「私は「ジャップ」が有効な概念であることを承認するように要求する」というこの要求行為の適切性にコミットすることは、両立不可能であるように見えます。

#ムーアのパラドクスと三木さんの提案について

三木さんからの「語用論的矛盾」の定義についての魅力的な提案が有りましたので、それについて考えてみたいと思います。

「よく挙がる語用論的矛盾の例と言えば、ムーアのパラドックスであろう。「雨が降っている。しかし私は雨が降っているとは思わない」のような発話は、意味論的には矛盾していないにもかかわらず、決してまともにはなされない。こうした現象が、発見者の名にちなんで「ムーアのパラドックス」と呼ばれている。こうしたものが語用論的矛盾であるとすると、矛盾であるかどうかの判断基準は「それを適切に発話できる状況があり得ない」といったことだろう。ただ、これは入江さんの基準とは異なりそうだ。というのも、「ここでは静かにしてください」と大声で言ったり、「私はどんな約束もしません」と約束したりということを、ひとは言うことがあるだろうし、そしてそうした発話はムーアのパラドックスとは違って、適切なものとして理解可能である場面が多いように思えるからだ(騒がしい教室で委員長が大声で注意するといった状況は、特に何の苦もなく理解可能であるように思える)。」

ここでの三木さんの提案、ある発話が語用論的矛盾であるかどうかの判断基準は「それを適切に発話できる状況がありえない」とするのは、魅力的な提案なので、検討してみたいと思います。

気になった点の一つは、三木さんが、ムーアのパラドクスについては、そのような状況はないが、私が語用論的例として挙げたものについては、そのような状況があると見なしている点です。果たしてそうでしょうか。ムーアのパラドクスを発話する場合もあるのではないでしょうか。ムーアのパラドクスは一般的に表現すれば、「p。私はpと信じない。」という発話です。

例えば、

  「漱石は偉大な文学者です。しかし、私はそうは思いません。」

このように言うことがあるのではないでしょうか。もちろんこれを文字通りに理解するとおかしいので、その場合に、私たちはそれを例えば次のような意味に理解します。

  「たしかに世間では漱石は偉大な文学者とみなされています。しかし、私はそうは思いません」

ムーアのパラドクスは一般的に表現すれば、「p。私はpと信じない。」という発話です。(ムーアのパラドクスは、私が分類する語用論的矛盾(B)に属するものです。ムーアのパラドクスは、二つの文で示されることが多いのですが、勿論これを連言でつないで「p、かつ私はpと信じない。」あるいは「pであるが、私はpと信じない。」という一つの文の発話に換えることもできます。このように言い換えても、ここでの議論には関わらないと思います。)(ちなみに私は、漱石は文字通りの意味で偉大な文学者だと思っています。)

気になるもう一つの点は、確かに騒がしい教室で委員長が大声で「静かにしてください」と注意するといった状況は、特に何の苦もなく理解可能です。しかし、そのとき多くの生徒は「あなたがうるさい」とつぶやくでしょう。つまり委員長の発話は、「適切」なものではないとつぶやくのです。つまり、委員長が大声で「静かにしてください」という大声の発話もまた、「それを適切に発話できる状況がありえない」といえそうです。もちろん、委員長の発話は「適切に」発話されている、と言うこともできるかもしれません(この点については確信は持てません)。

このように検討するとき、語用論的矛盾を、「それを適切に発話できる状況がありえないこと」と定義するときには、「適切に」をより明確に説明する必要がありそうです。今回の前半の考察を踏まえて、この「適切に」を次のように言い換えられるのではないでしょうか。

「ある発話が語用論的矛盾であるかどうかの判断基準」

=「それを適切に発話できる状況がありえないこと」

=「それを発話することがコミットメントの両立不可能性をおこさない仕方で、それを発話できる状況がありえないこと」

この定義の問題点は、この定義項は、問答論的矛盾にもあてはまる可能性があるという点です。問答論的矛盾と語用論的矛盾を区別しようとするならば、この定義はさらに修正の必要があります(問答論的矛盾と語用論的矛盾の区別は、それぞれについて私が本書で行った定義がまだ有効であり、その定義を用いて行うことできると考えますので、ここではこの修正に立ち入りません)。

 次は、三木さんの最後のご質問「規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?」に答えたいと思います。