[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]
次の質問「2(C):規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?」に答えたいと思います。
三木さんは、2(B)では、「問答論的矛盾」が一般的によくわからないという疑問を提起し、この2(C)では、とくに「規範的超越論的条件の導出」の議論がよくわからないという疑問を提起します。具体的に「4.3.5.1根拠を持って語る義務」と「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」の議論を検討しています。
#「根拠を持って語る義務」について
ここで私は、この義務を、語用論的矛盾を用いて論証することもできるし、問答論的矛盾を用いて論証することもできると述べましたが、三木さんは「いずれもひとつ理由が呑み込めなかった」と言われていますので、説明したいと思います。
まず「人は根拠なしに何かを主張できる」という主張が語用論的矛盾になるということについての疑問をつぎのように述べています。
「第一に、「ひとは何かを主張するために根拠を持つ必要はない」というのは単に義務の否定であって、「根拠を持ってはならない」という主張ではない。だとすると、この主張自体は根拠を持っておこないつつ、しかし根拠なしになされる主張も認めるというのは可能なのであって、その場合、特に語用論的に矛盾したことはしていないのではないだろうか?(実際、私は1(A) でそれをしていた)」
もしこの最後の部分「語用論的に矛盾したことはしていない」を「意味論的に矛盾したことはしていない」と書き換えるならば、それは正しいとおもいます。つまり、この説明は、「ひとは何かを主張するために根拠を持つ必要はない」という発話の命題内容の意味を分析しているように見えます。そして、そこから矛盾が生じないことを説明しているのだと思います。ただし、私が言いたいことは、この命題内容は、主張という発語内行為と矛盾するということ、つまり語用論的に矛盾するということです。
私がこの発話「人は根拠なしに何かを主張できる」が語用論的矛盾になることを論証するときには、主張と言う発語内行為が「何かを主張するためには根拠を必要である」ということを語用論的に前提するということをよりどころにしています。この発語内行為の前提と命題内容「人は根拠なしに何かを主張できる」が矛盾するので、この発話は語用論的に矛盾するのです。
次に、三木さんは次の問答論的矛盾に関する疑問を提起します。
「人は何かを主張するとき、根拠を持っているべきか?」
「いいえ、人は何かを主張するために、根拠を持つ必要はありません」
三木さんは、これが問答論的に矛盾することに対して次のような疑問を提起します。
「第二に、これが問答論的に矛盾することの理由として、「ふつうは、主張発話を返答に要求する質問は、根拠を持った返答を要求する」とあるが、「ふつうは」という話から問答自体の超越論的条件を導出することはできるのだろうか? 「ふつうは」とわざわざ断られているように、普通でない状況なら根拠を持たない返答を要求することはいくらでもある。「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」といった断りが加わるだけで、質問は即座に根拠を持った返答を要求しない質問になる。また、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない(「頭が痛いの?」「うん、痛い」「痛いと考えるのはなぜ?」)。あるいはこれを、「一人称権威とは、それ以上の根拠を必要としない主張と関連する現象である」と語り直してもいいかもしれない。いずれにせよ、例外があるならば、それは普遍的に妥当することではないのではないだろうか? それにもかかわらず、その非普遍的な現象を問答の超越論的条件へと格上げできるのはなぜなのだろうか? 2(B) で述べた「文字通りの意味」とともに、ひょっとしたらここでも何か「標準的な問答」のような暗黙の領域制限がなされているのだろうか? だとしたら、それはいったい何なのだろうか?」
*まず次の部分に応答したいとおもいます。
「「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」といった断りが加わるだけで、質問は即座に根拠を持った返答を要求しない質問になる。」
この場合、「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」は、つぎのような質問として理解できます。「理由は説明できなくていいから、まずは、あなたの考えは何かですか(あるいはあなたはどう考えますか」この質問への答えは、自分が考えていることと一致する必要がある。つまり、この答えの根拠となるのは、自分が考えていることであって、その考えの根拠ではないということです。つまりこの質問の答えもまた、根拠を必要としているのです。
*次に次の部分に応答したいと思います。
「また、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない(「頭が痛いの?」「うん、痛い」「痛いと考えるのはなぜ?」)。」
たしかに、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない。しかし、それは根拠を持たないということではない。なぜなら嘘の返答が可能だからです。例えば、
「頭が痛いの?」「うん、痛い」
という問答の答えが、嘘であることは可能です。「頭が痛い」が嘘であるとは、それが偽であるということであり、それが偽であるということは、本当はあまたが痛くない、と言うことです。もちろんこのことは、本人にしかわかりませんが、「頭が痛い」という発話にも根拠があります。このことは「これは赤い」という知覚報告が答えになる場合も同様です。この場合もそれに嘘と本当の区別があるということは、根拠があるということ(その根拠は、知覚報告とは区別される、知覚です)。
これらの場合の根拠は確かに命題知ではありません。しかし、感覚や知覚などが根拠となっており、問いに対する答えとしてある知覚報告を選択とすることを正当化するのです。
*三木さんは、例外となりそうな上記のふたつの事例を挙げたうえで次のように問います。
「いずれにせよ、例外があるならば、それは普遍的に妥当することではないのではないだろうか? それにもかかわらず、その非普遍的な現象を問答の超越論的条件へと格上げできるのはなぜなのだろうか? 2(B) で述べた「文字通りの意味」とともに、ひょっとしたらここでも何か「標準的な問答」のような暗黙の領域制限がなされているのだろうか? だとしたら、それはいったい何なのだろうか?」
この質問に答えたいと思います。
私が「ふつうは、主張発話を返答に要求する質問は根拠を持った返答を要求する。なぜなら根拠のない返答を得ても質問者にとっては意味がないからである。」(『問答の言語哲学』236)と書いたとき、「ふつうは」と書いたのは、まさにここでの問い「人は何かを主張するとき、根拠を持っているべきか?」が、そのような「ふつう」の問いではないと考えていたからです。
この問いは、ふつうの決定疑問のように、「はい」(肯定)と「いいえ」(否定)の二種類の答えの可能性を想定しています。言い換えると、この問いもまた、返答が根拠をもつことを要求します。しかし、否定の返答の場合には、それは根拠を持たない可能性があります。そのとき、否定の返答は、これは問いの要求と矛盾するのです。つまり、この問いは、ふつうの問いではなく、いわば「不適格」な問いなのです。「問答論的矛盾は、問いと答えの間の矛盾である。より正確に言うと不適格な問いと答えの命題内容の矛盾である」(『問答の言語哲学』215)と定義していたのは、そういう事情でした。問答論的矛盾を引きおこさない「ふつう」の問いと、問答論的な矛盾を引き起こす「不適格な」問いとの区別が、ここで念頭にあったことです。
次に、「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」の議論についての疑問に答えたいと思います。