70三木さんへの回答(11) 嘘をつくことの禁止について(20211230)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#嘘の禁止について

「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」(『問答の言語哲学』236-238)では、問答論的矛盾にもとづいて、嘘をつくことの禁止を超越論的に論証しました。

  「ひとは嘘をついてもよいのですか?」

    「はい、ひとは嘘をついてもよいです」

    「いいえ、ひとは嘘をついてはいけません」

この場合「はい」の返答は問答論的矛盾になるので、「いいえ」と答えることが必然的になるということ、つまり「嘘をついてはいけない」ということです。この「はい」の返答が問答論的矛盾になるというは、次のようなことです。

「「ひとは嘘をついてもよいですか?」という質問は、返答者が真だと信じる答えを要求している。しかし、「はい、ひとは嘘をついてもよいのです」という答えは真だと信じる答えへの要求と矛盾する。」(同書、237)

したがって、この質問に対しては「いいえ、ひとは嘘をついてはいけません」と答えることが問答論的必然になる、という論証でした。

#三木さんは、まず次の反例を述べます。

「「ひとは嘘をついてもよいのですか?」「はい、人は嘘をついてもよいです」の例(236 頁)にも同様の疑問を持つ。「はい、ひとは場合によっては嘘をついてもいいんです。子どもの夢を守るためにサンタクロースがいるという嘘をつくひとは、悪いことをしているわけではありませんよね? ひとを慰めるために安心させるような嘘をつくひとは間違っていますか?」などという回答は、普通になされうるだろう。」

このような返答が行われることがあるというのは、その通りです。私は、このような返答は問答論的に矛盾しているので本来はありえないと思います。ただし、人は矛盾に気づかないで矛盾した発言をすることがあるので、このような返答が行われることがあるのだとおもいます。嘘の禁止を正当化する論証にはいろいろなものがありますが、条件付きで嘘をつくことを認める論証にもいろいろなものがありますが、本書での論証は、「嘘をついてもいいです」と返答することが、問答論的矛盾になるのでありえないということです。(条件付きで嘘をつくことを認める論証とも原則的には両立不可能だと考えますが、両立させる方法がないわけではありません。それは別の議論になるのでここでは立ち入りません。『問答の実践哲学』で論じる予定です。)

 「嘘をついてもよいです」の返答が問答論的矛盾になることについての上記の説明が少しわかりにくいかもしれないので、もう少し丁寧に説明します。

 「人は嘘をついてもよいですか?」という質問に限らず、質問は常に返答者に真であると信じる答えを求めています(大喜利のように、真でなくても気の利いた答えを求める場合は例外とします)。ところで、問答が成立するためには、問いの前提を答えは継承しなければなりません。この場合の問いの前提「問いは常に返答者に真であると信じる答えを求める」を受け入れいれています。つまり「返答することは常に、真であると信じる答えを返すことである」という前提を受け入れています。

 さて、何かを語ることは、暗黙的には常に相関質問に答えることであるとすると、「ひとは嘘をついてもよいですか?」という問いは、「ひとは、質問に対して真なる答えをしなくてもよいですか?」と同義となり、先の問答は、次のようになります。

  「人は、質問に対して真なる答えをしなくてもよいですか?」

  「はい、人は質問に対して真なる答えをしなくてもよいのです」

この答えは、返答の前提「返答することは常に、真であると信じる答えを返すことである」と矛盾します。したがって、「はい、ひとは質問に対してしなる答えをしなくてもよいのです」と答えることは、(もし返答するものが矛盾を避けようとする合理的な話し手ならば)<ありえない>のです。

#もう一つの問題提起

「このあたりが気になるのは、規範的超越論的条件の導出が、「である」から「べき」への推論となっていることと関係があるかもしれない。ここでの議論は、事実としてある種の問答が矛盾していることから、根拠のない主張や嘘の禁止という規範が導出されている。しかし、事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。そうすると、事実から規範を導出したいにもかかわらず、事実のほうには「不純物」*5が入ってしまっている。本書のこのあたりの議論を読むと、問答に関してそうした「不純物」を取り除ける前提がどこかで置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められているのではないかという印象を受ける。どういった議論になっているのか、改めて確認したい。」

#まず前半部分について

「このあたりが気になるのは、規範的超越論的条件の導出が、「である」から「べき」への推論となっていることと関係があるかもしれない。ここでの議論は、事実としてある種の問答が矛盾していることから、根拠のない主張や嘘の禁止という規範が導出されている。」

三木さんがここで言おうとしていることは、次のようなことではないかと推測します。「ひとは嘘をついてもよいのですか」という問いの中にすでに「よい」という規範的な語彙があります。この問いを受け入れてそれに答える時「よい」や「いけない」などの規範的な語彙を使用することになります。ただし、問いは、規範的な語彙を使用していますが、規範的な判断はしてはいません。これに対して、その答え「はい、人は嘘をついてはいけません」は規範的な判断を行っています。この答えを導出するときに、問答論的矛盾という「である」関係を用いています。それゆえに、「である」関係を用いて、「人は嘘をついてはいけません」という規範を推論していることになります。

この指摘は大変重要な指摘なのですが、このままではまだ不十分だとおもいます。これまで本書で語って来たように、発話は、相関質問との関係において、明晰な意味をもち、内容にコミットするものとして成立するのです。したがって、「人は嘘をついてはいけません」という規範的な返答もまた、規範的語彙を含む相関質問「人は嘘をついてもよいですか?」への返答として発話されることによって成立するのです。つまり、ここでの返答は、<相関質問>と<その相関質問と否定の返答が問答論的矛盾になるという事実>を前提とする問答推論の結論として成立するのです。(ちなみに、言語の規則に従うという規範性もまた、問答推論の中で成立することを、「4.3.3.3 言語の規則に従がうこと」(同書、230-233)で論じました。)

#以上のように考えた上で、後半部分に答えたいとおもいます。

「しかし、事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。そうすると、事実から規範を導出したいにもかかわらず、事実のほうには「不純物」*5が入ってしまっている。本書のこのあたりの議論を読むと、問答に関してそうした「不純物」を取り除ける前提がどこかで置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められているのではないかという印象を受ける。どういった議論になっているのか、改めて確認したい。」

この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。

もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。(ただし、三木さんの「不純物」という言い方を今ひとつ理解しきれていないような気がするので、これでご質問に対する回答になっているのかどうか、自信がありません。)

 以上で、三木さんの質問に一応ほぼ答えたとおもいます。ただし、まだ三木さんの疑念を払拭できていないかもしれません。三木さんのご質問は、私の記述の曖昧なところを指摘するもので、それに回答する過程で、記述の曖昧さ、抜け落ちていたことがらなどに気づくことができ、自分の主張をより明確にできたことを感謝申し上げます。

 次回からは、当日の他の参加者から頂いた質問に(三木さんから頂いた、指示と述定に関する質問にも)答えたいとおもます。

 みなさま、よい年をお迎えください。