76 佐々木さんの質問への回答(5) ブランダムのハーバーマスへの応答(2)二人称視点の軽視について (20220116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスのブランダムへの懸念2は次でした。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

ハーバーマスは、話し手と聞き手の二者関係でのコミュニケーションが、コミュニケーションの基礎にあると考えます。そこでは伝達よりも、同意の獲得が目標とされています。ハーバーマスは、この点を重視し、相互理解を言語の目的と考えます。それに対して、ブランダムはI-youのコミュニケーションの重要性に気づいていないと批判します。

ブランダムは論文のIIで、これに対して次のように応えています。

<ハーバーマスの言うようにI-you交流は重要であるのかもしれないが、その点に確信が持てない> と。

 しかしブランダムは、言語の目的を相互理解や合意の達成だとすることに反対します。なぜなら、共同行為は、そのような相互理解なしに可能だからです。全員が同じことをする軍隊の行進ではなく、ダンスをモデルに考えます。ダンスでは、パートナーは異なる動きをします。それがうまく組み合って滑らかなダンスになるのですが、しかしその時に、二人がダンスについて一つの理解を共有していることは確かめられないし、必要でもない、と言います。

二人は、「それぞれの異なる運動の協働によって構成されるダンスをシェアしている」のですが、「そのようなプロセスにおいて「共有」されているものは、様々なパースペクティヴから現象するのであり、そのさまざまなペースペクティヴへの指示による以外には、原理的に特定不可能である。」(363)

「言語的実践は何かのためではない。それは、全体として、目的やゴールをもたない。たしかに、言語的実践は、多くの機能をみたす。しかし、そのどれも言語の存在理由ではない。」363

ここでまでの応答は正しいように私には思われます。しかし、ブランダムはさらに次のように踏み込みます。

「相互理解、協働的な企ての追求は、言語的実践によって可能になる。しかし、私は、それらを、言語的実践の核心や目的やゴールであると見なすことできるとは思わない。」364

「MIEの目的は、より基礎的な主張実践を記述することであり、そこで問題になるのは、どんな遂行、反応、スコア記録の態度が適切であるのか、ないし正しいのか、ということである。」364

遂行的な発話行為が、主張型の発話よりもより基礎的であると考えるハーバーマスは、ここで戸惑うでしょう。ブランダムにとっての「主張」は、オースティンが事実確認型発話と行為遂行型発話に分けたときの「事実確認型発話」や、サールの発語内行為の分類の中の「主張型発話」とは一致しないものであるように思われるからです。

ブランダムは、とにかく「主張」を言語にとっての中心的なもの(down town)とみなすのです。ハーバーマスならば、ブランダムがこのような「主張」を言語の中心的なものとすることができることの背景には、つまり相互理解を目指さなくても問題が生じないと考える背景には、概念実在論の想定があると指摘するかもしれません。(この点についての私の考えも、後に述べることにします。)

 次に、最後の懸念3についてのブランダムの応答をみたいとおもいます。