69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。